見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

言論の不自由/漫画が語る明治(清水勲)

2005-10-20 23:18:07 | 読んだもの(書籍)
○清水勲『漫画が語る明治』(講談社学術文庫)講談社 2005.10

 明治期の漫画百余点を収録し、解説を加えたもの。他愛ない滑稽、頓智から、為政者に対する痛烈な風刺まで。技法もさまざまである。

 本屋の店頭で、たまたま本書を開いたとき、『団団珍聞』に載った「四方這」という漫画が目に入った。元旦に天皇が、天地四方の神社を拝する行事だが、これを四つん這いになった男の股間に正月飾りが下がっている図に見立てている。馬鹿馬鹿しいのと同時に、ここまで皇室を嘲弄する大胆さに舌を巻いてしまった。もちろん、編集長の清水梁山(17歳の少年!)は、不敬罪で起訴されている。

 明治漫画の社会風刺・政治風刺は、なかなか鋭い。当時は、厳しい官憲の目が光り、ちょっと行き過ぎがあれば、罰金・禁固・在庫没収などの懲罰が待っていた。しかし、思うに、それだからこそ、腹の据わった、質の高い風刺漫画が生み出されたのではないか。残念ながら、言論の自由の保障は、必ずしも言論の「質」を保障しないのだと思う。

 ”絵”的に衝撃だったのは、北沢楽天の多色刷漫画雑誌『東京パック』。う~ん、名前は知っていたが、こんなに美しい漫画雑誌だったのか! 森鴎外の文芸雑誌『めざまし草』の裏表紙には、洋画家・長原孝太郎の漫画が載っていた。夏目漱石は岡本一平を見出した(『滑稽新聞』に載った、作者未詳の漱石顔の三毛猫。好きだ~)。ジャーナリスト・幸徳秋水は「漫画の通」を以って任じていた。このように、漫画のカバーする明治の文化領域は、意外と広いのである。

 巻末の「あとがき」に、梨本宮伊都子が、日露戦争の後、フランスで収集した日本風刺絵葉書のコレクション展が「2005年10月に逓信総合博物館でで開催された」とある。文章が過去形なので、えっ?と思ったら、まさに、いま、その展覧会をやっているところのようだ。見にいかねば。

■逓信総合博物館ていぱーく『日仏絵はがきの語る100年前』
http://www.teipark.jp/event.html
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お茶で一服/神奈川県立金沢文庫

2005-10-18 23:22:12 | 行ったもの(美術館・見仏)
○神奈川県立金沢文庫 開館75周年記念特別展『茶と金沢貞顕』

http://www.planet.pref.kanagawa.jp/city/kanazawa.htm

 喫茶は、禅僧・栄西によってもたらされ、鎌倉中期には、貴族や武家、寺院などの間に普及するようになった。というわけで、金沢文庫に多数、残された金沢(北条)貞顕の書状を手がかりに、当時の喫茶習俗を再現したのが、この展示会である。

 会場に入って、まず目につくのは、写実的な肖像画、堆黒・堆朱の精緻な工芸品、青磁の器、天目茶碗など。文書(もんじょ)中心の展示会が多い金沢文庫にはめずらしく、華やかで、目移りして、楽しい。特に、鶴岡八幡宮所蔵で「長命富貴」の文字が入った堆黒箱は逸品。栄西が中国から持ち帰ったものと言われている。

 これら”舶来”の香り高い文物に囲まれて、中央のケースには、金沢貞顕の書状が展示されている。闊達な筆で記された文面には、何やら難しい用件のあとに、先日のお茶は美味しかったとか、茶葉を少し送ってほしいなどの言葉が添えられており、古人が身近に感じられて、微笑ましい。

