見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

東博の常設展から:歴史資料ほか

2008-03-20 21:10:41 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京国立博物館・本館16室(歴史資料) 特集陳列『東京帝室博物館歴史部の変遷』

http://www.tnm.go.jp/

 会場でメモしてきたことを写しておく。東京国立博物館の初代館長・町田久成は、歴史資料を収集する史伝部(→のち、歴史部)を博物館に設けた。大正年間、帝室博物館の館長となった森鴎外は、日本の歴史を分かりやすく伝えるため、時代別陳列を取り入れた。ところが、関東大震災の後、復興再開された博物館は、「古美術品の優品の分類展示」を行うものと定められ、時代別展示は廃止された。歴史部も廃され、所蔵資料のうち、古美術的な価値を持つものだけが、分類展示に編入された。この状態は、平成13年(2001)まで続いた。

 覚えている。私が子どもの頃の東博は、1階も2階も「絵画」「書」「彫刻」「陶芸」といった具合の分類展示だった。今のように1階はジャンル別、2階は時代順(日本美術の流れ)となったのは、本当につい最近である。そして、この第16室で、小規模ながら歴史資料の展示が再開したのも、2001年のことだという。では、私がひそかに贔屓にしている、この「歴史資料」展示は、町田久成、森鴎外の博物館構想の再興であるのだな。

 展示品は、歴史部由来の品ということで、明治時代のハーモニカ、一升枡、生人形、踏絵(長崎奉行所旧蔵)絵図、模写など何でもあり。明治41年から大正2年まで、博物館歴史部の広報普及のために作られた「歴史絵葉書」が面白い。6枚入りで1セット。また歴史部の廃止を決めた会議の議事録も展示されている。

 ちなみに2階で開催中の特集陳列『絵巻-模本が伝える失われた姿』の『天狗草紙』は「御物 文化十四年■(狩野)養信模」のあとに「史」の朱印があって、もと歴史部の資料と分かる。なるほど、歴史部が作成した模写もあれば、先人の模写を収集したものもあるのだな。

 そのほか、国宝室では、兵庫・一乗寺蔵『善無畏像』を展示。作法や様式にとらわれない、大好きな宗教画である。2006年の『最澄と天台の国宝』で見たとき、脱ぎ捨てられた靴が気になって、そのように書いたが、この日、見学者を連れたボランティアの方が「足元の靴をご覧ください」と解説していた。やっぱり、注目ポイントなのだな。

 最近、ちょっと楽しみにしている1階・近代美術の部屋では、落合芳幾の『五節句』を見つけた。血まみれの新聞錦絵で知られる芳幾だが、これは穏やかで古典的な集団美人画。狩野友信の『平治合戦』(明治26年)は、絶対、ボストン美術館現蔵の「三条殿夜討の図」を見てるな~と思った。炎上の表現がそっくりである。

 それから、彫刻室(仏像)の『天王立像』は、館蔵品らしいが、初めて見るように思った。変に修復が加わっていないところがよい。2階・絵画では、椿椿山の『高久靄像』が印象に残った。
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なぜ、反日を叫ぶのか/中国動漫新人類(遠藤誉)

2008-03-19 23:22:03 | 読んだもの(書籍)
○遠藤誉『中国動漫新人類:日本のアニメと漫画が中国を動かす』 日経BP社 2008.2

 ちょっとズルイ本である。表紙は、赤地にオレンジの雷紋、微笑みながら本に読みふけるパンダという「いかにもポップカルチャー」なデザイン。いま、日本のアニメとマンガ(動画+漫画=動漫)が中国の若者に大人気である、という話は聞いていた。コスプレイベントも大盛況らしい。だから、サブカル好きの同世代レポーターが、中国における動漫オタクの生態に共鳴して、こんな本を作ってしまったのか、と初めは思った。

 ところが「私はすでに60歳を超えている」という著者の告白を読んで、びっくりした。著者は1941年生まれ。10代前半までを中国で過ごし、「引き揚げ」の後、大学で理論物理を学んで、理系畑を歩んできたという。ポップカルチャーにもサブカルチャーにもまるで接点はない。

 著者は、大学で中国人留学生の受け入れにかかわり続けているうち、90年代半ばから、明らかな「変化」を感じるようになったという。中国新世代の若者は、日本の動漫に多大な影響を受けていることが分かった。では、彼らは日本の動漫とどう接し、どう影響を受けているのか。詳しい分析研究は、まだ誰も手をつけていなかった。それなら自分で答えを見つけるしかない。著者は「腹を決めた」と書いている。その結果(笑ってはいけないが)60歳を過ぎて、『スラムダンク』31巻を読破し、『セーラームーン』のDVDを見たり、果ては中国で海賊版のDVDまで買い込んで、研究に努めることになったという。

