見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

老侯の生涯/殿様と鼠小僧(氏家幹人)

2009-01-18 23:58:55 | 読んだもの(書籍)
○氏家幹人『殿様と鼠小僧:松浦静山『甲子夜話』の世界』(講談社学術文庫) 講談社 2009.1

 平戸藩の第9代藩主、静山こと松浦清(1760-1841)の生涯を中心に、当時の世相を活写した歴史エッセイ。静山は幕閣での栄達を強く望みながら、志を果たせず、早々に隠居暮らしに入った。以後82歳で没するまで、随筆『甲子夜話』の執筆など、悠々自適の生活を楽しんだように見えるが、失意と鬱屈の情を抱き続け、時に老残の悲哀をのぞかせる。そんな静山に対する著者の暖かな視線が心に沁みる1冊である。

 面白いと思ったのは、当時、大名や旗本の屋敷で働く奉公人は、譜代者が姿を消し、1年ないし半年契約の「出替り奉公人」が大勢を占めていたという話。これは静山より少し前の荻生徂徠の著書『政談』でも指摘されているそうだ。それから、18世紀後半から19世紀にかけての「江戸における老人社会の広がり」。幕府の旗本衆は、80~90歳に達しても現職に留まる者が多かったという。なんとなく今の世相に重なり、苦笑させられた。

 一方で、大名たちの隠居年齢は時代とともに低下し、1800年以降は45.8歳まで低下している。静山が隠居して死ぬまでの間、彼と同じような老侯(隠居大名)は常時80~90名も存在し、ほとんどは江戸で暮らしていたと思われる。なんという老人、いや老侯社会(高齢者ばかりではないが、全て非生産者である)。でも、彼ら隠居老人たちこそが、江戸の文化と学芸を担ったのではないかしら。

 『甲子夜話』からは「石塔磨き」と「鼠小僧」という2つのテーマが紹介されていて、どちらも面白い。が、やはり静山そのひとの逸話のほうが、際立って興味深かった。息子の熈(ひろむ)が平戸で隠居することになったとき、「江戸(東)と平戸(西)に隠居が並び立つのは、相撲みたいだ」とユーモアを交えて書き送った手紙には、老いた父の情愛が滲み出ている。また、幼い頃の静山を慈しんでくれたのは、祖母の久昌夫人だった。その甘美な記憶は『甲子夜話』のところどころに顔を出している。ちょっと近代文学的な、漱石や鏡花が「母なるもの」に向ける感情に通じるものがある。

 晩年、亡妻のために百万遍の念仏を唱え続けたこと(挫折した宿願を息子の熈が引き継いだこと)、宴席を立ち去る寂しさを紛らわすため、女中たちに「ねこじゃねこじゃ」と囃させたことなども、人生の哀歓を感じさせて、胸に残るエピソードだった。平戸には一度行ったことがあるのだが、静山の墓所は墨田区本所の天祥寺にあるらしい。今度、お参りしてこよう。
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あの戦争から学ぶこと/アジア・太平洋戦争(吉田裕)

2009-01-17 23:28:33 | 読んだもの(書籍)
○吉田裕『アジア・太平洋戦争』(岩波新書:シリーズ日本近現代史6) 岩波書店 2007.8

 1941年の対米英開戦決断から戦局の推移、そして敗戦までを時系列順に論じたものである。小説ふうに登場人物たちに深入りすることは避け、各種の統計や文書に淡々と語らせるスタイルを取っている。

 本書は「なぜ開戦を回避できなかったのか」という点に、多くの紙数を費やしている。なるほど、と思ったのは、臨時軍事費の問題。臨時軍事費(臨軍費)とは戦争遂行のための特別会計予算である。議会や政府の統制が及ばないため、軍部は「戦費として計上された予算のかなりの部分を軍備拡充費に転用することが可能となる」。日中戦争の開始以来、莫大な臨軍費が措置され、軍部はこれを対ソ、対米軍備の充実に充ててきた。ここから、短期決戦に持ち込めば米英戦にも勝機がある、という幻想が生まれたという。やっぱり、お金の配分を厳格にコントロールしておかないと暴走が始まるという点では、軍部も(いまの)行政官僚も同じだと思う。