 金沢文庫の『覚禅抄』は、諸仏の特徴を解説した図像集で、仏教関係の展示会には必ず出るおなじみの書物だが、奥書を見るのは初めてのことだった。そこには、書写者が、称名寺二世長老の剱阿から、眠気覚まし(?)のお茶をふるまわれたことが記されている。解説は「称名寺茶圃の銘茶だろう」とする。当時、多くの寺院が、自家菜園でお茶を栽培していたらしい。

 このほか、「闘茶」という風流な遊びがあったこと、「茗」という字が一種のお茶の別名であることなど、金沢文庫の膨大な文書類の中から、お茶にかかわる記述のあるものが展示されている。いつもはとっつきにくい古文書も、いくぶん親しみやすく感じられる企画である。
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飢餓の記憶/カリスマ(佐野眞一)

2005-10-17 22:23:34 | 読んだもの(書籍)
○佐野眞一『カリスマ:中内功とダイエーの「戦後」』(上・下)(新潮文庫)新潮社 2001.5

 ダイエーの創業者、カリスマ経営者、中内功の生い立ちから晩年までを描いたもの。決して他人を信用しない冷酷さと、涙もろい人情味をあわせ持ち、カミソリのような鋭い嗅覚で、戦後の消費社会を作り上げ、晩年は、物欲と肉親愛に凝り固まった老醜を曝すまで、振幅の大きい対象を、あまさず描き出している。

 神戸の小さな薬屋に生まれ、影の薄い青年時代を過ごした中内は、戦後、「主婦の店・ダイエー」を開業し、「流通革命」「価格破壊」を旗じるしに、時代の寵児となり、巨大企業ダイエーグループを育てあげた。

 著者は、中内の原点を、戦争体験に見る。敗戦間際、食うものもなく、フィリピンの山中を彷徨しながら、先に眠れば味方に殺されて死肉を喰われるかもしれないという、極限状態の恐怖と人間不信を味わった。彼を打ちのめしたのは、アメリカ軍の圧倒的な物量であった(敵は、戦場でアイスクリームを作って喰ってたというのだから、やり切れないよなあ)。

 その結果、戦後の中内は、アメリカ消費文化の崇拝者となる。中内が目指したのは、あふれる商品の間を自由に回遊し、ショッピングカートに、前が見えなくなるほどの品物を詰め込む、アメリカ型スーパーマーケットの幸せを、日本の消費者にプレゼントすることだった。そして、中内の夢は、庶民の熱狂的な支持を持って迎えられた。みんな、飢餓と窮乏の記憶を癒したかったのだ。消費によって。

 「戦後」って、非常に強く、戦争の記憶に呪縛されていたのだな、ということを改めて感じた。中内だけではない。マクドナルドの藤田田、ロイヤルホストの江頭匡一も、アメリカという存在の巨大さを肌身で知り、それを一面では崇拝し、一面では格闘し続けてきた企業経営家である。アメリカなんて、敗戦なんて知らないよ、とうそぶいて、戦後の消費社会を、当たり前のように謳歌してきた自分も、実は、彼らの――というのは、戦争と飢餓のトラウマの――手のひらで踊らされていただけかもしれない、としみじみ考えてしまった。

 そして、フィリピン戦線で国家に捨てられた中内の恨みを示すごとく、戦後日本の国家経済に深々と食い入り、”共倒れ”しかねないところまで行ってしまったダイエーが、立ち直れるか否か、それは我々自身の戦後の建て直しに直結しているように思う。

 福岡ソフトバンクホークス(旧ダイエーホークス)敗戦の夜に。

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東国の熊野信仰/神奈川県立歴史博物館

2005-10-16 22:20:45 | 行ったもの(美術館・見仏)
○神奈川県立歴史博物館 特別展『聖地への憧れ―中世東国の熊野信仰―』

http://ch.kanagawa-museum.jp/

 なぜ神奈川の博物館で熊野信仰?と思われるかもしれないが、会場入口に飾られた「熊野権現輿」(神奈川・清浄光寺蔵)がその答えを示している。日本の神や仏は、しばしば遊行するである。輿に乗り、信仰厚い上人たちに守られて、山を越え、国境を越えるのだ。