 だから、本書は、中国の動漫オタクの生態を、表層的に、面白おかしくレポートしたものではない。根底にあるのは、「なぜ?」を追究する、真面目な科学的探究心である。海賊版が異文化浸透に果たした役割、アメリカの統制的文化政策と日本の無策・放任主義の差異、大衆文化が招きよせる民主主義など、非常に興味深い話題が、多数取り上げられており、日本動漫好きと日本嫌い(反日感情)が葛藤なく同居する、いまどきの中国の若者の精神風景も掘り下げられている。

 さらに興味深かったのは「第6章 愛国主義教育が反日に変わるまで」の章。江沢民が「反日」に梶を切ったのはいつか、また何ゆえか(著者は、1995年、クレムリン宮殿での各国首脳晩餐会を重視する)。実際に抗日戦争を戦った世代よりも、戦争を知らない世代(江沢民もそのひとり)において反日感情が拡大再生産されるのはなぜか。中国の悪しき伝統「大地のトラウマ」(保身のために、隣人より大きな声でスローガンを叫ぶ)が影響しているのではないか。これは面白いなあ、日本の庶民の典型的な政治行動(面従腹背で忍従)とは、ずいぶん異なる。

 それから、2005年の反日デモの発端が、アメリカの台湾華僑であったことの意味(彼らは大陸政府と敵対関係にある)。ここでは、タイトルの動漫新人類から大きく逸脱(飛躍)して、政治・外交の核心が語られている。私は、意外な展開に戸惑いながらも、著者の真率さに打たれて、最後まで読んでしまった。ネタバレになるけれど、混乱の戦後中国で暮らした著者の幼少期は、平坦なものではなかったらしい。苦悩に耐えかねて、自殺を試みたこともある、けれど当時の教師に助けられた、という漠とした告白が途中に書かれている。一見、ポップな外観に似ず、ハードな読み応えの1冊である。
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フェミニズムの黄昏/女は何を欲望するか?(内田樹)

2008-03-18 23:59:57 | 読んだもの(書籍)
○内田樹『女は何を欲望するか?』(角川oneテーマ21)角川書店 2008.3

 最近お気に入りの内田樹さんの新著だ、と思ったら、そうではなくて、2002年に径書房から出された単行本の「仕立て直し」だという。当時は内田樹さんをよく知らなかったし、まして「女」論には一切興味がなくて、素通りしたのだと思う。

 「私はフェミニズムに対しては70年代まではかなり親和的でした」と著者は言う。私自身は、世代的に少し遅いが、70年代末にフェミニズムという用語を知って、80年代半ばまでは、難解な哲学書を、かなり背伸びして読んでいた。それが、90年代に入ると、ぱたりと憑き物が落ちたように関心がなくなって、今日に至る。

 だから著者が「フェミニズムは、少なくとも日本における啓蒙運動としてのフェミニズムは、その歴史的使命を果たし終えて、いま段階的にその社会的影響力を失いつつある」と書いていることに、実感として同意できる。広い世間には、今なお「フェミニズムは脅威である」と感じている人も、「フェミニズムの退潮はあってはならない」という信念を持っている人もいるだろうが、私は、著者の醒めた認識のほうが真実だと思う。

 フェミニズムに、何か決定的で特徴的な弱点があったためではない。むしろ「それはあらゆる社会理論が陥る、ほとんど構造的な『難点』である」と著者は説く。マルクスしかり、フロイトしかり。したがって、本書はフェミニズムを例としながら、あらゆる社会的理論はなぜ失敗するのか、という普遍的思想問題を考えるレッスンになっている。

 思えば、私が知的に物心ついたのは、マルクス主義が「構造的難点」を露呈して衰退期に入った頃だった。ただし、社会の一部には、まだマルクス主義の「栄光の記憶」を覚えている人たちもいた。今のフェミニズムの立場は、当時のマルクス主義に近いかもしれない。そして、最近、また「マルクス再読」をテーマにした図書が出始めているように、あと30年くらいしたら「フェミニズム再読」が言われるときが来るのだろうか。一部好事家の間で。

 後半は「エイリアン」シリーズを題材にしたフェミニズム映画論。この映画に、性的な表象がちりばめられているという指摘は、何度も聞いてきたが、まとまった記述として読むと、あらためて気づくことが多くて興味深かった。第1作(男性の自己複製の道具であることの拒絶)、第2作(母性の葛藤)は、それぞれ70年代と80年代のフェミニズムの中心課題を巧妙に取り入れつつ、興行的成功を収めた。私が知っている(テレビで見た)のはこの2作までで、その後の第3作、第4作のあらすじは、本書で初めて知った。