 最終的な開戦の決定には、大本営政府連絡会議および御前会議が重要な役割を担った。このことを著者は「明治憲法体制の変質」と指摘する。私は、戦後憲法擁護派の教育で育ったので、明治憲法=無力でダメな憲法、というイメージを強く焼き付けられてきたのだが、最近、そうとも言えないと思うようになった。不十分とは言え、明治憲法には天皇の大権を制限する、民主的な仕掛けが織り込まれていた。にもかかわらず、それらはなしくずしに形骸化されていったのである。

 当時、宣戦布告は枢密院の諮詢事項であったが、米英に対する宣戦布告の件が枢密院の審査委員会に付議されたのは、12月8日、真珠湾空襲が始まったあとだった。宣戦の詔書には国務大臣全員が副署しているが、それは「御前会議の決定を追認するだけのセレモニー」(家永三郎)となっている。ポツダム宣言受諾の詔書も同じ。明治憲法の起草にかかわった伊藤博文、井上毅は、草葉の蔭で歯噛みしていたに違いない。

 戦局について、日本軍は、餓死・病死・海没死(輸送艦船の沈没による)の割合が非常に高かった、というのはよく聞くところである。初めて知ったのは、兵力の動員が限界に達し、高齢・病弱者だけでなく、知的障害をもつ兵士の入営が増えていたということ。ある調査では4.5%の兵士が「精神薄弱」と判定されている。

 また、開戦直後、日本は広大な東南アジア地域を占領したが、米英蘭に代わって住民を養うだけの経済力(工業生産力)がなく、現地経済の破綻をもたらしたこと、統計上は「大東亜共栄圏」内に十分な米の生産量があったにもかかわらず、流通政策の失敗から各地で深刻な米不足が生じたこと、根こそぎの兵力動員が工業・農業生産に大きな打撃を与えたことなど、近代戦を遂行するには、「軍事」的な勝ち負けの判断だけでなく、実に多方面の影響を計算しておかなければならないんだなあ、ということを感じた。こんな面倒なことは、なるべくなら二度とかかわらないでおいてほしい。いまの日本の官僚に、こんな複雑なシミュレーションが解けるとは思えないから。
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初雪旅行(4):京都見仏拾遺

2009-01-16 23:41:35 | 行ったもの(美術館・見仏)
 春・秋と違って、冬の京都はのんびりできていい。旅の2日目、3日目は「京の冬の旅」特別公開の寺社(◎印)を目当てに、洛南をまわった。

1/11 京都国立博物館~◎勝林寺(東福寺塔頭)~伏見稲荷・東丸神社~えびす神社
1/12 東寺(◎五重塔内陣)~◎安楽寿院~石峰寺

 東福寺塔頭の勝林寺では毘沙門天像(平安時代)を公開。東福寺は九条道家(1193-1252)が発願健立したものだが、同地には、元来、藤原氏の氏寺・法性寺があった。東福寺の天井裏から見つかった(!)というこの毘沙門天像は、東福寺建立以前の作と考えられるそうだ。堂内が暗くて、お顔立ちがはっきり見えないのが残念。住職さんたちの着ていたムカデ紋(毘沙門天の眷属)の法被がカッコよかった。なお、PRパンフ等に『七難七福図』公開とあるのは、応挙筆でなくて弟子による模本である。

 安楽寿院では、胸に「卍」マークをつけた阿弥陀如来坐像(卍の阿弥陀)を公開。円派らしい、穏やかで優美な阿弥陀像である。この一帯は、もと鳥羽離宮が営まれていたところ。同寺は、鳥羽天皇、美福門院得子、近衛天皇の三者を弔うために建立されたという。院政期の天皇家をめぐるドロドロの人物相関図を思い出し、感慨深く思った。

 東寺はいつ行ってもいいが、冬の朝がいちばん好きだ。五重塔の屋根にうっすらと白い雪が残り、観光ポスターさながら。納経所でご高齢の団体さんと行き合ってしまったが、ガイドさんが「そろそろ行列が始まりますよ」と呼び集めている。面白そうなので後をついていくと、境内西側の本坊から、20人ほどのお坊さんが列をつくって退出していく。1月8日から14日まで、真言宗各派の高僧たちが国家安泰を祈願する「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」が行われているのだ。僧侶の列は南西隅の灌頂院に消えていき、マスクで表情を隠した若い侍僧が、ぴたりと門扉を鎖してしまった。ありがたや、ありがたや。五重塔内陣も、たまに入ると面白い。

