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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

2014年9月@西日本大旅行:四国へんろ展・愛媛編(愛媛県美術館)

2014-09-17 21:55:58 | 行ったもの(美術館・見仏)
愛媛県美術館 『空海の足音 四国へんろ展』《愛媛編》(2014年9月6日~10月13日)

 連休2日目(日曜日)、朝から松山城下の城山公園に赴き、9:40の開館と同時に愛媛県美術館前に入る。一部展示替えを含めて約100件の展示で「空海と弘法大師信仰」のセクションから始まる。

 冒頭の弘法大師坐像(佛木寺・鎌倉時代)は、愛媛編のメインビジュアルになっている木像。素木の木目が美しい。そうか、弘法大師だったのか。言われてみれば他にあり得ないが、どこか「らしくない」のだ。奈良・元興寺の弘法大師像が衣の前をくつろげているのに比べると、佛木寺の大師像はきっちり襟を合わせている。空海って、こんなにお行儀よくないだろう、と苦笑してしまった。

 愛媛編では絵画の名品に多く出会えた。光林寺の『稚児大師像』は白い月輪の中に、おかっぱ頭の利発そうな稚児が座っている。白い袴。オレンジ色の摺り衣にはタンポポのような草花が散っている。稚児大師像の最古本は香雪美術館にあるとのこと。表具も美しかった。『高野大師行状図画』巻九は白鶴美術館からの出陳。入定した空海が奥の院に運ばれていく場面だった。そのあと、木の枝にひっかかったような棺の図の意味が分からなかったのだが、調べたら、空海に葬儀の導師をしてもらうことを約束していた嵯峨天皇は、棺を嵯峨野の木の上に置いておくように遺言した。やがて赤い衣の天人たちがあらわれ、棺を担いで雲の中に登っていった、という伝説があるそうだ。面白いなあ。

 『一遍聖絵』巻二は複製しか見られなかったが、よいことにしよう。愛媛県内の岩屋寺の険しさを、写実を飛び越えた構想力で描いたもの。と思うのだが、本当にこんな風景だったらどうしよう。太山寺に伝わる二曲一双屏風には、室町時代の絵巻か草紙『阿弥陀の本地』が貼り付けてある。少ない色彩のベタ塗り、単純化された形態など、素朴だがしっかりした描写力である。江戸時代に奈良・田原本の絵師が描いた『中国四国名所旧跡』という旅のスケッチブックも面白かった。海や岩屋の風景が、子供のように自由な発想で絵画化されている。

 彫刻では、すまないけれど、三角寺の文殊菩薩坐像及び獅子に笑ってしまった。ロボットみたいな文殊菩薩もたいがいだが、人面犬みたいな、団子鼻の獅子ときたら…。太山寺の十一面観音立像と栄福寺の菩薩立像は、さながら美人姉妹。なお太山寺には、後冷泉から近衛までの歴代天皇(白河天皇を除く)から勅納された六体の十一面観音像が安置されている(本尊の十一面観音像は秘仏)。太山寺での安置状態は、図録に写真があって一目瞭然。

 工芸では、熊野速玉大社から『唐花唐草蒔絵手箱』が出ていたのが眼福。蒔絵箱にはめ込まれた螺鈿の大きいこと、あやしくも美しいこと! 徳島・長楽寺の絹本刺繍『弘法大師行状曼荼羅』(江戸時代・天保)も工芸に入れておこう。全4幅で、高知編に1幅(前期にも1幅)、愛媛編に2幅が展示されていた。台湾故宮博物院展に出ていた刺繍画にも負けない名品だと思う。

 「四国遍路」に関しては、江戸時代の絵図や案内記だけでなく、明治の古写真、戦前の英語版(外国人旅行者向け)お遍路案内など、多様な資料が展示されていた。旧制松山中学のドイツ語教師だったオーストラリア人のボーナーは、夫婦でお遍路を体験し、昭和6年に四国遍路の研究書を刊行している。女性史研究家・高群逸枝による大正時代のお遍路記も。若い娘のお遍路は好奇の目で見られたと解説にいう。

 展示会場の最後にたどりついて、ふと後ろを振り返ると、香川・善通寺の地蔵菩薩立像と香川・観音寺の涅槃仏像に見送られていた。善通寺の地蔵菩薩は、造形的に優れた像だが、愛想のない顔つきで、隣りの涅槃仏はそっぽを向いて目を閉じているし(当たり前だが)あまりにツンデレな見送りにちょっと笑えた。

