見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

思い出の展覧会/麗しのうつわ(出光美術館)

2010-01-15 22:27:10 | 行ったもの(美術館・見仏)
出光美術館 『麗しのうつわ-日本やきもの名品選-』(2010年1月9日~3月22日)

 出光美術館は、陶磁器をめぐって、数々の意欲的な展覧会を送り出してきた。たとえば、景徳鎮、柿右衛門、古伊万里からデルフト、マイセンまでを視野に収めた『陶磁の東西交流』展。肥前磁器に焦点をあて、その成立と変遷を紹介した『柿右衛門と鍋島』展など。知的な興奮と眼の愉楽を兼ね備えた好企画が、いくつも思い浮かぶ。

 今回は「知的な興奮」をしばし忘れて「眼の愉楽」に身をゆだねるような展覧会である。最初のセクションは、最も新春にふさわしい、色彩豊かな京焼が並ぶ「京(みやこ)の美」。出光美術館の名品として名高い『色絵芥子文茶壺』(野々村仁清)が出品されている。嬉しいことに、隣りの展示ケースに光琳の『紅白梅屏風』が出ているので(~2/14)、これを背景に眺めると、贅沢感倍増。ところで、この壺を見ていたら、前日、根津美術館で全く同じ形の明代の茶壺を見たことを思い出した。銘は「四国猿」。頸の四方に4つの小さな耳(取っ手)がついているから「四国猿」かと思ったが、田舎者の意味らしい。室町~江戸初期に愛好された唐物茶壺は武骨な単彩釉だが(→例:徳川美術館)、「形」はそのままに、華やかな色絵でドレスアップして、その「違和」を楽しむところが、『色絵芥子文茶壺』の斬新さであったようだ。

 仁清は、華麗な色絵に目を奪われがちだが、形へのこだわりも面白い。『白釉耳付水指』は、ふくらんだ頭部の下に耳がついていて、鶴首瓶をひっくり返したような形をしている。白釉の下に赤いまだらが透けて覗く、柘榴のようなピンク色も、もちろん魅力的だけど。古清水の名品『色絵桜藤文鶴首徳利』も、高麗青磁に同形のものがあるし、『色絵松竹梅文硯屏』も、青磁や白磁に類品がありそうな気がする。でも、それらを、どうしてこんな「ラブリー」な色彩で飾ってしまうのか。日本人の「かわいい」もの好きの遺伝子は、けっこう根が深いように思う。

 続く「幽玄の美」のセクションでは、唐津、志野など、桃山以前の古陶を紹介。中でも抜群に古いのが猿投(さなげ)窯で、名古屋市東部の丘陵地帯で、奈良時代から平安時代にかけて焼かれた。しかし、11世紀半ばに宋から大量の磁器が流入したこと、12世紀になると隣接する瀬戸窯で施釉陶器窯があらわれたことから、13世紀には廃れてしまったそうだ。最近、私もようやく古陶のシブい魅力が分かるようになってきた。

 「うるおいの美」では、鍋島、柿右衛門など、色絵と染付の「磁器」を特集。最後は「いつくしむ美」で楽茶碗と織部。やっぱり、最初はこのへんがいちばんとっつきやすい。私の「やきもの開眼」は古九谷だったなあ(これも出光美術館、2004年の展覧会)と懐かしく思い出す。いや、そんなことをいうと、志野や織部を見れば、2007年の『志野と織部』展、楽茶碗を初めて知った2005年の『京の雅び・都のひとびと』など、私の「やきもの」鑑賞眼は、ひとえに出光美術館に育てられてきたんだなあ、と会場をまわりながら、あらためて思った。感謝々々。

 同展の後半には、板谷波山など、近代のやきものもシームレスに並べてあって、これもよかった。
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空き腹には毒?/陶磁器ふたつの愉楽(根津美術館)

2010-01-13 23:02:41 | 行ったもの(美術館・見仏)
根津美術館 新創記念特別展 第3部『陶磁器ふたつの愉楽 観るやきもの・使ううつわ』(2010年1月9日~2月28日)

 展示構成は、まず「観るやきもの」の視点から、(1)室町時代の陶磁器→(2)江戸時代の陶磁器→(3)20世紀の陶磁器→(4)昭和20年代以降の陶磁器、と続く。なのだが、この展覧会には、たいへん気前のいい「オマケ」がついている。雪村周継筆『龍虎図屏風』がそれで、冒頭の「室町時代の陶磁器」と次の「江戸時代の陶磁器」の間に据えられているのだが、うぉ~とそのインパクトに感激のあまり、冒頭に何が展示されていたかを忘れてしまうような迫力だ。右隻は、びよーんとバネ仕掛けのように飛び出した龍、油のように粘りつく水の飛沫。左隻は、背景の滝や竹林があやしく歪み、SF的な空間に出現した虎のよう。いいなあ。