 この展覧会は、宮城県の新宮社、山形県の熊野大社など、東北各地に伝わる熊野信仰の遺物を紹介する。また、神奈川県内の名刹・清浄光寺(遊行寺)、称名寺、覚園寺、神武寺などが、ことごとく熊野信仰にかかわりを持っていたことを示す。とりわけ一遍の時宗は、熊野信仰とのつながりが濃いことが分かり、興味深かった。

 展示品としては、前半の歴史文物はインパクトがいまいちで、後半の雑多な関連品のほうが面白かった。近年、発見されたばかりという『箱根権現縁起絵巻』(天正年間・個人蔵)は、あんまり巧くないところが楽しい。豆つぶほどの男女が温泉につかってくつろぐ姿など、ほんわかムードの画面の端が、突然、血の池地獄になっていたり、カモと人間がほとんど同じ背丈だったり、笑える。

 『那智参詣曼荼羅』『熊野観心十界図』(どちらも新潟・個人蔵)は、類例の多いもの。赤・白・黄土色の明るい色調が特徴で、私はいつも沖縄の紅型(びんがた)を連想してしまう。

 神奈川県内の師岡熊野神社が所蔵する竜頭(竿頭につける飾り)12だか13だか揃いというのも、かわいかった。
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千年の趣都・京の雅び/出光美術館

2005-10-14 10:08:59 | 行ったもの(美術館・見仏)
○出光美術館『京の雅び・都のひとびと-琳派と京焼-』

http://www.idemitsu.co.jp/museum/

 最近、充実した展覧会が続く出光美術館だが、今回は、タイトルがあまりよくないと思う。ちょっと漠然としすぎていて、具体的な内容が想像できない。

 しかし、行ってみたら面白かった。近世京都の絵画・陶芸の名品を紹介したもので、特に、俵屋宗達、尾形光琳、野々村仁清など、美術史上のビッグネームにひとりずつスポットを当てた後半は、分かりやすくて面白い。

 前半は、近世初期に流行した金地屏風と、京都の”地場焼き”である楽焼によって、文化都市・京都の総体的な空間イメージに観客を案内する。

 まずは『祇園祭礼図屏風』に注目。左隻のいちばん下に、武士の集団が描かれているのだが、珍妙な”変わり兜”をかぶり、色とりどりの吹流しをなびかせ、アドバルーンのような母衣(ほろ)を背負ったところは、まるでカーニバルの伊達男だ。これって、祭礼用の仮装なのか、当時の武将のあたりまえの姿だったのか、気になる。

 次は楽焼。もともと、豊臣秀吉の命を受け、聚楽第の土を使って焼いたことから、聚楽焼(=楽焼)と呼ばれたそうだ。楽焼をまとまって見るのは、初めての経験だったが、眺めていると、手のひらがムズムズしてくる。伊万里や九谷が「見る」焼き物であるのに対し、楽焼は「触る」焼き物であるためだろう。と思っていたら、京都の楽美術館では、「手にふれる楽茶碗観賞会」を実施しているそうだ。やっぱりね!

 後半。宗達、光琳の魅力は、いまさら説明不要なので略す(お気に入りを1つだけあげると、宗達描く水墨画の虎が超かわいい!)。今回、印象に残ったのは、野々村仁清の陶芸である。京焼色絵の大成者と言われるが、なんというか、マダム好みの作風に思われて、おもしろいと思ったことがなかったのだ。しかし、宗達や光琳作品のそばに置いてみると、なるほど~、と了解するものがあった。

 それにしても、底の知れない、京都文化の厚みと深さ。先だって、オタクの街アキハバラの都市景観を論じて、「官」でも「民」でもなく、個人の趣味が絶対的な支配権を持つ”趣都”と称する論考(森川嘉一郎『趣都の誕生』)を読んだばかりだが、実は、近世までの京都こそ、政治でも経済でもなく、”趣味”によって我が国に君臨し続けた「千年の趣都」と呼べるのではないか、と思った。
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慶州の古瓦/天理ギャラリー