 なお、この四県連携事業の図録は、各館が制作・発売している。あと2館、2冊入手したいが、11月に来られるかなー。
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2014年9月@西日本大旅行:四国へんろ展・高知編(高知県立美術館)

2014-09-16 22:16:37 | 行ったもの(美術館・見仏)
高知県立美術館 『空海の足音 四国へんろ展』《高知編》(2014年8月23日~9月23日)

 九州への出張が決まり、ついでに宿願の白峯寺に参拝できないかと思って調べているうち、この情報を見つけた。四国霊場開創1200年記念四県連携事業『空海の足音 四国へんろ展』。四国4県の4つの美術館・博物館が「四国へんろ」という共通テーマのもとに、各県の特色をいかした展覧会を開催するというもの。巡回展ではないので、全貌を知るには、4県すべてを「お遍路」しなければならない。会場と日程は以下のとおり。

・高知編 高知県立美術館(2014年8月23日~9月23日)
・愛媛編 愛媛県美術館(2014年9月6日~10月13日)
・香川編 香川県立ミュージアム(2014年10月18日~11月24日)
・徳島編 徳島県立博物館(2014年10月25日~11月30日)

 とりあえず始まっている高知と愛媛に行ってみようと思い、無理を承知で旅の計画を練った。土曜の朝、新幹線で博多を発ち、岡山へ。高知行き特急「南風」に乗り換える。初めて渡る瀬戸大橋から眺める瀬戸内海が絶景。やがて山の中に入ると、大歩危(おおぼけ)・小歩危(こぼけ)の渓谷美も楽しめて、とても贅沢な車窓風景だった。

 高知は2007年の夏に「絵金祭り」を見に来て以来、二度目。記憶よりも駅舎がきれいになっているような気がした。市電で高知県立美術館へ。2つの展示室を使って、約100件の資料が展示されている(一部は前後期で展示替え)。(1)空海とその時代、(2)霊地四国、(3)四国遍路の形成と定着・天界、(4)土佐の霊場の四部構成。あとで分かったが、他の館もだいたい同様のようだ。

 まず「空海とその時代」に着目するセクションでは、四国だけではなく、京都・東寺や和歌山・金剛峯寺など、空海ゆかりの寺院から貴重な文化財が出陳されている。東寺でもめったに見られない『御遺告(ごゆいごう)』や高野山の霊宝館で見たことがある唐代の『諸尊仏龕』(枕本尊)など。京都・安楽寿院所蔵の絵巻『高祖大師秘密縁起』も面白かった。

 高知県の文化財のうち、彫刻では、雪蹊寺の毘沙門天立像(鎌倉時代)が優品。典型的な「美男」毘沙門天である。小さな脇侍の吉祥天と善膩師童子(ぜんにしどうじ)は愛らしい。善膩師童子は、頭部がかなり磨滅して、小さな黒目が木肌に埋もれかけているが、みんなに撫ぜ愛しまれた結果、こうなったのではないかと思う。吉祥天は、超人的な美貌ではないが、優しい女人の姿を写実的にあらわしている。宋風彫刻のおもむき。

 最御崎寺の金剛力士像(江戸時代)は砂岩に刻まれためずらしいもの。細マッチョで暑苦しくないのがよい。同寺には、赤紫っぽい大理石造りの如意輪観音半跏像(年代注記なし)も伝わる。定朝様に通じる穏やかな容貌で「中央の作とする意見も根強い」とあったが、いや渡来仏じゃないかなあ。細くくびれた腰が色っぽい。背面もちゃんと彫刻されている。横から見た体躯は薄い。右膝を立て気味にし、その上に置かれていたかもしれない右腕は途中で失われている。左手は天衣の端を巻き付け、地面に下ろしている。髪は失われているが、ツインテールにして肩に垂らしていた様子。

 絵画では、金剛頂寺の『両頭愛染曼荼羅図』(鎌倉中期)が面白かった。向かって左向きに斜め横顔を見せる愛染明王像で、珍しいなあと思って眺めているうち、右側に黒い別の顔が載っていることにようやく気づいた。愛染/不動の両頭明王なのである。画面上部の左右には金剛界/胎蔵界の大日如来。画面下部には、向かって左に獅子の上で弓を構える童子、右に白象の上で弓を構える童子が描かれている。

 工芸では、香川県の善通寺から出陳の錫杖頭が白眉。唐代工芸の粋を感じさせる。表裏それぞれに、三尊+二天王を配する。主尊は釈迦如来と薬師如来かな。二天王は両面あわせて四天王になる構成。一体が横抱きにしている持物は琵琶だろうか?と思ったが、確認できなかった。