 この「観るやきもの」では、それぞれの時代の美意識によって択ばれた陶磁器が並んでいる。「室町時代」は徹底した唐物好みで、すっきりと形のいい南宋や元の青磁が好まれた。「江戸」では、小ぶりで、どことなく生活感のある朝鮮の井戸茶碗や珠光青磁が登場。「20世紀」に入ると、世界的な中国陶磁ブームが起こり、1935年、ロンドンのロイヤルアカデミーで開かれた中国陶磁展(中国芸術国際展覧会)には、根津嘉一郎のコレクションも出品されたという。ただ、この頃に好まれた中国陶磁は(宋元から明清まで多様だが)あまりにも無駄なく美しくまとまったものが多くて、かえって魅力を感じない。逆に、強く共感するのは「昭和20年代以降」の美意識。実は、朝鮮陶磁や国焼(江戸時代、京都・瀬戸以外の諸地方で産した陶器)の美しさが発見されたのは、この時期なのだそうだ。

 展覧会では、作品のつくられた「産地」や「時代」で分類するのが常道だが、このように「鑑賞眼」の変遷に沿って並べなおしてみるのも新鮮である。自分では「古いもの好き」だと思っていても、実は、けっこう「新しい美意識」に影響されていることが分かったりする。私のお気に入りの逸品は、備前焼の『緋襷(ひだすき)鶴首花瓶』(桃山時代、16世紀)。夕顔の実のようなぽってりした太鼓腹から、細い首が立ち上がっている。つる草の、クレマチスか何かを生けてみたい。

 続いて「使ううつわ」では、春夏秋冬の懐石膳の献立を想定し、それに合わせたうつわを取り揃える趣向。『呉州青絵赤壁文鉢』は白地に青緑の釉薬が凛々しい美しさを誇っているが、これに「いぶし鮭」の赤身が載るのかあ、と頭の中で想像を楽しむ。伊羅保茶碗ふうの朴訥な『紅葉半使鉢』(朝鮮)には「おでん」。大きな水玉模様の散った『焼餅文州浜鉢』(備前)には、模様に合わせて(?)「鴨だんご」。これは楽しいけど、ちゃんと食事を済ませてから会場に入らないと、空き腹にこたえる…。

 なお、会場には「あなたが考える おもてなしの献立」と題した投票用紙が置かれており、展示の懐石膳セットを使った「あなたの献立」を募集している。楽しい企画だけど、その場で、さらさらとメニューが浮かぶものですかねえ。私は、ふだん懐石膳など全く縁がないので、帰ってから「強肴(しいざかな)?!」「八寸?」といろいろ調べて勉強になった。

 展示室2「京派の粋(エスプリ)」は、円山四条派の絵画を紹介。展示室5は「茶道具と名物裂・更紗」。以前の根津美術館で、常盤山文庫の書画を包んでいたインド更紗の特集展示を見たことを思い出した。なつかしいな。展示室6は「新春を寿ぐ」。色も形も明快で、男振りのいいお道具が多くて、新春にぴったり。

林實(はやしまこと)『作法心得』:茶懐石料理の沿革
東京YMCA国際ホテル専門学校講師をつとめた著者による解説。「魚の骨などは、懐紙に包んで持ち帰られよ」など。簡潔な文体が個性的。

幸菜庵:「茶懐石料理レシピ集」
実際に料理が載ったうつわのイメージが湧く。
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文楽人形の面影/小村雪岱とその時代(埼玉県立近代美術館)

2010-01-12 22:50:07 | 行ったもの(美術館・見仏)
埼玉県立近代美術館 企画展『小村雪岱とその時代』(2009年12月15日~2010年2月14日)

 余談になるが、2009年3月に完結した小学館の『全集日本の歴史』月報には、山下裕二さんによる「今月の逸品」という連載があって、確か14巻の『「いのち」と帝国日本』の回で、雪岱(せったい)の『青柳』(大正13年)を取り上げていた。無人の座敷に、三味線一挺と鼓が2個(どう数えるんだ?)行儀よく並んだ図。品があって、色っぽくて、素敵だなあと思った。

 小村雪岱(1887-1940)は実に多彩な活動をした画家だ。資生堂の社員として、広告や香水瓶のデザインなどを手がけたこともある。見逃せないのは、本の装丁。泉鏡花とは、大正3年(1914)の『日本橋』以来、多数の名作を世に送り出した。本展でも、泉鏡花記念館所蔵の美本をずらりと並べたコーナーは圧巻。宝飾店のケースを覗いて歩くみたいで、ためいきが出る。雪岱の装丁の特徴と思われるのは、贅沢な見返し(※本の表紙を開けたところ→表紙と本体をつなぐための紙)。高価な西洋本は、たまにマーブル紙を使ったりするが、雪岱のように、物語世界を象徴する風景画や人物画を配した例は少ないのではないか。でも、図書館って、ここにバーコードラベルや返却期限票を貼りたがるんだよなあ…。