2005-10-12 00:44:38 | 行ったもの(美術館・見仏)
○天理ギャラリー 第126回展『新羅千年の都 慶州の古瓦』

http://www.sankokan.jp/exhibition/gallery/126.html

 新羅の古都・慶州で出土した古瓦60点余りを展示したもの。中国や日本の古瓦にも、蓮華や宝相華を表したものがあるが、今回の展示品は「古拙」なものがなく、いずれも華麗・繊細な「美術品」の域に達している。比較資料として、高麗系の文字瓦も展示されているが、こちらは焼きも厚く、文字も武骨で、全く別の文化系統という感じがする。また、新羅の古瓦は、平瓦にまで、龍や鳳凰、天女や動物を描いたものが多く、めずらしいと思った。

 展示には、古瓦が出土した場所の写真と説明が加えられている。写真はどれも晩秋に撮られたものらしく、刈入れの済んだ田地に立つ石塔は、奈良の山の辺の道あたりの風景(ただし10年前の)を思わせる。ああ、また慶州に行きたいなあ。

 「慶州唯一の人面瓦が出土した霊廟寺址」という説明があって、2003年に慶州で見た「人面瓦」を懐かしく思い出した。もっとも、展示の中に、人面瓦の存在を匂わせるような類似品は何もなかったけれど。
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イスラムの美術/世田谷美術館

2005-10-11 00:38:52 | 行ったもの(美術館・見仏)
○世田谷美術館『宮殿とモスクの至宝―V&A美術館所蔵イスラム美術展』

http://www.setagayaartmuseum.or.jp/

 ロンドンにあるヴィクトリア・アンド・アルバート美術館のイスラム美術ギャラリーが所蔵する名品展である。タイル、絨毯、陶磁器、金工、木彫、ガラス、絵画、写本など、さまざまなジャンルの逸品を見ることができる。

 写本類は、独特のイスラム書道に加えて、手彩色の挿絵、革装の造本も見どころ。アストロラーベと呼ばれる携帯用の星座盤、反りの鋭い、美しい剣もあった。時代は(もっと古いものもあるが)13~14世紀から19世紀に至るものが多い。イスラム史は不案内なのだけど、だいたい、近世と呼んでいいのかしら?

 イスラム美術と聞くと、偶像崇拝が厳しく禁止されたため、文字や幾何学文様、植物文様ばかりのようなイメージがあるのだが、それは宗教的空間においてのこと。宮殿など、世俗的な空間には、動物や人物による装飾も、それなりに使われていたようだ。本展で見たイスラムの人物画は、中国の人物画に比べてずっと肉感的である。だが、インド美術のように肌の露わな裸体を描くことはしない。禁欲的な衣装に、量感のある肉体を包んでいる。

 しかし、神像のような、純粋に「見られる(拝まれる)」ための造形がない分、生活の中の装飾品が多く、その水準が高いように感じた。

 なんといっても魅力は色彩。そうして、色彩の魅力が最もよく感じ取れるのは、陶磁器ではないか。中国や日本の染付(青花)に似たものもあるけど、絶対にないものもある。そのひとつが、濡れたように輝くラスター彩。銀や銅などの酸化物を混ぜた顔料を低火度で焼き付け、表面に薄い金属皮膜を作り出す工芸技法だそうだ。ペルシア色絵のことは「ミナイ手」って言うのね!(伊万里の、金襴手とか青手と同様)

 15世紀、オスマン帝国のメフメト2世は、中国の磁器に対抗すべく、宮廷の資金をつぎ込んで、トルコ産陶器(イズニク窯)の改良に取り組んだ。その結果、濃紺やトルコ青と対象をなす、鮮やかな赤色(珊瑚赤とかトマト赤と呼ばれる)の開発に成功する。このへん、仕入れてきたばかりの知識なので、間違いがあったらご容赦。

