〇橋爪大三郎、大澤真幸『げんきな日本論』(講談社現代新書) 講談社 2016.10
オビの表には「日本ってこんなにおもしろい!」、裏返したら「なぜ日本人は、かくも独自の文化を生み出せたのか?」とあって、一瞬ぎょっとした。近ごろ世間に蔓延する「日本スゴイ」病の匂いがしたのだ。いや、橋爪大三郎さんと大澤真幸さんに限ってまさか、と思いながら、かなり警戒しつつ読み始めたが、すぐに杞憂だったことが分かって、楽しく最後まで読み通せた。
本書は、通常の時代区分とは少し違って「はじまりの日本」(~奈良)「なかほどの日本)(平安~室町)「たけなわの日本」(安土桃山~幕末)の三部構成になっており、さらに橋爪大三郎が用意した各部6問、計18の疑問で章立てされている。「なぜ信長は安土城を造ったのか」というような具体的な疑問でありながら、その時代の政治・文化・思想の論点が鮮明に浮かび上がってくる疑問が選ばれている。対談をリードするのは橋爪さんで、「なるほど」を連発する大澤さんの楽しげな雰囲気が読者にも伝わってくる。
印象的だった指摘をいくつかあげておく。漢字と仮名の表記システムに関連した日本語論で、日本語の話者は、音声でやりとりしているときでも文字をイメージしているという説。確かに耳で「よむ」と聞きながら「読む」か「詠む」かを識別するのは普通のことだ。外国語を覚えるとき、指で空中にスペルをなぞるのは私もよくやるけど、あれは日本人特有の動作なのだそうだ。外国人(西洋人)は音声言語をそのようには聞いていないと教えられて、ちょっとびっくりした。
摂関政治と院政について、橋本治さんの『権力の日本人:双調平家物語ノート1』『院政の日本人:双調平家物語ノート2』をお二人が挙げていたのは嬉しかった。律令制(天皇親政)→摂関政治→院政→武家政治の連続性と不連続性は、まだ十分腑に落ちないけど面白いテーマだと思っている。
武士には馬が重要、という指摘は面白かった。刀よりも弓矢よりも馬なのだ。武士は戦いと同時に輸送や交易にも関係する集団だった。この武士集団から、日本独特の組織原理である「イエ」(本質は機能集団なのに擬制的な血縁関係でもある)が生まれたと考えるのは大澤さん。一方、橋爪さんは「イエ」は幕藩制になってから確立した概念だと考える。
室町時代(惣村の成立)以降の日本の農民は、ヨーロッパの農奴や中国の農民に比べると、かなり自立的だった。日本の貴族(公家)、武士、農民というのは職能カテゴリーであって、身分とはいえないのではないか。これはヨーロッパ的な「身分社会」との比較を念頭に論じられている。ちなみに中国社会も、文字の読める農民と読めない農民がいるだけで、身分社会とは言えないとのこと。
さて江戸時代である。家康は、鎌倉幕府に倣い、朝廷から征夷大将軍の職を受けて武家の棟梁になった。大名たち(武士)は元来、戦闘集団であるから、彼らに行政職のモチベーションを与え、幕藩制の正統性を教え込むために儒学(朱子学)を導入する。しかし、朱子学は日本社会に合わないので、日本向けにカスタマイズされた儒学である古文辞学派が起こり、国学が起こる。ここでちょっと面白いのは、儒学(古文辞学)や国学の「テキストを読む力」が蘭学にも応用されたのではないかという説。ただ、中国、朝鮮には漢字のテキストしかないので、それを相対化するテキスト批判の方法がなかった、と言えるかどうかは、少し留保したい。
ここであらためて「イエ」制度について考える。イエは血縁集団を擬装しているが、本質的には事業体である。幕藩体制では、日本の全ての業務(公共サービス)がイエに割り当てられた。イエの存続は、日本社会を安定的に存続させるための至上命令だった。しかし反面では、イエが存続しさえすれば(イエの職務を果たしさえすれば)あとは自由なのだ。そこで次男や三男が、自由な文化の担い手となる。これは、大いにうなずける話だと思った。
日本では、幕末までにプリミティブな「日本人」のナショナル・アイデンティティが育っている。このことについて、二人はいろいろな面白い推測をしている。たとえば各藩の大名が、子供のときに全員江戸に住んでいて共通の文化的背景を持っていたことも大きかったのではないか、など。また、近世の日本社会は、空間的にも階層的にもかなり流動性が高く、文字を学ぶことで成功し、裕福になれる可能性があった。流動性が高いと、どの階層にあっても国民同胞という考えが生まれやすくなるのだという。
幕藩制の評価については、納得できる指摘が多かった。やっぱり今の日本社会の直接のルーツは江戸時代、せいぜい室町時代以降だなあと思う。一方、天皇制の起源と効用(なぜ存続したか)は、よく分からなかった。まあいろいろと「謎だから面白い」のである、私にとっての日本は。