 それから、挿絵画家としても活躍。鏡花以外に、吉川英治、邦枝完二など、さまざまな時代小説に挿絵を描いた。雪岱は、人形の面に浮かぶ、かすかな表情が好きだ、というようなことを述べている。確かに、彼の描く人物には「ほとんど」個性がない。「ほとんど」表情がない。けれど、厚く張った氷の奥底に手を伸ばしたら、温かい、むしろ熱い血潮に触れそうな気もする。私には昔なじみの、文楽人形の魅力に通じるところがあるように思う。雪岱には、後ろ向きの女性が描かれた名品も多くて、全く顔が見えないのに、傾げたうなじや落とした肩が、内心の感情の起伏を雄弁に語っていたりするが、あれも文楽の見せ場の「後ろ振り」みたいである。でも、もっと進んで、無人の風景が、あやしく見る者の心を騒がせるのは、雪岱独特の境地であるけれど。

 ところで、ギャラリートークを立ち聞きしていたら、展示品の膨大な新聞・雑誌コレクションは、雪岱ファンの岩城邦男さんという方が蒐集されたのだそうだ。これはすごい! 本展の「鏡花本」のコーナーでは、鏑木清方や橋口五葉の装丁も楽しめるし、「挿絵画家」のコーナーでは、岩田専太郎、志村立美、小林秀恒(昭和初期に「挿絵界の三羽烏」と呼ばれた)を見比べることもできて、なかなかお得。戦前の時代小説の盛行ぶりがしのばれたり、泉鏡花という文学者が、美術界に与えた影響力の大きさをしみじみ考えさせられたりする。

カイエ:美しい本 小村雪岱装丁、泉鏡花『日本橋』(図版多し)

カイエ:小村雪岱(図版多し)

松岡正剛『千夜千冊』第1097夜:星川清司『小村雪岱』
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殿様の趣味とビジネス/細川サイエンス(永青文庫)

2010-01-10 23:59:54 | 行ったもの(美術館・見仏)
永青文庫 冬季展示『細川サイエンス-殿様の好奇心』(2010年1月9日~3月14日)

 旧熊本藩主細川家の至宝を受け継ぐ永青文庫が、「殿様とサイエンス」という切り口で、所蔵品を紹介する展覧会。たぶん同文庫初の試みと思われ、企画を知ったときは、ええ~サイエンス!?と驚いたが、とても面白かった。

 特に注目すべき人物は、細川重賢(ほそかわ しげかた、1721-1785、第7代藩主)。会場には、活字中毒でメモ魔だった重賢が使用した携帯手帳(日記矢立付)が展示されていた。質素な布製のケースに、縦長の帳面とミニサイズの筆記具(墨と朱墨)が収められており、見るからに機能的である。しかし、殿様のイメージからは程遠い。システム手帳を持ち歩くビジネスマンみたいだ。

 重賢は、博物学、本草学に関心を抱き、多くの書籍を収集し、家臣たちに命じて動植物の写生帖を次々に作成させた。記録から窺い知ることのできる「重賢ネットワーク」には、身分の上下を問わず、さまざまな蘭学者、本草学者の姿が浮かび上がる。とりわけ愉快に思ったのは、博物学好きの大名たちが参勤交代で江戸に出ると、政治の場や宴席を利用して、珍しい鳥や草花の交換をしていたというエピソード。半ばは産業育成のための情報収集でもあり、半ば以上は趣味の活動であったろう。

 展示品は書籍ばかりではない。見どころのひとつは、渋川春海作の天球儀。寛文13年(1673)製作というから、重賢の治世より、ちょっと早い。畳の上に据えて、隣りに座って(正座して)見たのだろう。重心が低いせいか、中心軸の傾きが大きすぎるようにも感じられる。台座の表面には春海の識語が彫り込まれているのだが、薄暗くてよく読めないのが残念。「舜典所謂璿璣者不傳于世、漢洛下閎作渾天儀」までは読んだ。誰か、全文を起こしてくれないかなあ…。

 また、文化7年(1810)司馬江漢製作の地球儀も展示されている。木製、漆塗り。地軸が全く傾いていない。どうも、雅楽の釣太鼓の木枠をそのまま用いているのではないかと思う。

 このほか、色彩の美しい貝の標本(博物標本というより、工芸品の材料にするつもりで集めたのではないか)。測量に用いられた間縄(けんなわ)は初めて見た。

 寛永年間(17世紀初)に中津郡で、日本初のぶどう酒(ワイン)づくりが試みられていたという記録も興味深かった。これは、雑然と積み上げられた「日帳」を丹念に読んでいった末の発見と思われる。こういう「読み込み」が待たれる資料って、たくさんあるんだろうなあ。