 第3作は、女性性の否定というフェミニズムのラディカル化に寄り添うように見せて、そのような世界への嫌悪を表したものであり、第4作は、エイリアン/人間/機械のボーダーレスな世界が描かれる。「アモルファスな世界にデジタルな境界を引くものだけが生き残る」という著者の言明は、フェミニズムに対する、ひとつの応答としても読めるように思う。
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今様オランダ風説書(6):ハーグ、マウリッツハイス美術館

2008-03-17 22:46:18 | ■オランダ風説書2008
 3/7(金)、ハーグ。午前中に、国立文書館と王立図書館の見学を手際よく終える。夜便で帰国のため、夕方までフリータイムだ。広場のカフェで昼食を取り、マウリッツハイツ美術館へ。オランダ屈指の絵画コレクションで知られる美術館だ。



 比較的こじんまりした建物は、17世紀に建てられたある伯爵の私邸だという。内装は当時の雰囲気を残していて、なんとなく作品のおさまりもいい。日本の書画が、畳・床の間・明かり障子のもとで鑑賞するものであるように、西洋の油彩画は、本来、こういう空間が似つかわしいのだなと思う。なお、この美術館、裏から見ると、浮き城のように池に張り出している。 

 一番人気はフェルメールの『真珠の耳飾りの少女』である。うむうむ、ため息が出るような美少女だ。それも日本人好みの。美肌、幼い顔立ち、黒い瞳、ふっくらした唇。アムステルダム国立美術館の『牛乳を注ぐ女』も、同じ黄色と青の色彩を用いて描いた女性像だが、台所女中のがっしりした肉体といい(腕まくりしたひじの白さと、日焼けした手首から先が対照的)、質実な衣服の質感といい、心に沁みる作品ではあるけれど、あまり色気はない。その点、『真珠-』には、見る者をたじろがせるような官能性が溢れている(と思う)。何者なんだろう、この少女。服飾史家によれば「当時のオランダにはターバンを巻く習慣はなかった」そうだ(→『美の巨人たち』)。

 『真珠-』のそばにあったのが『デルフトの眺望』。西洋絵画に疎い私は、フェルメールって風景画も描いたんだなあ、なるほど、手前の女性は黄色と青の服を着ている、なんて、ちょっと微笑んで、終わりにしてしまった。フェルメールの2点しか現存しない風景画のうちの1点であり、画家の故郷を描いたもので、プルーストが“この世で最も美しい絵画”と賞賛したということは、全て帰国後に知りました。もっとよく見てくればよかった…。

 私がいちばん楽しみにしていたのは『テュルプ博士の解剖学講義』である。1632年の作。ヨーロッパでは、14~15世紀のペストの流行と火器の使用が、外科医の威信を高めたことは、山本義隆氏の『一六世紀文化革命』に詳しい。臨床経験の重視は、次第にアカデミズムの世界にも浸透した。17世紀には、博士(Doctor)を名乗る医師が、このように解剖実習を講義するようになっていたことが興味深い。博士の手元を覗き込む見学者の複雑で多様な表情は、約1世紀の後、日本で初めて人体解剖を観察した山脇東洋らもこんなふうだったのかしら、と思わせる。

 なお、ネット上で探ってみると、この作品、医学の専門家から「解剖学的誤り」を指摘されている。所詮は美術作品なのだが、あまりにも”真に迫っている”がために、言わずにおれないのかもしれない。

■作品画像は「アートatドリアン」へリンク
http://art.pro.tok2.com/index.html

■『テュルプ博士の解剖学講義』はこちら:Salvastyle.com
http://www.salvastyle.com/menu_baroque/rembrandt_tulp.html

■マウリッツハイツ美術館(英語)
http://www.mauritshuis.nl/index.aspx?siteid=54
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今様オランダ風説書(5):アムステルダム、国立美術館~ゴッホ美術館

2008-03-16 22:55:17 | ■オランダ風説書2008
 国立美術館は、2階に上がると、いよいよ絵画である。レンブラントだけではない。ヴァン・ダイク、ルーベンス、フェルメールなど、有名どころの作品が並ぶ。にもかかわらず、日本と違って、他の観客を気にせず、ゆっくり見られるのが、本当にうれしい。初めて覚えた名前に、ピーテル・サーンレダム(Pieter Saenredam)がいる。17世紀オランダで流行したジャンルのひとつ、建築画(建物の外観や内部を描いた絵画)を得意としたという、不思議な画家である。