 初詣は伏見稲荷へ。さらに市中に出て「十日えびす」で賑わう京のえびす神社にも参詣する。蒸しタケノコ、生姜、串カツなど、東京では見たことのない露店が珍しくて面白かった。

■写真はこちらで:中外日報(2009/01/10)真言宗最高の大法 東寺で 御修法開白
http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-news/08/news0801/news080110/news080110_01.html
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初雪旅行(3):京都御所ゆかりの至宝(京博)

2009-01-15 23:07:06 | 行ったもの(美術館・見仏)
○京都国立博物館 特別展覧会 御即位二十周年記念『京都御所ゆかりの至宝-甦る宮廷文化の美-』(2009年1月10日~2月22日)

http://www.kyohaku.go.jp/jp/index_top.html

 京都御所で歴代天皇が育まれた豊穣な宮廷文化の全貌をかえりみる展覧会。と聞いて、ふーん、源氏物語千年紀の焼き直しかしら?と思っていたのだが、勝手が違った。本展がスポットをあてるのは、主に院政期から近世初期の天皇たちの治世である。これは、よほどの日本史マニアでないと食いつかないんじゃないかなあ、と首をひねった。

 注目すべきは、まず歴代天皇の肖像画。神護寺蔵の『後白河法皇像』は、知らなかったが、いわゆる神護寺三像とセットであるらしい。大きさも同じくらい(→神護寺寺宝紹介)。国宝『後鳥羽天皇像』(水無瀬神宮蔵)は、丸谷才一氏のエッセイに、いつも挿絵を描いている和田誠氏の絵に可笑しいくらい似ていた。後鳥羽院はエピソード豊富な文化人帝王だが、御所に諸国の刀工を月ごとに招聘し、自らも鍛えたという、ゆかりの太刀も展示されていた。そんな体育会系(?)の一面もあったのか! 美化のカケラもない『花園天皇像』も私の好きな肖像画である。

 能書家・御陽成天皇の宸翰は、秀吉に朝鮮出兵を思い留まるよう、意見したもの。優美な散らし書きから「高麗国への下向」「朝家のため」「無勿体」などの文字が生々しく浮かび上がってくる。江戸初期の後西天皇・霊元天皇は、古記録・古典籍の副本作成を積極的に行った(→Wiki東山御文庫)。伝統文化の守護者としての天皇家には、後水尾天皇みたいに天才的なクリエイターがいる一方、こういう地道な貢献もあったのだなあ、と初めて知った。

 「宮廷と仏教」のセクションでは、京博所蔵の十二天像のうち『水天像』が眼福。智積院の『孔雀明王像』は特別拝観で一度見ている。妙法院の『普賢菩薩騎象像』は、見たような、見てないような、記憶が曖昧で、友人に確かめたら「1日違いで見られなかったはず」と言われた。なかなかの優品。一瞬、東京・大倉集古館の普賢菩薩騎象像が来ているのかと思った。あと絵画では、東福寺の狩野孝信筆『羅漢図』が「初公開」となっていたが、私はそっくりなものを鎌倉・円覚寺の風入れで見たと思う(数人の羅漢、右手に滝、異形の小者たちが石塔を組み建てようとしている)。孝信筆は「明兆筆の下絵をもとにしている」とあり、円覚寺のものは明兆筆とされていた。

 御所を飾った障壁画(門跡寺院などに下賜された)も多数出品されているが、興味深いのは、紫宸殿の『賢聖障子絵』20面(狩野孝信筆)。元服や即位、大嘗会などの重要儀式を行う紫宸殿には、中国の賢聖名臣を描くことが通例だった。そうか~私は神宮外苑の絵画館で、明治天皇の即位図を見たとき、まわりの壁に中国風の人物図が並んでいるのを奇異に感じたけど、長い日本の伝統だったんだな。障子絵では、誰が誰だか確認できないのだが、探幽筆の縮図を見ると、杜如晦、魏徴、房玄齢、李勣(以上、唐太宗の功臣)あるいは諸葛孔明とか、張良とか、よく知られた名前が記されている。ちょうど中国からの観光客(?)2人組が興味深そうに覗き込んで、何事か話していた。