 ケンペルの「日本誌」をはじめ、古い洋書も多数出ていたので、これはまさか細川家の伝来品じゃないよね?と思ったら、細川護立(1883-1970)がパリで買い付けてきたコルディエ文庫の一部だそうだ。現在は慶応大学斯道文庫に寄託。

 なお、展示図録は作られていないが、受付で購入できる雑誌「季刊・永青文庫」(300円)の最新号が、図録の役割を果たしている。初めて買ってみたが、この雑誌、なかなかいいと思う。「刀剣回顧談」「永青百冊」「永青文庫の昔の写真」など、各分野の所蔵品を紹介するコラムもいいし、「コレスポンダンス」では、他の美術館関係者に「私の永青文庫」を語ってもらっている。今回の寄稿者は、五島美術館学芸員の佐藤留美さん。永青文庫を評して「近年眠りから覚めたように新しい挑戦を続けている」と書いていらっしゃることには、私も同感。同誌の書店販売が好調というのもうなずける。

 余談だが「館長の独り言」によれば、目白通りから永青文庫への曲がり角にあった喫茶店「エンゼル」が、この夏なくなってしまった由。40年来の目印が失われたことを、竹内順一館長は惜しんでおいでだが、私はいつも神田川沿いからアクセスしているので、この喫茶店の存在は全く知らなかった。通い慣れた美術館も、たまには違った道からアクセスしてみるといいのかもしれない。
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画家も小説家も/巷談中国近代英傑列伝(陳舜臣)

2010-01-09 23:52:41 | 読んだもの(書籍)
○陳舜臣『巷談中国近代英傑列伝』(集英社新書) 集英社 2006.11

 なつかしいなあ、陳舜臣さん。70年代後半から80年代は、このひとの中国歴史小説を読みまくった。中国近代史に関する私の基礎教養は、時代順に『旋風に告げよ』(鄭成功)→『実録・アヘン戦争』→『太平天国』→『江は流れず』(日清戦争)でつちかったようなものだ(大学受験対策にも利用した)。

 本書は、中国近代の黎明を彩る15人の英傑を紹介するもの。やはり、中国の歴史上の人物には「列伝」スタイルがぴったりくる。第一番目は、アヘン戦争の英雄、林則徐(1785-1850)。迫りくる国家の危機を感じ、有能な幕僚を求めていた林則徐が、死の前年、招いて語り明かしたのが、まだ無官だった左宗棠(1812-1885)。塞防派の左宗棠に対して、海防派の代表として登場するのが李鴻章(1823-1901) 。という具合に、少しずつ時代を下りながら、辛亥革命までの歴史を概観することができる。でも、多事多端な中国近代史を、この1冊だけで理解するのは、ちょっと難しいだろうな。

 興味深かった点は、まず、彼らのつくった詩文がところどころに引かれていること。李鴻章が晩年にイギリスでつくった詩に「万緑叢中 両条の路/飆輪 電掣 稍(いささか)も留らず」という句があり、これは汽車を詠んだものだという。著者は、小平が日本の新幹線に乗ったとき「うしろから追い立てられているようだ」と語ったことと重ねているのが、面白いと思った。

 それから、意外な連携の可能性があったこと。義和団事件で清国が壊滅的打撃をこうむったあと、李鴻章は、最も過激な革命勢力、孫文の興中会と提携の可能性を模索していたという。列強の侵略から国土を守るためなら、なんでもありだったんだな。こういう「愛国的」な判断って、いまの21世紀にはないものかなあ。外圧が顕在的でない分、野合と罵られるのがオチか。革命勢力の中にあって、個性強烈な孫文と章炳麟のあいだの調停に献身した黄興という人物も、印象深い。

 また、15人の事蹟のあちこちに、日本および日本人の記事が登場する。両国の関係の密接さは、現在の私たちの想像をはるかに超えているのではないかと思う。黄遵憲、康有為、梁啓超、孫文、魯迅、黄興、王国維、みんな日本に暮らしたことがあるのだ。古い中国に殉じて、頤和園の昆明池で入水自殺を遂げた王国維は、一時日本に亡命し、辮髪姿のまま、京都に住んでいたという。京都のどこに住んでいたのだろう。知りたい。往時をしのんで、訪ねてみたい…。

 本書は、中国の近代化に直接の功のあった政治家、ジャーナリストのほか、国学者で歴史学者の王国維、言文一致体の祖として日本の二葉亭四迷に比べられる劉鉄雲、国民作家の魯迅(これは当然の人選)、さらに、2人の画人、斉白石と張大千を取り上げているのがユニークである。