 やっぱりレンブラントはいいなあ。『夜警』に行き着く前に、私は『織物商組合の見本調査官たち』で、時間を忘れてハマった。ズルいよなあ、この劇的な構図。思わせぶりな表情。会場の解説プレート(英文)によれば、服装の微妙な差異(飾り襟の広さ、無帽か帽子をかぶっているか)、持ちもの、位置によって、登場人物の属性がきちんと書き分けられているそうだ。

 最後は『夜警』。噂には聞いていたけれど、その巨大さにびっくりする。大きな部屋の壁一面を占め、人物は等身大に近い。華やかな衣装、思わせぶりな表情、劇的な光の中に浮かび上がる群像。グランド・オペラの一場面のようだ。ふとヴェルディ『オテロ』の第1幕を思い出す。

 待ちくたびれていた同行人と合流。続いて、隣りのゴッホ美術館に向かう。本当を言うと、ゴッホの絵があまり好きではない。司馬遼太郎氏の『街道をゆく・オランダ紀行』に「ゴッホさんは疲れるね」(奥様の言葉)とあるのを読んで、思わずうなずいた。あの画面に漲る緊張感とエネルギーに、どうにもついていけないと感じてしまうのだ。けれど、不思議なもので、複製から感じていた過剰さ・毒々しさが、本物の作品では希薄だった。個性的な色彩、激しく身をよじるような筆の跡にもかかわらず、何かすがすがしい空気が漂っていた。

 印象に残ったのは「ジャガイモを食べる人たち」。プロレタリア絵画みたいな暗い色調、醜怪さを誇張した農民が描かれている。後年のゴッホらしい明るい色彩は微塵もないのだが、妙に惹きつけられるものがある。

 同美術館の新館では、イギリスの画家ジョン・エヴァレット・ミレイの特別展が開かれていた。知らない画家だなあ、と思っていたら、見たことのある作品に遭遇。井野瀬久美恵『大英帝国という経験』(興亡の世界史16)が、英国人の海への欲望を論ずる引合いとした『ローリーの少年時代』という絵画である。ついでに同シリーズ、羽田正『東インド会社とアジアの海』を読み直したら、平戸商館長のオランダ人と日本人女性の間に生まれ、オランダに渡った混血女性コルネリアの姿を描いた『ピーテル・クノルとその家族』という絵画が、アムステルダム国立美術館にある、と書いてある。うーん、記憶にない。それと気づかず、見逃したのなら、とても残念。

■作品画像は「アートatドリアン」へリンク
http://art.pro.tok2.com/index.html

■兵庫県立美術館『オランダ絵画の黄金時代:アムステルダム国立美術館展』(2005/10/25~2006/01/15)※関西では、こんなのやっていたんですね、知らなかった。
http://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_0510/main.html

■ゴッホ美術館(公式サイトに日本語ページあり!)
http://www3.vangoghmuseum.nl/vgm/index.jsp?page=paginas.talen.ja

■映画『レンブラントの夜警』公式サイト
http://eiga.com/official/nightwatching/
ええ~タイムリーにこんな映画が封切り中とは、全然知らなかった。ピーター・グリーナウェイ監督作品。Yahoo!映画の感想を見ると「素晴らしい!」と「わかんない」が拮抗していて面白い。
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今様オランダ風説書(4):アムステルダム、国立美術館

2008-03-15 23:24:21 | ■オランダ風説書2008
 3/6(木)、アムステルダム。スケジュールどおり仕事が済み、午後2時頃で自由になった。遅い昼食のあと、国立美術館に向かう。私は内心、小躍りしたい気持ちだったが、日本からの同行人は、特に美術に興味はなさそうなので、同意してくれるかな?と、ちょっと心配する。しかし、出発前に彼の直属の上司も「『夜警』だけは見てきたほうがいい、と言っていた」そうで、一緒に行くことにする。

 そう、アムステルダムの国立美術館の見もの(呼びもの)といえば、何をおいてもレンブラントの『夜警』なのだ。しかし、まずは館内に入ろう。同行人とは、また出口で落ち合うことにして、さりげなくバラける。



 1885年に開館した国立美術館は、アムステルダム中央駅と同じ、ペトルス・カイパース(P.J.H. Cuypers)の設計。確かに、赤レンガの壁面を引き締める白い帯、灰色の屋根というデザインがそっくり(もっとも、この色づかいは街の至るところに見られる)。純粋にミュージアムのみの目的で建てられたヨーロッパ最初の建物だそうだ。新教国のオランダらしい。ちなみに、辰野金吾の東京駅がアムステルダム中央駅をモデルにしたという説は、現在、否定されているそうだ(→Wikipedia)。

