午後は、ライデン大学を見学。知人を介して、同大学に滞在中の日本人の方に案内をお願いしてあった。初対面の案内者とシーボルトハウスの前で落ち合い、日本・朝鮮研究センターの図書室を訪ねた。
仏龕のようなアーチ型のガラス扉の左右には「韓国学研究所」「日本学研究所」という漢字(繁体字)の額が対聯のように掛かっている。実際には中国・朝鮮・日本の3カ国語の資料を扱っているのだそうだ。案内者がガラス戸の中を覗き込み、「あ、ちょうど良かった」という。カウンターにいる背の高い男性が、日本語専門の司書の方なので、話が早いというのだ。
私は日本語で来意を告げた。実は、「かつて東京大学がライデン大学に寄贈したという不確かな記録の残っている図書」について、存在を確かめてみたいと思っていたのである。「いつ頃の話ですか?」と聞かれて「1960~70年代だと思います」と、ひとに聞いたままを答えると「僕が中学生か高校生の頃ですね」と苦笑された。「日本語の本は、まだ全てデータベースに入っていないので」と書名をたよりにカード目録を引いてくれた。私が「ゾク群書類従と…」と不用意に言いかけたら、「ショク群書類従ですね」とさりげなく訂正されてしまった(感心!)。
東京大学は、大正12年(1923)関東大震災によって、蔵書の大半を失った。その後、国内外から寄せられた寄贈と援助によって、現在の総合図書館が再建されたことは、昨年秋の展示会『世界から贈られた図書を受け継いで』に詳しい。しかし、このとき、多数の篤志家から寄贈された図書には、重複するものも多かった。図書館は重複資料の一部を、他の図書館に周旋する措置を取ったらしい。私は「1960~70年頃の話」と聞かされていたが、これは全くの誤伝で、本には「To the University of Leiden Presented by Tokyo Imperial University, 1932」という寄贈票が貼ってあった。ちなみに、9年後の昭和16年(1941)には、オランダは日本に宣戦布告して交戦状態に入る。
今回、私が確認したかった(そして達成された)41冊は「鴎外文庫」の一部である。1922年に没した森鴎外の蔵書約18,700冊は、遺族から東大に寄贈された。しかし、「続群書類従」「続々群書類従」などの基本図書は、既存の蔵書と重複したため、こうして海を渡ることになってしまったらしい。また「南葵文庫」の印のあるものも発見した。南葵文庫は、紀州徳川家藩主頼倫が麻布に開設した図書館で、永井荷風も通ったという。
明治の初め、ヨーロッパの先進文化を日本に移植することに労を払った鴎外や荷風が、実際に手に触れた(かもしれない)書物が、縁あって、オランダの地に落ち着くというのも、ゆかしいことである。寄贈者の厚意を、と腹を立てる必要はないと思う。書物の生命は意外と長い。はじめの持ち主と縁が切れれば、次の持ち主へ渡るのは自然なことだ。図書館も、書物の終の棲家ではない。古書店主・橋口侯之介さんの『和本入門』や和田敦彦さんの『書物の日米関係』などを思い合せて、感慨にふけった。
仏龕のようなアーチ型のガラス扉の左右には「韓国学研究所」「日本学研究所」という漢字(繁体字)の額が対聯のように掛かっている。実際には中国・朝鮮・日本の3カ国語の資料を扱っているのだそうだ。案内者がガラス戸の中を覗き込み、「あ、ちょうど良かった」という。カウンターにいる背の高い男性が、日本語専門の司書の方なので、話が早いというのだ。
私は日本語で来意を告げた。実は、「かつて東京大学がライデン大学に寄贈したという不確かな記録の残っている図書」について、存在を確かめてみたいと思っていたのである。「いつ頃の話ですか?」と聞かれて「1960~70年代だと思います」と、ひとに聞いたままを答えると「僕が中学生か高校生の頃ですね」と苦笑された。「日本語の本は、まだ全てデータベースに入っていないので」と書名をたよりにカード目録を引いてくれた。私が「ゾク群書類従と…」と不用意に言いかけたら、「ショク群書類従ですね」とさりげなく訂正されてしまった(感心!)。
東京大学は、大正12年(1923)関東大震災によって、蔵書の大半を失った。その後、国内外から寄せられた寄贈と援助によって、現在の総合図書館が再建されたことは、昨年秋の展示会『世界から贈られた図書を受け継いで』に詳しい。しかし、このとき、多数の篤志家から寄贈された図書には、重複するものも多かった。図書館は重複資料の一部を、他の図書館に周旋する措置を取ったらしい。私は「1960~70年頃の話」と聞かされていたが、これは全くの誤伝で、本には「To the University of Leiden Presented by Tokyo Imperial University, 1932」という寄贈票が貼ってあった。ちなみに、9年後の昭和16年(1941)には、オランダは日本に宣戦布告して交戦状態に入る。
今回、私が確認したかった(そして達成された)41冊は「鴎外文庫」の一部である。1922年に没した森鴎外の蔵書約18,700冊は、遺族から東大に寄贈された。しかし、「続群書類従」「続々群書類従」などの基本図書は、既存の蔵書と重複したため、こうして海を渡ることになってしまったらしい。また「南葵文庫」の印のあるものも発見した。南葵文庫は、紀州徳川家藩主頼倫が麻布に開設した図書館で、永井荷風も通ったという。
明治の初め、ヨーロッパの先進文化を日本に移植することに労を払った鴎外や荷風が、実際に手に触れた(かもしれない)書物が、縁あって、オランダの地に落ち着くというのも、ゆかしいことである。寄贈者の厚意を、と腹を立てる必要はないと思う。書物の生命は意外と長い。はじめの持ち主と縁が切れれば、次の持ち主へ渡るのは自然なことだ。図書館も、書物の終の棲家ではない。古書店主・橋口侯之介さんの『和本入門』や和田敦彦さんの『書物の日米関係』などを思い合せて、感慨にふけった。