 斉白石は、私は京博の常設展示で覚えた清末生まれの画家。50代の半ばになって、ようやく郷里を出て北京で売画の生活を始め、同僚の悪評を受けることがあっても、いつかは眼力のある人が見分けてくれると期待していたそうだ。若冲とか蕭白を思わせるエピソードである。張大千は、石濤と八大山人に傾倒し、石濤については、模写が嵩じて贋作をつくっていたのではないか、と言われるそうだ。へえー張大千には関心がなかったが、石濤も八大山人も私の好きな画家だ。次に台湾に行ったときは、故宮博物院の隣り、張大千紀念館にも必ず行ってみることにしよう。
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できなくても可/正座と日本人(丁宗鐵)

2010-01-07 00:31:42 | 読んだもの(書籍)
○丁宗鐵『正座と日本人』 講談社 2009.4

 丁宗鐵(ていむねてつ)氏は漢方医学による難病治療が専門の医学博士。「大の歴史好き」の著者が、古今東西の資料を渉猟し、医学的見地を加えて書いた「正座」文化論である。こう紹介すると、アマチュアの道楽で、かなり胡散臭い本に思われそうだが、松岡正剛氏の『千夜千冊・遊蕩篇』の書評が好意的だったことと、立ち読みで目についた内容が面白かったので、買ってしまった。

 それと、私は、松岡正剛氏と同様、正座が苦手なのだ。書道、茶道、和服などの日本文化に高い関心を持っているにもかかわらず、それらを実地に体験してみようと思わないのは、長時間の「正座」に耐える自信がないのである。悔しい。ダメな自分を正当化する「理論武装」が欲しい。そんなニーズにぴったりくるのが本書である。

 日本人は、いつから正座するようになったのか。戦国時代の武将はアグラが一般的だった。畳が普及していなかった当時、板の間で正座するのは苦痛だったし、足が痺れては、危急の際にすばやい行動を取ることができないからだ。この説明は説得力がある。茶の湯を大成した千利休も、同時代に描かれた肖像画はアグラをかいているという。実際にアグラをかいて茶室の壁にもたれてみると、茶室という空間のすばらしさを再発見することができる、というのは、意外な卓見だと思った。

 江戸初期から中期にかけて、武士の礼法を確立しようとした儒者たちが、正座を始めた。農民や商工人ができない正座は、武士道の象徴だった、と著者は考える。熊沢蕃山、山鹿素行は正座の肖像を残した。しかし、江戸前期~中期の国学者たち、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤らは、いずれもアグラの肖像を残しているという。なあ~んだ、正座って「からごころ」なのか。ちなみに、庶民に正座が浸透するには、畳の使用が広がり(むかしの畳は柔らかかった→畳が硬くなると座布団が登場)、最終的には、明治後期に脚気問題の解決を待たなければならなかったはず、という。にもかかわらず、明治以降の修身の教科書には「正座をする立派な日本人」が頻出し(徳川家康まで!)、「日本人は昔から正座をしていた」という誤解を子供たちに植え付けるようになっていった。

 女性の座り方も同様である。古い時代の女神像は片膝立てであり、北条政子にはアグラの肖像、秀吉の妻・北政所や上杉謙信の姉には、立て膝の肖像が残っているという。去年の『天地人』など、戦国時代を舞台としたテレビドラマ、そんなに熱心に見ているほうではないけれど、男性のアグラはともかくとして、女性の立て膝は見た記憶がないが、ミョーにきちんとした女性の正座に私が違和感を覚えるのは、間違いではないのだな。

 「日本のマナーはどこかでとんでもないものを取り入れたのだ。いや、作り上げたのだ。それが日本近代史によるものか、『道』に対する謹厳実直によるものか、それとも捩れた日本イデオロギーによるものか、このこと、そろそろ根底から問いなおしたほうがいい」というのは、前掲、松岡正剛氏の書評の一部である。「正座」の苦手な者の恨み節を割り引いても、私もそのように思う。

 本書の著者の、正座に対する態度は、もう少しニュートラルである。体に負担がかかるような無理をすることはない。しかし、短時間の正座には「エクササイズ」としての効用もあるという。自信のない人は、入浴中の湯船の中がおすすめとか。試してみたら、確かにこれはよかった。
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「松丸本舗」で初お買いもの/丸善・丸の内本店

2010-01-05 23:59:56 | 街の本屋さん
○丸善・丸の内本店「松丸本舗

 三が日は実家に戻って、つかの間の東京生活を楽しんだ。この機会に、ぜひとも行っておきたいところがあった。昨年秋、松岡正剛氏のプロデュースによって、丸の丸善・丸の内本店内にオープンした”書店内書店”松丸本舗である(→開店当初の詳細はこちら)。