 1階は、銀器、木工品、ドールハウスなどの工芸品が中心。私が心を奪われたのは、デルフト焼きの陳列である。白地に青い染付の、清楚で可憐な姿は、東洋の青花磁器に似ている。それもその筈、現在のデルフト焼きは、17世紀、東インド会社がもたらした中国や日本の磁器の強い影響を受けて成立したものなのだ。展示品の中には、中国磁器を巧妙に「真似た」作品がいくつも見られた。植物文様や山水風景は、よく出来ている。けれど人物表現は、どこか変。中国人の顔に見えない。かといって、西洋人の顔でもないところが、かなり珍妙である。先だって、京博の特別展『憧れのヨーロッパ陶磁』で、オランダには伊万里写や景徳鎮写があることを初めて知って、興味深く思ったのだが、実はこんなふうに、ごろごろ転がっているシロモノだったとは。

 もちろん、デルフト焼き特有の独創的な作品もある。いちばん驚いたのは、仏塔のミニチュアのような、2メートル近くもある巨大な磁器。各層の四方に筒状の突起が飛び出している。なんだか中国の明器(副葬品)みたいだなあ、と思った。用途が全く分からなかったのだが、下記↓のサイトを見つけて、やっと判明した。なんと、チューリップ専用の花瓶だという。えええ~何考えてるんだ、オランダ人!

■ツアコン・モバイル通信:オランダの伝統・デルフト陶器
http://www.nta.co.jp/ryoko/tourcon/2003/031105_2/index.html

 私は、このデルフト焼きコレクションに関するカタログを入手したくて、ミュージアムショップを一生懸命物色したが、めぼしい本やグッズはなかった。残念。陶磁器が絵画に匹敵する芸術品であるという認識がないのかなあ、オランダには。

■アムステルダム国立美術館(英語)(※音が出ます)
http://www.rijksmuseum.nl/index.jsp?lang=en
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高級官僚の事情/井伊直弼の首(野口武彦)

2008-03-14 23:44:24 | 読んだもの(書籍)
○野口武彦『井伊直弼の首:幕末バトル・ロワイヤル』(新潮選書) 新潮社 2008.2

 オランダ紀行をひとやすみ。今週、時差ボケの頭に活を入れるため、読んでいたのはこの本。雑誌『週刊新潮』に連載された「安政内憂録」「安政血風録」を収める。前著『幕末バトル・ロワイヤル』(天保の改革~日米和親条約)に続き、下田開港以後の混乱、ハリス来日、日米修好通商条約調印、安政の大獄、桜田門外の変、万延遣米使節団派遣という、内政外交の大激動に加えて、地震・大風・コレラまでが相ついだ、事件「てんこもり」の安政年間を描く。

 かつて、私が幕末維新史に多少の興味を持つようになったのは、司馬遼太郎の影響だった。『竜馬がゆく』とか『燃えよ剣』とか『世に棲む日々』とか、まあひととおり読んで、この時代を生きた日本人は、なんてカッコいいんだろう、と思ってシビレた。ところが、野口武彦さんの本の主役たち(体制派=幕臣が多い)は、なんだか悲しいほど小粒である。もちろん幕臣にも、それなりのスターはいる。阿部正弘とか、岩瀬忠震とかね。でも、どんなに頭脳明晰で実行力があっても、官僚は官僚で、坂本竜馬や高杉晋作のような反体制ヒーローのオーラは感じられない。

 逆に、ダメ官僚の例なら、いくらでもある。その象徴が井伊直弼ということになるだろうか。未曾有の国難を前にしても、将軍継嗣人事にからむ権力闘争しか念頭にない。小心で疑り深い性格が、酷薄な「安政の大獄」を生み、反動として「桜田門外の変」を招いた。私が驚いたのは、井伊直弼亡きあとの幕府の事態収拾策である。巷間には徹底した言論統制がしかれた。ゴシップの宝庫『藤岡屋日記』にも一切言及がないという(そのかわり『桜田実記』等、ひそかに筆写回覧された写本は残っているそうだ。見たい!)。

 当日、井伊本人から「負傷届」が提出され(えええ!)、翌日、将軍の上使が藩邸に「病気見舞」に訪れ、朝鮮人参を賜った。1ヵ月後「養生相叶わず」正式に井伊の死去が届け出られた。もし、暗殺=不慮の死を認めれば、「武道不覚悟」の故をもって、領地没収・家名断絶にしなければならないのだが、それを避けたのである。なんと見事な事なかれ主義。「ある」を「ない」と言い、「死んでいる」ものを「生きている」と言いくるめる厚顔ぶり。日本の官僚制度が、幕末にこれほどの”洗練”を遂げていたとは。そりゃあ、いまの霞ヶ関の官僚体質が根深いはずだなあ。