 なお、同展入場者に無料で配られている冊子「仏像のちょこっとばなし」はうれしかった。明るく、品のある色づかいが私好み。「編集、発行:高知県立歴史民俗資料館」とあるだけで作者名表記が見当たらないけど、職員の方の片手間しごと? それにしてはレベルが高すぎる。



 個人的にツボにはまったイラスト「如来の特徴」↓



 この素敵な冊子を貰えるのもあと1週間(なのかな?)。みなさん、高知へ急ぎましょ~。

 この日は、高知駅前から高速バスで松山へ。松山市内のホテルが取れなかったので、伊予鉄に30分ほど乗り、「見奈良」の天然温泉ホテルに落宿。いい温泉、いいホテルだったが、駅を降りたとき、あたりが真っ暗でびっくりした(たまにあること)。夜空に星座がよく見えた。
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2014年9月@西日本大旅行:福岡市博物館

2014-09-16 01:07:52 | 行ったもの(美術館・見仏)
福岡市博物館 常設展示+企画展示

 まず、福岡行きの顛末から。三連休直前の金曜日に博多(福岡)で仕事が入った。出張は嫌いじゃないが、貴重な三連休の1日を移動日でつぶされるのはありがたくない。そこで出張は往路のみで「打ち切り」にしてもらい、あとは自由に遊んでくることにした。

 木曜の午後に空路で札幌から福岡に向かう予定にしていたが、前日の深夜から記録的な大雨。朝の交通は大混乱で、昼になってもJR北海道の快速エアポートは止まったまま。リムジンバスは乗車まで1時間待ちの長蛇の列。タクシー相乗りで、なんとか空港にたどり着いたが、飛行機の離陸も30分ほど遅れた。辛かったのは睡眠不足。前夜はスマホに災害警報がひっきりなしに届いて、まともに寝られなかったのだ。飛行機が飛び立って、ようやく眠れた。

 さて金曜の仕事は午後からで、午前中はフリーだったので、福岡市博物館に行ってみることにした。一度来た覚えはあるが、2004年から書いているこのブログに記事がないところをみると、もう10年以上前になるのだろう。特別展『軍師官兵衛』を開催中だったが、江戸東京博物館で見ているので、常設展を参観する。いろいろ面白かった点を以下にメモしておく。

・まずは国宝金印「漢委奴国王」について。百姓の甚兵衛さん、よく正直に届け出たなあと思っていたが、まずは画商に見せて相談しているのね。本居宣長は「特に重要なものではない」という冷ややかな鑑定。国学者としては、日本の古代国家が漢に朝貢していたなど認めたくなかったのだろう。

・「地域差」が分かってくると古代史の展示が俄然面白くなってきた。やっぱり九州は朝鮮文化の影響を強く感じる。縄文土器も面白いが、弥生前期の土器もいいなあ。私の好きな備前焼の緋襷(ひだすき)って、弥生系なんだな。

・鴻臚館の説明を興味深く読む。11世紀には記録から消えてしまうのか。展示解説には、永承2年(1047)放火の記録を最後に、とあったと思うが、Wikipediaには、寛治5年(1091)宋商人李居簡が鴻臚館で写経した記述を最後に文献上から消えたとある。福岡城内にあった筑紫館(つくしのむろつみ・つくしのたち)とは別に太宰鴻臚館という記載も文徳実録にあるのだな。

・『策彦帰朝図』(複製)に目が留まる。「原本は妙智院所蔵」ってどこのお寺かと思ったら、京都の天龍寺の塔頭らしい。原本の(※画像)も見つけた。根津美術館で時々見る墨画の名品に似ていると思ったのだが、いまその作品が確認できないので、詳しくは後日。

・常設展示の最後、等身大のスクリーンに法被姿の小松政夫さんが現れて、出口に向かうお客を「博多一本締め」で見送ってくれる。関東一本締めの「ポン」とは全く違う手拍子で、愉快。

 続いて、常設展料金で入れる企画展の会場へ。『御用絵師の世界』(2014年8月19日~10月13日)では、黒田家にスカウトされた狩野昌運(本名・季信)を中心に紹介。同じ部屋に、黒田一成が着用したと伝える『銀大中刳大盔旗脇立頭形兜(ぎんおおなかぐりおおたてものわきだてずなりかぶと)』が展示されていた。いやちょっと待て、やりすぎだろ…。あまり大きくて旗指物と勘違いされたとか、大砲の目印にされたという逸話に苦笑した。