 丸善は久しぶりだ。実を言うと、あまり好きな書店ではない。同じ大型書店でも、紀伊国屋書店やジュンク堂のように「本好き」の血を騒がせる匂いが希薄で、売れる本を効率よく並べたビジネス書店、という感じがするのだ。さて、フロアマップで確認すると「松丸本舗」は4階にあるので、エスカレーターで上がっていく。すると、私の好きなMCカフェの隣りに、見るからに「異様」な本棚の一角が出現していた。窓の大きい、明るいカフェと、こちゃごちゃと(一見)乱雑に本が積み上がった本棚は、ちょっとミスマッチの感がある。開店当初、丸善のサイトや新聞の報道で、店内の写真をたくさん見ていたので、それほどには驚かない。なるほど、旧知のとおり、だと思った。

 形式的な分類にとらわれない本の並べ方は面白いが、はじめ、なかなか手が出せなかった。本棚の個性が強すぎて、ちょっとでも崩したら、怒られそうな感じがしたのだ。しばらくは、美術館の展示を見るように、遠巻きに書棚を眺めていた。はじめて親近感を感じて、書棚に一歩近づけたのは、ゲストの蔵書を再現する「本家」のコーナーである。『風林火山』で武田信玄を演じた市川亀治郎さんの本棚に『甲陽軍艦』がある。山本勘助に関する新書も。さらに中国歴史好きとお見受けし、『中原の虹』上下巻のそばに『梁啓超年譜長編』なる専門書が並んでいたのにびっくりした。『蒼穹の昴』は見当たらなかったけど、たぶんお読みだろう。さらに完訳『紫禁城の黄昏』上下巻も。そうそう、この本読むと、この本読みたくなるよね、という連関性が了解できて、可笑しかった。陳舜臣の歴史小説は文庫本でずらり。古代史より近代史が多いところに感心する。私も陳舜臣は好きだったのに、最近は全然読んでいないなあ、と思い、目についた新書『巷談中国近代英傑列伝』を買っていくことにする。

 これで気持ちがほぐれて、さらに店内を探索。書架は巻貝が円を描くように配置されていて、お客は次第に内側へと取りこまれていく(※店内マップ)。「日本の句読点1945-2025」というコーナーは、それぞれの西暦に関係する「この年この本」を並べている。ただし、タイトルに「2001年」とあっても、2001年より以前に出たものかもしれず、逆に2001年より後に出たものかもしれない。その混乱が面白い。

 ふと、目の高さの書架に、寝かせて置かれた文庫本に目がとまる。表紙は、時代小説の挿絵ふうで、障子の陰から、髷を結った半裸の女性が覗いている。題名を見たら「渋江抽斎 森鴎外」。え!? こんな話なのか? 中をめくってみると、意外とひらがなが多くて読みやすそうなので、これも買っていくことに決めた(中公文庫)。書店員の仕掛けたトラップにかかったような気もするが…。だんだん慣れてくると、書棚の上のほうに積み上げられた本のタイトルも、ちゃんと目に入るようになる。隠れるように寝ていた『正座と日本人』を見つけた。松岡正剛氏のサイト『千夜千冊・遊蕩篇』が、引っ越し前の最終夜(第1329夜)に取り上げている本だ。ちょうど、この前日に書評を読んだばかりだったので、記憶に新しかった。よしよし、これも買っていくか。

 ということで、今年の初購入本は上記の3冊。松丸本舗店内の本には全て「松丸本舗」という小さなシールが貼ってあり、松丸本舗独自のブックカバーを掛けてくれる。「いせ辰」の風呂敷っぽくて、おしゃれ。このブックカバーで本を読んでいる人を見かけたら、ひそかに親近感を抱いてしまいそうだ。

※松岡正剛氏の新サイト「ISIS本座」:松丸本舗のブックショップエディターによる「松丸プレス」掲載
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雑誌・芸術新潮「わたしが選ぶ日本遺産」に付け加える

2010-01-04 23:58:56 | 読んだもの(書籍)
○『芸術新潮』2010年1月号「わたしが選ぶ日本遺産」 新潮社 2010.1

 雑誌『芸術新潮』が、創刊60周年(還暦)を記念して、わたしたち日本人が誇るべきものとして、これから後の世代へと伝え、いつまでも残してゆきたいものは何か、というアンケート調査を各界の著名人に行った。あらかじめ、アンケートに付記された「誰もが認めるような最大公約数的な『世界遺産の日本版』とは一線を画するものです」という注釈が効いているので、国宝・重要文化財的な美術品、工芸品は、ほとんど挙がってこない。そのかわり、風景、食べもの、マンガ、大衆芸能、モニュメントなど、なるほど、と思う「物件」を、なるほどと思う人物が挙げていて面白い。