 孝明天皇の冕冠(べんかん、中国風の天子の冠)も面白かったし、東山天皇の礼服(らいふく)にはびっくりした。上下に分かれ、チマチョゴリに似ている。平安初期、嵯峨天皇の詔で決められたという由緒正しいものだが、明治以降は用いられていないそうだ。復活させたら大ブーイングだろうなあ、面白いけど。
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初雪旅行(2):若狭・地域の秘仏

2009-01-13 23:03:54 | 行ったもの(美術館・見仏)
○若狭歴史民俗資料館 新春テーマ展『地域の秘仏-若狭の信仰の歴史-』(2009年1月3日~2月8日)

http://www.pref.fukui.lg.jp/doc/rekimin/topics/theme0901.html

 同じ仏像好きの友人から「小浜で『地域の秘仏』展がある」と聞いたのは昨年の秋頃だったろうか。観音霊場として知られる小浜には、10年以上前に行ったきり。久しぶりに再訪してみたいと思って、カレンダーを眺めていた。この時期、心配なのは天候だが、土曜日、関東地方はなかなかの好天。東京~米原~敦賀と順調に乗り継いだが、目的地の小浜に近づくにつれて、車窓に白いものが舞い始めた。1駅手前の東小浜駅で下車して、資料館に駆け込む。

 テーマ展『地域の秘仏』は、仏像5点、仏画8点(国重文2点)。勝手にイメージしていたのと異なり、仏画のほうが優勢だった。優品は、萬徳寺の弥勒菩薩像。褪色して、一見地味だが、よく見ると院政期ふうの、ぽってりした色っぽさを感じる。対照的に、長源寺の弥勒菩薩像は、載金(キリガネ)の繊細な描線がよく残り、きりっとした雰囲気。羽賀寺の十二天屏風は、京都・東寺の十二天屏風によく似ていた。出品されていたのは六曲一双の一隻のみで、図像は閻魔天(人頭杖を持つ)・羅刹天(剣を持つ)・水天(亀に乗る)・風天・月天・日天かな? はっきりした墨線が近代的な感じ。仏像では、青蓮寺(美浜町)の聖観音菩薩立像がよかった。やや扁平で横広な顔立ちに、力強い切れ長の目が目立つ。横顔は、私の好きな室生寺の釈迦如来に似ているように思う。

 常設展にも仏像が10点(うち6点は複製)。小浜といえば十一面観音だが、不動明王など、あえて小浜らしくない仏像を展示しているようで面白かった。中でも変わりダネは『烏将軍』。口のとがった黒面、中国風の武人の恰好をしており、台座に「烏将軍」の銘を持つ。1990年11月、小浜市の浜辺に、赤い布で包まれて漂着したもので、中国・南宋時代(13世紀)の作。ただし、中国本土から流したにしては傷みが少なすぎ、誰がどこから流したのかは謎だという。漂着する神仏の縁起は数々あるが(長野の善光寺とか、東京の浅草寺とか)今日でもこういうことってあるのだなあ。「烏将軍」で調べてみたら、上海郊外の水郷の町・烏鎮に廟があるそうだ。

 資料館のあとは、徒歩圏内の寺院をまわるつもりだったが、雪は激しくなるばかり。最寄りの国分寺まで歩いてみたが、境内に人影もなく、すごすごと駅へ戻る。小浜泊。窓ガラスを叩きつけるような吹雪に脅かされながら就寝。

 翌朝、小浜での観光(見仏)は諦めることにして、呑気に駅まで行って京都までの切符を買おうとしたところ、「東舞鶴方面はいつ出るか分りませんよ」と冷たい宣告。やむなく先に動いた敦賀行きの列車に乗り込む。窓の外は、田圃と畦道の境も分からないくらいの白銀世界。木々の上に雪を載せた近くの山は水墨画のようだ。一番列車の前に除雪車を運行したらしいが、こんな状態でも列車って動くんだなあ、と感心した。湖西線の堅田を過ぎる頃から天気が回復し、京都では、積雪の気配もなし。別の国に来たようだった。

 教訓。冬の日本海側気候をナメてはいけません。

■これは便利:若狭小浜のデジタル文化財
http://www.city.obama.fukui.jp/section/sec_sekaiisan/Japanese/
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初雪旅行:石峰寺(若冲の墓に初参り)

