見もの・読みもの日記

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江戸絵画のニューモード/講演会・沈南蘋再考(板橋区立美術館)

2012-12-20 00:44:28 | 行ったもの2(講演・公演)
板橋区立美術館 講演会『沈南蘋再考-江戸時代人にとっての南蘋画とは?』(講師:板倉聖哲、12月15日15:00~)

 特別展『我ら明清親衛隊-大江戸に潜む中国ファン達の群像』(2012年12月1日~2013年1月6日)を記念する講演会。はじめ、展覧会のタイトルを聞き、中国絵画史の板倉聖哲先生の講演会があると知ったときは、え?板橋区立美術館の次の展覧会は中国絵画か!と早とちりをしていた。講演会の少し前に行って、図録を購入してから、展示作品を見ておこうと思ったら、別のお客さんと受付の方の「沈南蘋の作品は出てないんですね」「ええ、中国絵画は…あちらの版画1点だけなんですよ」という会話が聞こえてきた。

 あら、そうだったのか。自分の予想を少し軌道修正して会場をひとまわりした。どこかで聞いたことがあるかな程度の日本人画家の作品ばかりだったが、楽しめた。そして、講演会に参加。

 かつて「鎖国」といわれた江戸時代だが、来舶画人(中国から日本を訪れた画人)は、名前が分かっているだけで130人以上に及び、朝鮮通信使に随行した画家の影響も注目されている。沈南蘋(沈銓)は中国清代の画家。雍正年間に来日、長崎に足掛け3年(1731-33)滞在し、18世紀の江戸絵画に多大な影響を及ぼした。『清史稿』には、沈南蘋が「日本国王」の招聘を受けたとある。これは、享保10年(1725)将軍・徳川吉宗が命じた明絵画の粉本収集に応じて、南蘋が来日したと考えられているためである(Wikiに詳しい)。長崎図書館には、南蘋が将来した画本(約100本)の目録が現存すると言っていたと思う(このへん初めて知ることばかりで、記憶に自信が持てない)。

 内藤湖南は沈南蘋を「いささか時代遅れの気のきかない画」と評したという。あー湖南先生の趣味ではなさそうだな。これに対し講師は、南蘋の古画に学ぶ(北宋・元・明の作品をまねる=彷古)態度は、同時代の画家にも見られるオーソドックスなもので、時代遅れではないこと、文人たちの間に一定の評価を得ていたことを示す。

 近年、中国文化圏でも「旅日画人」を中国絵画史のコンテキストで捉えなおそうという動きがあり、新たな作品が続々見つかっている。しかし「伝・南蘋筆」作品は約500点現存するが、真贋はかなり疑わしい…ということで、講師は、具体的に写真を見ながら、○○美術館のこれは贋作、△△美術館のこれもあやしい、と厳しい判定。

 また、ひとくちに南蘋画といっても、比較的あっさりした写生的な花鳥画もあれば、緻密で濃厚な色彩の作品もあることを示す。私は沈南蘋の名前を、泉屋博古館の『雪中遊兎図』で覚えたので、南蘋画のイメージといえば、まず後者である。

 しかし、あの『雪中遊兎図』は乾隆年間の作品である。実は、南蘋の長崎滞在期(1731-33)の作品は、ほとんど日本に残っていない。乾隆年間の作品は、後世(近代以降)にもたらされたもので、江戸の画家たちは「見ていない」ことに注意しなければならない。これを補足するのが、講師が行なった谷文晁一門の模本調査(1700点)。江戸の画家たちが見た南蘋画とはどのようなものであったかを、いま一度整理し、南蘋画の影響とか流行というものを考え直す必要があるのではないか。う~当たり前すぎる結論なのに、目からウロコだった。意外とこういう実証的な手続きをなおざりにして、直感でものを言ってしまうこと、多いよなあ、と感じる。

 詳しく再録はできないが、代表的な作品を取り上げての見どころ解説も面白かった。三の丸尚蔵館所蔵の『香宿艶図巻』は、2006年の『花鳥-愛でる心、彩る技』展で見ているが、細部を拡大すると、あんなに虫たちに人間的な表情があって愛らしい作品だなんて、たぶん気付いていなかったな。斧劈皴(ふへきしゅん)から雲紋皴(うんもんしゅん)へという、岩の描写の変遷も見るときのポイント。これを耳で聞きながら、なんとなく理解できたのは、黒川古文化研究所の『中国の花鳥画』展の記憶があったからだと思う。

 展示参観レポートはまた後日(と言って書き逃すことも多いが…)。

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