 そこで、私ならこう選ぶ「日本遺産」。

■日本語

 とにかく、漢字と仮名という、全く別の表記システムを平然と併用してきた鷹揚さが素敵だと思う。文体にも、漢文訓読体と「やまとことば」という二種類があって、その混交とか中間とか亜種を用いれば、同じ内容を何十通りもの文体で言い表し、書き表すことができる。融通無碍、変幻自在。

■日本の本(和本)

 和紙と墨と糸でできていて、軽くてしなやかで、強くて長持ち。とりわけ素晴らしいのは、絵と文章がコラボレーションする江戸の版本。近世初期に入ってきた活字印刷という最新技術を捨てても、挿絵を入れることが容易な木版印刷を選んだ。日本人のマンガ好きは、江戸の読書習慣で作られたのだと思う。

■東大寺の修二会

 説明不要。聖なる総合芸術である。

■観音札所巡礼

 一昨年から、西国三十三所巡礼を体験中。主体的に「参詣している」ようで、決められた場所へ「参詣させられている」ような感覚が、次第に信仰心を育てていくのだろうか。キリスト教のサンチャゴ巡礼や、イスラムのメッカ巡礼は、どこか最終目的地を目指して直線的に巡礼するのだけど、日本の巡礼は、ぐるぐる巡っている状態が全てで、どこから始めても、どこで満願になってもOKというところがいい。

 最後に、絵画とか工芸とか彫刻とか、何か具体的な「かたちあるもの」をひとつ挙げて、計5件にしようと思ったが、これがなかなか難しい。やむを得ないので、4つで打ち止め。
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家族の肖像/仰臥漫録(正岡子規)

2010-01-03 10:15:24 | 読んだもの(書籍)
○正岡子規『仰臥漫録』(岩波文庫) 岩波書店 1927.7

 『仰臥漫録』は子規の病床日記。主な記事は、明治34年(1901)9月2日から10月29日までの間に書かれた。そのあと、翌年9月まで、短い心覚えのメモや草花のスケッチや俳句、短歌などが書き留められている。公表を予定せずに書かれた私日記のため、死を控えた人間の姿が虚飾なく描かれている、と言われる。

 確かに『仰臥漫録』の文体は、公表を前提に執筆された『墨汁一滴』『病牀六尺』とはずいぶん異なる。だが、「読者」という存在を全く意識していないかといえば、そんなことはない。なんというか、第一義的には、創作者である子規が、自分自身という最後の読者に向けて書いているような気がする。

 では、公表予定のなかった私日記が、どのようにして世に出たのか。ネットで調べた限りでは以下のとおりである。当初、ただ一人この日記の面白さを知っていた虚子が、雑誌『ホトトギス』明治38年(1905)1月号の付録につけたところ、たちまち子規の代表作となった(※Googleブックス:まつばらとうる『隣の墓: 子規没後の根岸・子規庵変遷史』74頁あたり)。ということは、NACSIS Webcatで検索される『仰臥漫録:子規遺篇』(出版年不明、8巻4号附録とあり)というのはこれだろうか? 東大の鴎外文庫(鴎外旧蔵書)にも入っているようだが…。

 続いて、大正7年(1918)、子規の17回忌に際し、岩波書店が正岡家秘蔵の原本から木版復刊した。大正9年(1920)の斎藤茂吉の手帳には「仰臥漫録を讀む」という記載がある。昭和2年(1927)に岩波文庫の第1回発売書目に選ばれたときは、既に多くのファンがいたのだろう。一方、木版は震災で失われ(前掲書、76頁)、最も大切な原本も、昭和20年の空襲で子規庵が焼失して以来、行方が分からなくなっていた。それが、平成14年(2002)に子規庵敷地内の土蔵で発見され、現在は兵庫県芦屋市の虚子記念文学館に保管されているという。ただし、これについては、根岸の子規庵に行くと、返還を希望する旨の声明が張られている。

 本書が、このような波乱の運命をたどってきたのも、その比類ない文学的魅力が一因なのだろう。食事と便通の単調な記録、病人らしいエゴイズム、暗い自殺の衝動。その中に挟まれた、他愛ない友のおしゃべりや、少年時代の回想は、日常生活のいとおしさを強く感じさせる。「焼くが如き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きに夕風そよぐ処何の理屈か候べき」というのは、子規が発見した「美」の極地として描かれているが、なんとなく久隅守景の『納涼図屏風』を思い出させる。

 深く印象に残るのは、病床の子規に献身的な看病を捧げた母と妹、とりわけ、この日記に「同感同情のなき木石の如き女なり」と書かれた妹の律である。台所の隅で、野菜か香の物が一品あれば食事は足り、肉や肴を自己の食料とすることなど夢にも考えていない、という子規の観察は正しいだろう。もし現代の女性が、同じように肉親の介護で、何年も家に縛りつけられるようなことになったら、そのために失った自分の可能性を思って、あれこれ煩悶すると思うが、律には、そのような煩悶はなかったのではないか。惑乱する息子の枕元で静かに「しかたがない」と答えるしかない老母も同じである。どんな運命もあるがままに受け入れるのが、当時の日本の、一般的な女性の姿だったのではないかと思う。