2009-01-12 23:45:50 | 行ったもの(美術館・見仏)
 年末年始を休養にあてたので、この3連休は遠出をしようと思った。福井県小浜市の若狭歴史民俗資料館で『地域の秘仏』展を開催中と教えてくれた友人がいたので、出かけてみた。そうしたら、雪のため、外は歩けず、列車は遅れ、ほとんど雪景色を見に行ったようなハメに…。

 その話はあとにして、今日は久しぶりに京都の洛南を歩いてきた。洛南といえば、石峰寺を忘れるわけにはいかない。境内には、伊藤若冲が下絵を描いたという五百羅漢の石仏と、若冲の墓所がある。



 若冲の墓所に参るのは3度目。私は「昭和」の年記のある石峰寺のご朱印を持っているくらいなので、若冲ファン歴はかなり長い(自慢!!)。今日も受付にご朱印帖を預けて、本堂の裏山をひとまわり。「五百羅漢」と呼ばれているけれど、涅槃図があったり、出山釈迦図があったり、遊園地のジオラマみたいで楽しい。私とすれちがって若冲墓所に向かった若者グループからは「おお~」「え~」という賑やかな歓声があがっていた。若冲さん、あいかわらず人気ですねえ。

 石峰寺は黄檗宗の禅寺。ご朱印の「高着眼」という禅語(山門に扁額あり)は、昭和の頃と変わっていなかったが、挟んでいただいた半紙を見て、びっくりした。裏山の石仏が版画と手彩色で描かれている。か、かわいい! よく見ると「高着眼」の墨書の下に押された朱印も、この石仏である。これは20年前、いや、前回来た10年ほど前にもなかったもの。



 この石仏、裏山では「托鉢修行」と題されているもの。3、4人ずつ仲良く組になった托鉢僧たちを1枚の石板にあらわし、これを縦に並べて行列をつくる。薄い石板の不安定な傾き方が、体を前後に揺らしながら山を下ってくるように見えて、愛らしい。若冲が、伏見人形を並べて描いた絵を思い出した。


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浅草、銀座、新宿、渋谷/都市のドラマトゥルギー(吉見俊哉)

2009-01-10 00:39:37 | 読んだもの(書籍)
○吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー:東京・盛り場の社会史』(河出文庫) 河出書房新社 2008.12

 浅草、銀座、新宿、渋谷という4つの盛り場の分析を通して、都市の成立と日本の近代を論じる。1987年刊行。もとは80年代前半に著者の修士論文として執筆されたものだという。序章~I章では、先行研究が盛り場を「民衆娯楽地」や「都心機能」の視角から分析してきた系譜を整理し、本書は「盛り場=出来事」を上演論的視角から扱うことを確認する。ここは修士論文としては必要な前置きなんだろうけど、一般読者にはちょっと難解。適当に読み飛ばして次に進もう。

 1870~90年代(明治初期)、原型としての「博覧会」が上野に現れ、ついで「勧工場」が浅草や銀座につくられる。1910年代、東京で最も重要な盛り場は浅草だった。あらゆる種類の人々が浅草に群れ集い、渾然一体となって「一種の共同性」を実現していた。これに対して、1920年代以降、盛り場の主役となった銀座では、「眺める=演じる」身体感覚が重視された。

 戦後、同じことが再び起こる。60年代の新宿では、フォーク集会、アングラ演劇など、人々は日常の自明化された同一性を離れ、共同性の交感を体験することができた。「新宿的なるもの」は、かつての「浅草的なるもの」に似ていた。そして、1970年以降、「渋谷的なるもの」が登場する。そこは「モダン(近代的)」ならぬ「ナウ(現代的)」な若者が「見る・見られる=演じる」ために集う場所である。

 日本のポストモダンを考える上で、70年代の新宿(若者文化)→渋谷(管理された消費者文化)という文化的転換が重要であることは、多くの論者が指摘しているが、これを20年代の浅草(民衆娯楽)→銀座(未来=外国を志向するモダニティ)の転換と重ねて論じているところが、本書のユニークさである。「文庫版へのあとがき」は、日本ではこの変化は二度起きたが「世界を見渡すならば、こうした変化が一度しか起きないところも、長期間、何度となく起きてきたところも存在するだろう」という。面白い。

 本書が書かれた80年代半ば、アジアにはまだ東京に匹敵するほどの都市はなかった(はずだ)。しかし、ソウルは、北京は、ハノイは、ムンバイは、一体どのような発展の過程を踏んでいるのか、機能論や都市工学だけではなくて、本書のような「盛り場=出来事」の視座から比較してみたら、きっと面白い結果が出るものと思う。