オビの表には「日本ってこんなにおもしろい!」、裏返したら「なぜ日本人は、かくも独自の文化を生み出せたのか?」とあって、一瞬ぎょっとした。近ごろ世間に蔓延する「日本スゴイ」病の匂いがしたのだ。いや、橋爪大三郎さんと大澤真幸さんに限ってまさか、と思いながら、かなり警戒しつつ読み始めたが、すぐに杞憂だったことが分かって、楽しく最後まで読み通せた。
本書は、通常の時代区分とは少し違って「はじまりの日本」(~奈良)「なかほどの日本)(平安~室町)「たけなわの日本」(安土桃山~幕末)の三部構成になっており、さらに橋爪大三郎が用意した各部6問、計18の疑問で章立てされている。「なぜ信長は安土城を造ったのか」というような具体的な疑問でありながら、その時代の政治・文化・思想の論点が鮮明に浮かび上がってくる疑問が選ばれている。対談をリードするのは橋爪さんで、「なるほど」を連発する大澤さんの楽しげな雰囲気が読者にも伝わってくる。
印象的だった指摘をいくつかあげておく。漢字と仮名の表記システムに関連した日本語論で、日本語の話者は、音声でやりとりしているときでも文字をイメージしているという説。確かに耳で「よむ」と聞きながら「読む」か「詠む」かを識別するのは普通のことだ。外国語を覚えるとき、指で空中にスペルをなぞるのは私もよくやるけど、あれは日本人特有の動作なのだそうだ。外国人(西洋人)は音声言語をそのようには聞いていないと教えられて、ちょっとびっくりした。
摂関政治と院政について、橋本治さんの『権力の日本人:双調平家物語ノート1』『院政の日本人:双調平家物語ノート2』をお二人が挙げていたのは嬉しかった。律令制(天皇親政)→摂関政治→院政→武家政治の連続性と不連続性は、まだ十分腑に落ちないけど面白いテーマだと思っている。
武士には馬が重要、という指摘は面白かった。刀よりも弓矢よりも馬なのだ。武士は戦いと同時に輸送や交易にも関係する集団だった。この武士集団から、日本独特の組織原理である「イエ」(本質は機能集団なのに擬制的な血縁関係でもある)が生まれたと考えるのは大澤さん。一方、橋爪さんは「イエ」は幕藩制になってから確立した概念だと考える。
室町時代(惣村の成立)以降の日本の農民は、ヨーロッパの農奴や中国の農民に比べると、かなり自立的だった。日本の貴族(公家)、武士、農民というのは職能カテゴリーであって、身分とはいえないのではないか。これはヨーロッパ的な「身分社会」との比較を念頭に論じられている。ちなみに中国社会も、文字の読める農民と読めない農民がいるだけで、身分社会とは言えないとのこと。
さて江戸時代である。家康は、鎌倉幕府に倣い、朝廷から征夷大将軍の職を受けて武家の棟梁になった。大名たち(武士)は元来、戦闘集団であるから、彼らに行政職のモチベーションを与え、幕藩制の正統性を教え込むために儒学(朱子学)を導入する。しかし、朱子学は日本社会に合わないので、日本向けにカスタマイズされた儒学である古文辞学派が起こり、国学が起こる。ここでちょっと面白いのは、儒学(古文辞学)や国学の「テキストを読む力」が蘭学にも応用されたのではないかという説。ただ、中国、朝鮮には漢字のテキストしかないので、それを相対化するテキスト批判の方法がなかった、と言えるかどうかは、少し留保したい。
ここであらためて「イエ」制度について考える。イエは血縁集団を擬装しているが、本質的には事業体である。幕藩体制では、日本の全ての業務(公共サービス)がイエに割り当てられた。イエの存続は、日本社会を安定的に存続させるための至上命令だった。しかし反面では、イエが存続しさえすれば(イエの職務を果たしさえすれば)あとは自由なのだ。そこで次男や三男が、自由な文化の担い手となる。これは、大いにうなずける話だと思った。
日本では、幕末までにプリミティブな「日本人」のナショナル・アイデンティティが育っている。このことについて、二人はいろいろな面白い推測をしている。たとえば各藩の大名が、子供のときに全員江戸に住んでいて共通の文化的背景を持っていたことも大きかったのではないか、など。また、近世の日本社会は、空間的にも階層的にもかなり流動性が高く、文字を学ぶことで成功し、裕福になれる可能性があった。流動性が高いと、どの階層にあっても国民同胞という考えが生まれやすくなるのだという。
幕藩制の評価については、納得できる指摘が多かった。やっぱり今の日本社会の直接のルーツは江戸時代、せいぜい室町時代以降だなあと思う。一方、天皇制の起源と効用(なぜ存続したか)は、よく分からなかった。まあいろいろと「謎だから面白い」のである、私にとっての日本は。