 もうひとつの企画展は『西鉄ライオンズと栄光の時代』(2014年7月23日~9月28日)。昭和31年から33年の日本シリーズ3連覇はさすがに私の生まれる前の話だが、豊田泰光さんのインタビュー映像を見ることができて、懐かしかった。私は、豊田さんのプロ野球解説が大好きだったのである。入団当時、戦後まもない博多は汚い町で、合宿所には布団もなく、夕食はご飯を2杯食べるとおひつにお米がなくなる状態だった。大変なところに来ちゃったなあと思いながら、それでも町に別嬪さんが多くてがんばろうと思ったとか、腹いっぱい食わせてくれる料亭のお父さんにお世話になったと振り返りながら、少し目をうるませていたのも印象的だった。貴重な賞状やトロフィーの数々が豊田さんから福岡市博物館に寄贈されていた。福岡の文化財として、大切にしてほしい。
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2014年9月@西日本大旅行:行ったものメモ

2014-09-15 23:21:10 | 行ったもの(美術館・見仏)
そろそろ各地で秋の特別展や特別拝観が始まっている。

この三連休の私の動きはこんな感じ。

9/11(木)札幌→(空路)→福岡。
9/12(金)福岡(博多)で仕事。
9/13(土)博多→岡山経由→高知。 高知県立美術館で『四国 へんろ展・高知編』を見る。高速バスで高知→松山。伊予鉄で松山郊外の見奈良温泉泊。
9/14(日)朝、愛媛県博物館で『四国 へんろ展・愛媛編』を見る。松山→坂出。タクシーで白峯寺へ往復。坂出→岡山経由→京都泊。
9/15(月)京都国立博物館の「京へのいざない」展を見る。京都→神戸空港→(空路)→札幌。

さすがに(国内では)めったにしない大旅行だった。レポートはこれから少しずつUP。
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「安倍的なるもの」の時代/アは「愛国」のア(森達也)

2014-09-11 00:05:40 | 読んだもの(書籍)
○森達也『アは「愛国」のア』 潮出版社 2014.9

 オビの「売国奴vsネトウヨ 大激論、勃発!」というのは、下品な売り言葉だなあと思いながら、ぱらぱらページをめくってみると、「メディアは在日に支配されている」「歴代の日本政府はひたすら韓国にも中国にも謝ってきた」など、うんざりする発言が次々に飛び込んできた。

 本書は、映画監督の森達也さんが、尖閣・竹島・靖国・従軍慰安婦・死刑制度・捕鯨・原発などをテーマに、6人の若者(匿名の一般人)と語り合ったもの。私は森さんの発言には一定の共感を持っているが、こんな幼い対論者につきあいたくないなあ、と、はじめ読むのを躊躇した。しかし、私がこの種の「ネトウヨ」発言にうんざりしているのと同じくらい、彼らも、私たち旧世代の自虐発言にうんざりしているに違いない。誰だって自分と異なる意見には耳を塞ぎたいのだ。しかし、それではどこまで行っても平行線である。ここはひとつ、大人の度量で「理解できない若者」のいうことを聞いてみようと思って読み始めた。

 司会者(このひともけっこう発言する)を挟んで、森さんと対論する6人は、雑誌編集者のAさん、会社員のBさん、森さんが大学のゼミで教えている学生のC君とD君、契約社員のEさんと紹介されている。Aさんは、いちばん森さんに共感的で、的確な応答を返している。やや年長の印象で、あとのほうで創価学会員だと分かる。Bさんは、前半で典型的な「ネトウヨ」発言を繰り返しているので、最後にどうなるのか、変心するのかしないのか、興味深く注目していたが、最後のほうは発言が減ってしまい、帰趨は分からなかった。実際に発言が減ったのか、編集のせいなのか不明だが、この長時間討論の感想を、いちばん聞いてみたい登場人物である。C君、D君は、素直で初々しく、森先生にやや遠慮していた印象。Eさんは安倍首相を評価しているが、Bさんほど露骨に「在日」「中韓」への嫌悪は見せない。

 私は森達也さんの発言は、どれも好きだ。「『日本ばかりを批判している森達也は売国奴』ってよく言われるけど、僕だって、中国や韓国はずいぶん行きすぎていると感じます。ではなぜ森は日本を批判するのか? 日本人だからです」と断じて、Bさんが「はい? ちょっと意味が分からないんですが」とリアクションしているのに、思わず笑ってしまった。いや、ほんとに分からないんだろうな。そして、理解不能な人間が現れたとき、自分の認識の幅を広げて(再構築して)、相手を理解しようとつとめる習慣を持たないのは何故なんだろう。