 東京論=都市論は、ひところに比べると下火のようだ。90年代以降、急速な情報化によって、リアルな「盛り場」の成立が困難になってせいではないかと思う。いま、われわれの目の前に広がるのは、奇妙に同質で荒涼とした「ジャスコ的空間」でしかない(北田暁大、東浩紀『東京から考える』)。けれども、視線をアジア諸国に向ければ、80年代、日本で論じられた都市文化論の成果には、また新たな活用の途が開けるのではないかと思う。

 私は60年代の新宿文化は記憶にないし、70年代の渋谷文化にも縁が薄かった(東京の下町育ちなので)。けれど、本書から濃厚に漂ってくる80年代の空気はとても懐かしかった。栗本慎一郎、赤坂憲雄、網野善彦など、引用文献のひとつひとつに微笑みながら読んでしまった。
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色彩から墨色へ/田渕俊夫展(日本橋三越)

2009-01-07 23:01:02 | 行ったもの(美術館・見仏)
○日本橋三越本店ギャラリー『田渕俊夫展』(2008年12月27日~2009年1月18日)

http://www.mitsukoshi.co.jp/store/1010/tabuchi/

 日本画家・田渕俊夫氏の「画業40年、東京藝術大学退任」を記念する回顧展である。院展初入選時の初期作品を含む「プロローグ」、岩絵具の美しさを極限まで引き出した「色彩に魅せられて」、そして近年の大作、永平寺、鶴岡八幡宮の襖絵など「墨色に魅せられて」の3部構成で、50余点を展示している。

 私は、田渕俊夫氏というと、反射的に「青みがかった緑色」を連想する。70年代の同氏は、細い線で描かれた繁茂する植物、それを霞のように覆う緑色、という作品(上記サイトの画像でいうと『明日香栢森』1976年)を、繰り返し飽きずに描かれていたように思う。今回の回顧展では、80~90年代の同氏が、「緑」だけではなく「赤」「青」「金」など、さまざまな色彩の美しさを作品にしていることを初めて知った。単に「色彩の美しさ」と言っては陳腐にすぎる。純粋な「赤」や純粋な「金」――ほとんど抽象化された「色彩」であると同時に、岩絵具の即物的な性質そのもの――に対して、全身全霊で「帰依」しているような敬虔さが感じられる。

 これだけ「色彩」の美学を極めながら、2000年頃から、同氏は水墨画に新たな挑戦を始める。画家って貪欲だなあ。私は、田渕氏の水墨画はあまり好きではなかった。表現が斬新すぎて、どこか安っぽいポップアートみたいだなあ、と思っていたのだ。これは写真から受けた印象である。今回、現物を間近に見て、墨の香りが匂い立つような生々しい迫力を感じることができた。モノトーンの画面から、さまざまな色彩が滲み出し、脳裡に広がっていくようだった。

 私がいうのもおこがましいが、同氏には、人目を引いたり、時流に乗るために奇を衒った作品というのは1点もなくて、地道に研鑽を積まれて、今日に至られたという感じがする。色彩から水墨画へ。このあと、もう1回くらい、思わぬ転身を見せてくれるのではないかと思う。
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艶詩もまた好し/李商隠詩選(川合康三選訳)

2009-01-06 22:22:52 | 読んだもの(書籍)
○川合康三選訳『李商隠詩選』(岩波文庫) 岩波書店 2008.12

 むかし(学生時代)漢詩が好きだった。一語一語の印象が絵画のように鮮やかで、身体の奥から動かされるようなリズムは、口語体にも、日本古来の韻文(和歌・俳句)にもない魅力があった。有名な詩を読んでは覚え、覚えては口ずさんでいたと思う。いちばん親しんだのは、やっぱり、李白、杜甫、王維、白居易などの盛唐~中唐の詩人。東晋の陶淵明や、北宋の蘇軾もよく読んだ。

 私は教科書的な文学史を逸脱したつもりだったけれど、やっぱりどこかで「詩は志をいう」的な価値観にとらわれていたのかもしれない。社会派の詩、典雅静謐、隠逸を重んじる詩はいくらも読んだが、李商隠のような、艶麗耽美な恋愛詩は、ほとんど視野に入って来なかった。本書で知った、私の好きな詩句をいくつか挙げると、

