○佐川美術館・樂吉左衞門館 開館記念Ⅱ吉左衞門『り<RI>展』
http://www.sagawa-artmuseum.or.jp/
閉まる美術館があれば、開く美術館もある。休館の決まった琵琶湖文化館のあとは、守山市の佐川美術館を訪ねた。2007年9月に新設された樂吉左衞門館を見るためである。
楽吉左衛門氏(以下、この表記を用いる)は、茶碗師・楽家の第15代ご当主。”楽茶碗萌え”の私にとって、ご当代は神様みたいな存在である。一度だけ楽美術館でお見かけしたことを、大切な宝物としている。ただ、正直にいうと、楽家初代の長次郎とか、三代道入などの茶碗に比べると、ご当代の作品は、私にはとっつきにくい(萌えにくい)。なんというか、現代アート的で、茶碗らしさが薄いのだ。
佐川美術館が、楽吉左衛門氏の常設展示館(茶室付き)を建てたらしいということは、昨年秋のオープン以来、なんとなく聞いていた。しかし、その具体的な実相は、2月24日のNHK新日曜美術館『茶室誕生:陶芸家・楽吉左衛門の挑戦』を見て初めて知った。放送が終わって、私は呆然としてしまった。これは、掛け値なしに「恐るべき」建築だと思った。
設計創案は楽吉左衛門氏。しかし、もちろんご当代は建築の専門家ではないから、芸術家の直感に基づく着想を、実際に施工可能なプランに置換していかなければならない。この困難な仕事を請け負ったのは竹中工務店。私は、新日曜美術館を見ていて、竹中工務店の技師(というのかしら)の皆さんに、本当に感心した。コンクリートの色(黒土を混ぜ、表面に木目を写す)、割石を敷いた床の風合い(選りに選ってジンバブエの石材を使用)など、次々と高い要求を繰り出す吉左衛門氏もすごいが、それに応えるスタッフの技術力もすごい。ある意味、こういう妥協を許さない施主の存在が、日本の「ものづくり」産業を鍛えてきたんだなあ、と思った。
竹中工務店のサイトに掲げられた楽吉左衛門館の紹介はこちら。ただし、残念ながら、茶室の見学は予約制である。訪問前に、駄目もとで電話をかけてみたのだが、「4月末までいっぱいです」と言われてしまった。というわけで、今回は展示館のみ参観。それでも、水上に張り出した通路のどんづまりから、地下(水面下)に通ずる階段を下り、ガラスの天井越しに水面の光のゆらめきを眺めるホールなど、さまざまな創意を楽しめる。
展示室は、作品保護という観点ではなく、非日常を演出するため、極端に暗い。スポットライトに輝く釉薬が、街の夜景のように見える。しばらくして、作品ひとつひとつに漢詩が付けられていることに気づいた。吉左衛門氏の作品は、とっつきにくいのだが、今回は、この漢詩に助けられたような気がした。詩があることで、あ、そういう気分で眺めればいいのか、ということがなんとなく了解されるのである。吉左衛門氏の作品は、茶碗としては大ぶりなものが多い。どのくらいの重さなのだろう。楽茶碗は、意外と見た目より軽いことを体験している私としては、ご当代の茶碗を持ってみたくて、手がうずいた。
帰ってから『芸術新潮』3月号を読んだ。特集は「楽吉左衛門が語りつくす茶碗・茶室・茶の湯とはなにか」。読み応えのある記事の中でも、川瀬敏郎氏の「楽さんの茶碗には切実さを感じる。だから見ていられないんですよ」という発言にドキリとした。
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閉まる美術館があれば、開く美術館もある。休館の決まった琵琶湖文化館のあとは、守山市の佐川美術館を訪ねた。2007年9月に新設された樂吉左衞門館を見るためである。
楽吉左衛門氏(以下、この表記を用いる)は、茶碗師・楽家の第15代ご当主。”楽茶碗萌え”の私にとって、ご当代は神様みたいな存在である。一度だけ楽美術館でお見かけしたことを、大切な宝物としている。ただ、正直にいうと、楽家初代の長次郎とか、三代道入などの茶碗に比べると、ご当代の作品は、私にはとっつきにくい(萌えにくい)。なんというか、現代アート的で、茶碗らしさが薄いのだ。
佐川美術館が、楽吉左衛門氏の常設展示館(茶室付き)を建てたらしいということは、昨年秋のオープン以来、なんとなく聞いていた。しかし、その具体的な実相は、2月24日のNHK新日曜美術館『茶室誕生:陶芸家・楽吉左衛門の挑戦』を見て初めて知った。放送が終わって、私は呆然としてしまった。これは、掛け値なしに「恐るべき」建築だと思った。
設計創案は楽吉左衛門氏。しかし、もちろんご当代は建築の専門家ではないから、芸術家の直感に基づく着想を、実際に施工可能なプランに置換していかなければならない。この困難な仕事を請け負ったのは竹中工務店。私は、新日曜美術館を見ていて、竹中工務店の技師(というのかしら)の皆さんに、本当に感心した。コンクリートの色(黒土を混ぜ、表面に木目を写す)、割石を敷いた床の風合い(選りに選ってジンバブエの石材を使用)など、次々と高い要求を繰り出す吉左衛門氏もすごいが、それに応えるスタッフの技術力もすごい。ある意味、こういう妥協を許さない施主の存在が、日本の「ものづくり」産業を鍛えてきたんだなあ、と思った。
竹中工務店のサイトに掲げられた楽吉左衛門館の紹介はこちら。ただし、残念ながら、茶室の見学は予約制である。訪問前に、駄目もとで電話をかけてみたのだが、「4月末までいっぱいです」と言われてしまった。というわけで、今回は展示館のみ参観。それでも、水上に張り出した通路のどんづまりから、地下(水面下)に通ずる階段を下り、ガラスの天井越しに水面の光のゆらめきを眺めるホールなど、さまざまな創意を楽しめる。
展示室は、作品保護という観点ではなく、非日常を演出するため、極端に暗い。スポットライトに輝く釉薬が、街の夜景のように見える。しばらくして、作品ひとつひとつに漢詩が付けられていることに気づいた。吉左衛門氏の作品は、とっつきにくいのだが、今回は、この漢詩に助けられたような気がした。詩があることで、あ、そういう気分で眺めればいいのか、ということがなんとなく了解されるのである。吉左衛門氏の作品は、茶碗としては大ぶりなものが多い。どのくらいの重さなのだろう。楽茶碗は、意外と見た目より軽いことを体験している私としては、ご当代の茶碗を持ってみたくて、手がうずいた。
帰ってから『芸術新潮』3月号を読んだ。特集は「楽吉左衛門が語りつくす茶碗・茶室・茶の湯とはなにか」。読み応えのある記事の中でも、川瀬敏郎氏の「楽さんの茶碗には切実さを感じる。だから見ていられないんですよ」という発言にドキリとした。