 彫刻とか絵画にも、もちろん、東西文化の交流や影響関係が見て取れるわけだが、陶磁器ってやつは、基本が”商品”であっただけ、その影響関係が露骨で、分かってくると非常に面白い。
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万博、サティアン、アキバ/趣都の誕生(森川嘉一郎)

2005-10-10 00:27:25 | 読んだもの(書籍)
○森川嘉一郎『趣都の誕生:萌える都市アキハバラ』幻冬舎 2003.2

 著者の名前を知ったのは、今年の春、東京都写真美術館で開かれた『グローバルメディア2005/おたく:人格=空間=都市』による。2004年、第9回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展、日本館展示の帰国展でもあった。結局、展覧会を見に行くことはできなかったが(社会人の年度末は忙しいのだ)、NHKの『新日曜美術館』が、かなり詳しい紹介をしてくれた。

 本書は、上述の展覧会のコンセプトのもとになった論考を集めたものである。著者は、都市の景観の変化を以下のように記述する。第1フェーズは、「官」主体の、これといった趣味を持たない、大規模で無機質な高層建築群。第2フェーズは、没個性的な近代様式に対する反動から、歴史的な装飾を引用したり、ポップな造形を施して、祝祭的な消費空間を作り出す「ポストモダン」建築群。渋谷、池袋など、「民」の大企業が主導した開発がこの型である。こうした商業開発は、消費衝動を煽るため、”上位”として刷り込まれた欧米文化を模倣し、志向する。

 第3フェーズに相当するアキハバラは、いわば「個室の偏在化」であり、文化的権威に対する防衛的・内向的態度が基調をなしている。第1フェーズが男性的人格、第2フェーズが女性的人格で表象されるとすれば、第3フェーズは「<未来>を喪失した男性、あるいはオタクという第三のジェンダーが統べている」。なるほど、「第三のジェンダー」って、いいね。

 この都市風景の「官」→「民」→「個」交代理論を補完するものとして、大阪万博からサティアン(オウム真理教の聖堂)に至る、建築表現の「意味の喪失」と「未来の喪失」、同様の事態が起きている航空機デザインの考現学、アニメーションの先駆者ディズニーが、注意深く排した「性」と「暴力」が日本で復活したのはなぜか(手塚治虫の重大な関与)、など、いずれも興味深い論考が収められている。

 ところで、先月、秋葉原には、家電量販店のヨドバシカメラが開店した。その結果、客層が変わったとか変わらないとか、いろいろなレポートを散見する。これは「個」の街アキバに対する、「民」の逆襲と言えるのだろうか。また、本書によれば、旧国鉄跡地と旧神田青果市場跡地(かすかに覚えてる~!)には、2006年の完成を目指し、IT産業の拠点となる多機能高層ビルが建設されているという。これはアキバの心臓に楔を打つような「官」の介入ではないか。果たして「個」の街アキバは、今後も命脈を保つことができるのか? もしかしたら、幻のように、はかなく消えてしまうのではないかしら。

 なお、本書とは関係がないが、秋葉原って、明治初期までさかのぼってみると、非常に興味深い開発の歴史を持っているらしい。このへんは、もう少し、調べがついたら書いてみたい。
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組織疲弊の克服/外務省(薬師寺克行)

2005-10-09 22:54:47 | 読んだもの(書籍)
○薬師寺克行『外務省:外交力強化への道』(岩波新書)岩波書店 2003.8

 本書の構想が立てられたのは2001年の夏、外務省の不祥事が真っ盛りのときだったという。その数年前、テリー伊藤の『お笑い外務省機密情報』(飛鳥新社 1997.10)が出た頃から、な~んだ、超エリート集団と言われている外務官僚って、実はぜんぜんダメじゃん、という感じ方は、うすうす、世間に流れていたと思う。それが、機密費スキャンダル、鈴木宗男問題で、一挙に表面化したのだ。