  向晩意不適 暮れになんなんとして意かなわず
  駆車登古原 車を駆りて古原に登る
  夕陽無限好 夕陽 無限に好し
  只是近黄昏 只だ是れ黄昏に近し/『楽遊』

 蕪村の「愁ひつつ岡にのぼれば花いばら」を連想させる。ただし、こんなふうに措辞の素直な作はめずらしい。彼の面目は、典拠を散りばめ、わずか七言が、纏綿とモツれ絡まるような歌いぶりにある。

  昨夜星辰昨夜風 昨夜の星辰 昨夜の風
  画楼西畔桂堂東 画楼の西畔 桂堂の東
  身無彩鳳双飛翼 身に彩鳳双飛の翼無きも
  心有霊犀一点通 心に霊犀一点の通ずる有り/『無題』

 李商隠は、ただの艶冶郎ではなくて、武侯廟(諸葛孔明の陵墓)を題材に歴史を詠じたり、幼い息子のやんちゃぶりを詠んだり、形而上的な寓意詩を詠んだり、作品は多彩である。やっぱり、中華文化圏の詩人だなあ。全然詩風の異なる(ように見える)最晩年の白居易が、李商隠の詩を「酷愛した」というのも興味深い(Wikipedia)。
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対立を生む社会空間/思想地図 Vol.2:特集・ジェネレーション

2009-01-05 21:37:58 | 読んだもの(書籍)
○東浩紀、北田暁大編『思想地図』Vol.2:特集・ジェネレーション(NHKブックス別巻) 日本放送出版協会 2008.12

 2008年4月に創刊された『思想地図』は「叢書」NHKブックスの別巻であって、同時に「雑誌」を名乗るという、ユニークな出版物。第2号は「ジェネレーション」を特集し、家族、労働、世代間対立などの問題を扱う。

 しかし、本書に掲載されている若い世代の論考は、どれも抽象的・哲学的で、あまり胸に響かなかった。もちろん、本書は、社会政策や経済政策を提案する場ではない(題名が「思想地図」なんだし)。とは言え、年末年始のニュース報道で、今日を生きるための衣食住にも事欠く、「ロスジェネ世代」の生々しい姿を見てしまうと、抽象的な思弁が許される論者たちの「特権的な」立ち位置が、なんだか空々しく見えてしまうのだ。

 その点では、団塊世代の代表として登場する上野千鶴子氏は、いっそ見事なヒール(悪役)ぶりである。同氏は、著書『おひとりさまの老後』の中で、団塊世代は親から何も受け継がず、独力で全てを築いたのだから、自分一代で全てを使ってしまおう、と提唱しているそうだ。東浩紀氏は、これを「誠実な暴言」と批判的に受け止め、北田暁大氏が上野氏に真意を聞くインタビューを試みているのだが、受け答えはケンもホロロ。私が団塊ジュニアだったら殺意を抱くと思う。

 後半は、第二特集「胎動するインフラ・コミュニケーション」と題し、2編の座談会が組まれている。こっちのほうが、問題の抽象性と具体性のバランスがよくて、面白かった。印象的だったのは、東氏が触れている『ある島の可能性』という小説。登場人物の20代女性は「人員削減計画に反対してデモを起こすなんて、気温の低下や北アフリカのバッタの大群の襲来に反対してデモを起こすくらい、ナンセンス」だと考えている。つまり多くの現代人は、市場経済を自然環境のように感じているのだ。これは、とても共感をもって読んだ。問題は、社会空間=アーキテクチャ(環境)の捉え方にあるということだ。

 最後に、最も興味深く読んだのは、鈴木健氏の論考「ゲームプレイ・ワーキング」。人間が「遊ぶ」ことでコンピュータの精度を高め、付加価値を生み出していくという「ヒューマン・コンピューティング」の実例が紹介されている。「reCAPTCHA」というシステムでは、OCRが読み取りに失敗した単語画像データをCAPTCHAとして配信することで、図書館などの学術文献のデジタル化を助けているそうだ。かつてコンピュータは人間だった、という指摘にもハッとした(20世紀半ばまでは、天文学などで必要とされる膨大な計算も人間が行っていたのだ)。人間と電子コンピュータは、意外と持ちつ持たれつで、助け合っていけるものなのかもしれない。
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