 井伊と対照的なのが、無私の極みのような吉田松陰。彼は兵学書「孫子」に「幕末日本をどう兵学的に把握するか」を読み込んだという。本書にはごく一部しか紹介されていないが、非常に興味深く思った。松陰の著書『孫子評註』、読んでみたい。また、強い印象を残すのは、幕末民衆の「擦れっ枯らし」ぶりである。失墜した権力者にむけたジョーク・パロディには、剥き出しの残酷さが感じられる。抑圧・搾取される民衆なんて、生ぬるい存在はどこにいるのかとさえ思う。

 私はよくは知らないが、本書はいわゆる「史談」の伝統を引いているのだろうか。有名・無名の人々が、いまそこにいるような臨場感。でも、決してでっちあげではなくて、十分信頼できる資料に依拠しているのだろう(その資料は、明かされていることもあれば、はっきり示されていない箇所もある)。とにかく面白くてためになる。もっと読みたい。

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今様オランダ風説書(3):図書館散歩つづき

2008-03-12 23:19:41 | ■オランダ風説書2008
 続いてライデン大学図書館(本館)を見学した。手荷物をロッカーに預け、「学生のような顔で、後についてきてください」という案内者に従うと、ノーチェックで館内に入れる。

 ライデン大学の歴史は古い。1575年(天正3年、織田信長が武田軍を破った長篠の戦いの年)の設立である。そして、図書館も同じ年に設置されたことが、英文Wikipediaに記述されている。当然、書庫の中は、東西の貴重書で埋まっているのだろう。同大学の場合、研究者や院生が使う学術研究書の収集・提供は、学部や研究所の図書館が担っている。本館の役割は、学生用の基本図書の提供と、貴重書の集中保管の2つであるという。

 開架図書へのアクセスは、上記のように大アマだが、書庫の本はそうはいかない。もちろんIDがなければ出してもらえない。そして、請求してから早くても1時間は待たされるという。ただし、ネットワークを通じて請求できるので、前日の晩に自宅から請求し、翌朝、カウンターで受け取ることもできる。貴重書の場合はもっと厳しくて、中1日はかかる。これは、貴重書の保管庫がきわめて安定した環境(温度・湿度)に保たれているため、閲覧室に持ち出す前に「馴らし」が必要であるそうだ(とりわけ、古写真の場合)。人間の高山病予防みたいなものだ。

 日本では、「院生以上」や「教員」には入庫資格を認めている大学が多いと思うが、オランダでは、そうではない。「図書館員は専門職ですから。強いんです」と案内者は言う。その一方、受益者負担(対価を支払えば、サービスを受ける資格がある)という考え方も徹底していて、一般市民であっても、登録料を払えば図書館のIDを獲得することができるし、貴重書も閲覧できる。ちなみに、古書を傷めないという理由で、持ち込みのデジカメによる撮影が推奨されているとも聞いた。

 この「受益者負担」の徹底には、さまざまな場面で出くわした。たとえば、ライデン市の公共図書館も、閲覧だけなら無料だが、貸出サービスを受けるには、登録料が必要だという(確か。子どもは全て無料)。さらに、新刊書やCD、DVDを借りるには別料金がかかる。事前情報として、王立図書館(Koninklijke Bibliotheek, KBと略す)のWebサイトを見ていたときも、Reading room passは無料だが、本を借りたり、オンラインデータベースを使ったり、特殊コレクションにアクセスできるKB-passは年15ユーロ(2,500円位?)とあって、ちょっと奇異な感じがしていた。

 外国の図書館といえば、つい、アメリカを「標準」として思い浮かべがちである。菅谷明子さんの『未来をつくる図書館』(岩波書店、2003)には、ニューヨーク市民である著者は、ニューヨーク公共図書館のWebサイトを通じて、高額な外部データベースを「無料で」利用できる、という記述があった。しかし「公共」や「フェアネス」の考え方には、いろいろな差異があるのだなあ、ということを考えさせられた。

↓公共図書館は”B”が目印。


 さて、図書館見学記録のみ、まとめておけば、翌日3/6はアムステルダムのIIAV(国際女性運動情報・資料センター)を視察。古い教会を再利用した書庫兼閲覧室がユニークである。最近は、宗教離れが進んでいるため、使われなくなった教会をコミュニティセンターなどに再利用するケースが多いのだそうだ。カトリック教国でもあるのかなあ。なんとなく、新教国のオランダならでは、という気がする。