 いや、当時の男性だって、自ら運命を切りひらき、成りたい自分に成るために、たゆまぬ努力を続けることのできた者がどれだけいたか。子規は間違いなく、数少ないそのひとりだったはずだが、病に倒れてしまう。どれだけ無念だったか。その無念は、母と妹に理解されていたか否か。

 それでも三人は、時折「家族団欒会」を開き、集まって菓子を食う。死の前年、子規は「誕生日の祝いおさめ」と称して料理屋から会席膳を取り寄せ、母と妹にふるまう(虚子に借りた借金から)。不思議な関係というべきだろうか。いや、どこの家族も、だいたいこんなものだ、という気がする。

※子規自筆の水彩画がカラー図版で楽しめるのは、角川ソフィア文庫版↓

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死に臨む覚悟/病牀六尺・墨汁一滴(正岡子規)

2010-01-01 23:57:44 | 読んだもの(書籍)
○正岡子規『病牀六尺』(岩波文庫) 岩波書店 1927.7
 同『墨汁一滴』(岩波文庫) 岩波書店 1927.12

 年末にNHKドラマ『坂の上の雲』の第1部全5回を面白く見た。原作を読んだのはずいぶん昔のことで、読み返したいという気持ちは起こらないのだが、香川照之の演じる正岡子規が非常にいいので、有名な晩年の随筆を読んでみたくなった。

 私は『病牀六尺』→『墨汁一滴』の順で手に取ったが、書かれた順序は逆である。『墨汁一滴』は新聞『日本』に明治34年(1901)1月16日から7月2日まで連載された。『病牀六尺』は同じ新聞に明治35年(1902)5月5日から9月17日まで127回にわたって連載された。連載が百回を越えた8月下旬、子規はしみじみと意外な喜びを語ってるが、それから1ヶ月後の9月18日に昏睡状態に陥り、19日に息を引き取った。いや、すさまじい記録である。

 高校生の頃、現国の教師が、プリントで子規の随筆を少しだけ読ませてくれた記憶がある。多少、授業を面白くしようという気もあったのだろう、寝返りもできない重病人なのに、一食に粥四椀、鰹のさしみとか、間食に菓子パン十個、塩せんべい三枚とか(これらは『仰臥漫録』に詳しい)大食いぶりに呆れたことだけを覚えている。しかし、あらためて全体を通して読むと、食べることを通じて「生」に執着した子規の精神の強靱さが感じられて、粛然とする。

 公開を予定していなかった日記『仰臥漫録』(いま読んでいる最中)に対して、この二編には最後まで「創作者」の気構えが感じられる。文章の無駄のない美しさ。人手を借りずには身動きもならず、しばしば癇癪を起こし、錯乱し、号泣する状態にありながら、意地汚い病人の自分を、持ち上げもせず、露悪的にもならず、風景のように淡々と叙述している。文語と口語の中間くらいの文体は少し古めかしいが、読めばすらすらと頭に入る。子規が、俳句・短歌評の中で、一読して情景が明瞭に浮かばない作品は駄目だ、と論じていることが思い合わされた。

 無駄のない、とは言ったけれど、ときどき意外なユーモアが仕掛けられているのも嬉しい。まあ、これは読んだ者だけが知るお楽しみ。『墨汁一滴』では、江戸後期の万葉振りの歌人・平賀元義を論じたり、「月並み」とは何かを解説したり、文学談義がわりあいに多いが、『病牀六尺』になると、枕頭に画集を開いて、古画の鑑賞に慰めを見いだすことが多くなる。子規の好んだ画家として、河村文鳳、渡辺南岳、張月樵の名前は覚えておくことにしよう。ほかにも、上野の森のフクロウから、能楽、歴史、新聞で知る世界の情勢まで、病床にあっても、さまざまに好奇心が働いていたことが分かる。今の世だったら、絶対、ネット見てただろうなー。でも、メールも携帯もないからこそ、三日と措かず、友人たちが訪ねてくる様子を見ていると、いい時代だったんだなあ、と思う。

 いよいよ死期が迫り、下半身に浮腫の症状が現れたときの「足あり、仁王の足の如し」という描写は、的確すぎて、言葉を失う。そういえば、漱石は死ぬ間際に「死ぬと困るから…」と言ったために、非難・失笑されたという話を聞いたこともあるが、悟りすました死に際なんて贋物だろう。

 と、人の死に際について考える2010年元旦。以上は、昨年読んだ本の後始末。
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