 それでも、2002年9月、小泉首相が平壌を訪問し、日朝首脳会談を実現したことは「近年まれな外交」(本書の評価)だった。確かに、アメリカ追従か、国内の圧力団体の利益のための外交政策しか、日本政府に選択の余地はないものと刷り込まれてきた(ように思う)私にとって、この日朝首脳会談は、新鮮な衝撃だった。しかし、期待をもって見守った日朝交渉は頓挫し、2003年、イラク戦争支援をめぐって、対米追従路線が復活する。

 本書は、日朝交渉、イラク戦争支持という具体的な事例において、なぜ、日本の独自外交が挫折し、ますます主体性を失いつつあるのかを検証する。ある部分は、実際にこれらの政策にかかわった外務官僚の思想・信条とパーソナリティによって説明される(役者揃いで、非常に面白い読みどころである)。また、ある部分は、専門言語の”スクール”を基本とする縦割り体質、過去の国会答弁を絶対視する”密教文化”など、組織の体質そのものに原因を探る。

 縄張り意識と、過去の経緯の呪縛というのは、ある程度の規模と歴史を持つ集団には、必ず現れる組織疲弊である。また、個々の言語や地域に精通した専門家を必要としつつ、同時に大局的な判断のできる外交官を育成しようというのは、二律背反に挑戦するようなもので、もともと困難は大きい。今日、外務省だけでなく、さまざまな官公庁や企業が、同じ困難の克服を課題にしていると思う。

 それにしても、これはちょっと、と思ったことを挙げておこう。1950~60年代、政府首脳の外遊は一大イベントだった。今とちがって通信手段も不安定だったから、緊急事態に備えて、閣僚や官僚が大挙して同行する大名行列スタイルが常だった。その煩雑な事務と莫大な予算を伴うロジ(兵站)業務が、外務省という組織を歪めることになる。

 1957年版『外交青書』の別冊『岸総理の第一次東南アジア諸国訪問』『岸総理の米国訪問』は、首脳会談での相互礼賛、晩餐会の出席者の顔ぶれ、市民の歓迎ぶり(鳩や風船、日の丸の小旗)などを、事細かに伝えていて、今読むと実に噴飯物だ。しかし、問題は、各国が既にこうした前近代的な外交スタイルを捨て去っているにもかかわらず、日本の外務省が、それを克服できていないことにある(ついでにいうと、外務官僚の用意する応答要領にたよるばかりで、「自分の言葉で外交を語ることのできない」歴代首相の力量にも問題があった)。

 もうひとつは世論の重要性である。日本の外務省は伝統的に世論を軽視し、国民に対する説明責任を果たしてこなかった。その結果、日朝交渉という独自路線に踏み出したとたん、憤激する世論に阻まれて、身動きが取れなくなってしまった。

 しかし、世論はいつも正しい判断をするわけではない。歴史的に見れば、むしろ外交に関しては間違うことのほうが多い。最大の課題は、外交政策と世論との隙間をどう埋めていくかであり、著者は、パブリック・インテレクチュアルズの重要性を説く。著者は「有識者」という訳語をつけているけれど、これには、ちょっと違和感がある。なぜなら、これまで、有識者とよばれる人々は、無責任な(あるいな無力な)コメントを垂れ流す役割しか果たしてこなかったからだ。たぶん、これからの日本に必要な「パブリック・インテレクチュアルズ」というのは、もっと能動的な知識人でなければならないだろう。
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やっと、ヒガンバナ

2005-10-07 23:30:44 | なごみ写真帖
結局、9月は毎週末、鎌倉に通った末、ようやくヒガンバナの盛りにめぐりあいました。
これが1週間前。まだ今週も咲いているかしら。天気がよければ、行ってみよう。
遠出の計画がないので、またダラダラした連休になりそうである。


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