 3/7はハーグの国立文書館と王立図書館を見学。デン・ハーグ中央駅を出るとすぐの好立地で、どちらもフレンドリーな雰囲気の新しい建築だった。パスポートを預けると館内に入れてくれる。両館をつなぐ渡り廊下に展示室があり、文書館・図書館共催で、息を呑むような貴重書展示が行われていた。まあ、本場だもんなあ。日本と比較してはいけないのかもしれないが。海の底のような薄暗いホールに、たくさんの展示ケースが、低木のように「林立」している(東博の法隆寺館みたいな感じ)。展示品は、各ケースに1点。ケースの脇のタッチパネルでは、当該資料の説明・画像(拡大、回転、スライドショー)・音声・動画などをあわせて楽しむことができる。展示室の壁全面をスクリーンに、文書館・図書館の紹介(感覚的・実験的で、芸術作品みたいな映像!)が流れ続けるのにも、うっとりする。

 王立図書館の開架閲覧室は、明るく、暖かな雰囲気で、気持ちがよかった。木製の書架に大きな絵が描いてあったり、わざとコーナーごとに異なるタイプのソファセットが置いてあったり、それから、なぜかチェスの駒を並べたテーブルがあった。本を読み飽きたら、利用者どうしで対戦したりするのかしら。私はこれまで、オランダの王立図書館を訪ねた話は、全く聞いたことがなかったが、機会のある方には、ぜひ一見をお薦めしたい図書館である。

↓手前のオレンジの旗が国立文書館、奥の”KB”が王立図書館。


 最後に、オランダといえば、私の大好きな中国歴史ミステリー”ディー判事シリーズ”のロバート・ファン・フーリックもライデン大学出身である。思い出したので付記しておこう。

 次は、美術館探訪記に続く予定。

■オランダ王立図書館(National Library of the Netherlands =Koninklijke Bibliotheek)(英語)
http://www.kb.nl/index-en.html

■オランダ国立文書館(The Nationaal Archief)(英語)
http://www.en.nationaalarchief.nl/default.asp
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今様オランダ風説書(2):ライデン、図書館散歩

2008-03-11 23:55:09 | ■オランダ風説書2008
 午後は、ライデン大学を見学。知人を介して、同大学に滞在中の日本人の方に案内をお願いしてあった。初対面の案内者とシーボルトハウスの前で落ち合い、日本・朝鮮研究センターの図書室を訪ねた。



 仏龕のようなアーチ型のガラス扉の左右には「韓国学研究所」「日本学研究所」という漢字(繁体字)の額が対聯のように掛かっている。実際には中国・朝鮮・日本の3カ国語の資料を扱っているのだそうだ。案内者がガラス戸の中を覗き込み、「あ、ちょうど良かった」という。カウンターにいる背の高い男性が、日本語専門の司書の方なので、話が早いというのだ。

 私は日本語で来意を告げた。実は、「かつて東京大学がライデン大学に寄贈したという不確かな記録の残っている図書」について、存在を確かめてみたいと思っていたのである。「いつ頃の話ですか?」と聞かれて「1960~70年代だと思います」と、ひとに聞いたままを答えると「僕が中学生か高校生の頃ですね」と苦笑された。「日本語の本は、まだ全てデータベースに入っていないので」と書名をたよりにカード目録を引いてくれた。私が「ゾク群書類従と…」と不用意に言いかけたら、「ショク群書類従ですね」とさりげなく訂正されてしまった(感心!)。

 東京大学は、大正12年(1923)関東大震災によって、蔵書の大半を失った。その後、国内外から寄せられた寄贈と援助によって、現在の総合図書館が再建されたことは、昨年秋の展示会『世界から贈られた図書を受け継いで』に詳しい。しかし、このとき、多数の篤志家から寄贈された図書には、重複するものも多かった。図書館は重複資料の一部を、他の図書館に周旋する措置を取ったらしい。私は「1960~70年頃の話」と聞かされていたが、これは全くの誤伝で、本には「To the University of Leiden Presented by Tokyo Imperial University, 1932」という寄贈票が貼ってあった。ちなみに、9年後の昭和16年(1941)には、オランダは日本に宣戦布告して交戦状態に入る。

 今回、私が確認したかった(そして達成された)41冊は「鴎外文庫」の一部である。1922年に没した森鴎外の蔵書約18,700冊は、遺族から東大に寄贈された。しかし、「続群書類従」「続々群書類従」などの基本図書は、既存の蔵書と重複したため、こうして海を渡ることになってしまったらしい。また「南葵文庫」の印のあるものも発見した。南葵文庫は、紀州徳川家藩主頼倫が麻布に開設した図書館で、永井荷風も通ったという。

 明治の初め、ヨーロッパの先進文化を日本に移植することに労を払った鴎外や荷風が、実際に手に触れた(かもしれない)書物が、縁あって、オランダの地に落ち着くというのも、ゆかしいことである。寄贈者の厚意を、と腹を立てる必要はないと思う。書物の生命は意外と長い。はじめの持ち主と縁が切れれば、次の持ち主へ渡るのは自然なことだ。図書館も、書物の終の棲家ではない。古書店主・橋口侯之介さんの『和本入門』や和田敦彦さんの『書物の日米関係』などを思い合せて、感慨にふけった。
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今様オランダ風説書(1):到着~ライデン、シーボルトの記憶

2008-03-10 23:08:18 | ■オランダ風説書2008
 3月4日の昼過ぎ、成田を発って、アムステルダムまで13時間。久々の長旅だなあと思っていたが、トラブルもなく、平穏に到着した。雪交じりの冷たい風に震えながら、アムステルダム駅前のホテルに落ち着く。鰻の寝床のように奥の深い建築は、かつて東インド会社の倉庫だったという。

 翌朝、鉄道で、最初の視察地ライデンへ向かった。古い大学町だと思っていたら、全く近代的な駅のたたずまいに拍子抜けした。それでも、しばらく歩いていくと、運河堤に風車が見えてきたり、次第に趣きある旧市街に到達した。案内をしてくれる方との約束は午後からなので、午前中はフリータイムである。観光名所のひとつである、ライデン大学植物園に入る。大通りに面した建物(大学本部らしい)は工事中だったが、足場の下をくぐって奥に進むと、植物園は開園していた。ここでは、シーボルトが日本から持ち帰った約500種の植物のうち、13種15本が今でも栽培されている。

 日本からの連れが、建築用の足場に覆われた壁面に、縦書の文字が大書してあるのを見つけた。「何か書いてありますよ、日本語ですよ」という。「東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな 菅原道真」とある。無邪気に首をひねる彼には、全く意味が分からないらしい。

 もちろんこれは、平安時代の文人政治家、菅原道真が、配流の地、大宰府で、京のみやこを思い出して詠んだ和歌である。一方、この植物園に縁の深いシーボルトは、1828年、長崎に妻子を残して帰国する際、ご禁制の日本地図を持ち出したことが見つかり、国外追放・再渡航禁止の処分を受けてしまう。彼が再び日本の地を踏んだのは、1859年のことだった。その間、30年。シーボルトは、遥かユーラシア大陸の東の果てを思い続けたことだろう。なんとも壮大な「東風(こち)」になぞらえたものだ、と思って、この植物園の壁にこの和歌を記した人物の機智と思いやりに感心した。面倒くさいので、同行人には教えてやらない。

 植物園の中には、熱帯植物の茂る巨大なグラスハウスあり、古風なオランジェリー(温室)あり(外壁では日本産の木瓜が満開)、日本庭園あり(河畔の柳?が借景)と楽しめる。隣接する天文台のドームも、歴史ある大学らしい風景である。チューリップにはまだ早いが、私の大好きなクリスマスローズが地面にあふれ返り、品のいい芳香が鼻孔をくすぐる。

 それから、シーボルトハウスを見学。シーボルト旧居跡に、彼が日本から持ち帰った800点余りのコレクションを展示した博物館である。これがすごい。噂には聞いていたが、これほどのバラエティに富んだコレクションとは!! 19世紀の「博物学」という言葉の持つ、底知れない豊かさと貪欲さを実感させてくれる。剥製、植物標本、印刷物、金物、食器、玩具、模型、着物、装身具...とにかく何でもアリなのだ。そして、敢えて知的な整理や分類を加えず、その「ひっくり返したおもちゃ箱」的な魅力を正面に据えた展示方法は、冒険的である(いや、実は細かな計算があるのかしら)。

 無邪気な同行人も「うわ~すげえな」と驚いた様子。が、1点1点詳しく見ようとするほどの関心はないらしく、展示ケースの前を早足に通り過ぎていく。ええ~もうちょっとゆっくり見ようよ~と思ったが、何せ今回は観光が目的ではない。地図や錦絵の版元とか、1つ1つ確かめたかったのだが、泣いて諦めることにした。あとで期待を込めて所蔵品カタログを物色したが、満足できるものがなかったのは残念。

 数あるコレクション品の中で、印象深かったのは、日本犬のサクラの剥製。シーボルトが日本から連れ帰り、このライデンの町で飼われていたという。ガラス玉で表現されたやさしい黒目が、小さな歴史を語っているようだった。

■ツアコンモバイル通信:ライデンのシーボルト(菅原道真歌の壁書の写真あり)
http://www.nta.co.jp/ryoko/tourcon/2003/030519_1/

■シーボルト・ハウス(公式サイト)
http://www.sieboldhuis.org/
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