 森さんとBさんが再び激しく応酬するのは、死刑制度をめぐって。被害者遺族の「犯人を殺してやりたい」という心情を思えば死刑は存続すべきだというBさんを、森さんが論駁していく。やはり死刑存続派のEさんが「遺族に対して冷たい」と不満をもらすと、森さんは「僕は冷血かもしれない。人です。でもあなたたちも冷血です。人はそうした生きものです」と切り返す。なんというか、こんなふうに、人間でも国家でも歴史上の事件でも、善悪をスパッと割り切ることの難しさを、彼らは先行世代から教えてもらったことがないのではないかと思う。

 終盤にEさんの口から、極論に走る人たちというのは「矛盾を抱えていることの自覚」に耐えられないのではないでしょうか、という発言がある。ここでテーマとなっているのはオウム事件だが、Aさんがいみじくも、宗教だけでなく、今の日中・日韓関係に引き付けた発言をし、司会者が、政治にしろ宗教にしろ「自分と違うものは排除するという潔癖性が度を越したところに」諍(いさか)いが生まれる、と引き取っている。強く同意だ。

 討論の後のあとがきならぬ「モノローグ」で、森達也さんは、今の日本社会に起きている現象を「保守化」「右傾化」ではなく「集団化」と呼んでいる。何か思想的な支柱があって集まるのではなくて、とりあえず「集団」を形成するために、敵や異物を作り出す。どうやら日本社会にこの伝統が根強いことには、少し自覚的であったほうがいい。

 集団化の圧力(同調圧力)に屈しないために必要なのは、ひとつはメディアリテラシーである。あ、マスメディアに「誤報」はあるけど、めったに「嘘」はつかない、という森さんの言葉は書き留めておこう。一方でメディアが「報道しないこと」というのは常にあるので、それらをどう見つけ出すかは重要な課題である。教育の責任も重い。中韓との歴史問題も、左翼教師は「謝れ」と言い、保守派は「謝る必要はない」というが、どちらにしても「過去に何があったのか」を教えてこなかった点では同罪ではないか、という指摘が途中にあった。
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明治のおもちゃ箱/東京大学の学術遺産:君拾帖(モリナガ・ヨウ)

2014-09-09 12:53:59 | 読んだもの(書籍)
○モリナガ・ヨウ『東京大学の学術遺産:捃拾帖』(メディア・ファクトリー新書) KADOKAWA 2014.6

 標題の『君拾帖(くんしゅうじょう)』というのは、幕末から明治期に活躍した博物学者、田中芳男(1838-1916)が残したスクラップブックである。本当は『捃拾帖』と書くのだが、捃[手へん+君](集めるの意)の字は表示されにくいので、以下『君拾帖』の表記を用いる。

 『君拾帖』は38帙96冊で、ほかに『外国君拾帖』というのもある。田中芳男の蔵書は、関東大震災で多くが焼失してしまったが、残った蔵書約六千冊を孫の田中美津男氏が東京大学に寄贈した。『君拾帖』『外国君拾帖』は、現在、東京大学総合図書館の貴重書庫に収められている。

 というような前段は、読みとばしてもいいので、とりあえず本文を開くと、「幕末」から「明治維新」「文明開化」「鹿鳴館時代」「憲法・選挙・日清戦争」「殖産興業」「そして20世紀へ」という、およその時代区分に沿って、全編カラー写真図版満載で『君拾帖』の中身が紹介されている。

 貼り込まれているものは、たとえば、引札(今でいう宣伝チラシ)。象の見世物興行の引札、フランス人サーカスの引札、西洋衣服仕立の引札など。あるいは、商品のラベルや包み紙。代用コーヒーのラベル、蕃茄(あかなす)水煮のラベル、大船軒(いまもある!)の旅行用サンドウィッチの包み紙など。幕末・明治の社会の具体相を伝える、こうした「モノ」「図像」好きには、たまらない資料集である。

 慶応3年(1867)のパリ万博には幕府から、明治6年(1873)ウィーン万博には明治政府から派遣された田中芳男は、滞在先でも精力的に「紙ゴミ」の類を拾い集めている。ホテルカード、会食メニュー、領収書(?)、ロブスターの缶詰のラベル、ストーブの広告等々。石鹸の拓本もある。なるほど、立体物はこうして「拾い集め」れば、貼り込みできるんだな。

 田中芳男本人の写真入り「パリ万博入館証」も貼ってある。森有礼の訃報とか、佐野常民からの電報とか、伊藤博文名義の観桜会招待状とか、同時代の名士たちが、突然、固有名詞で立ち現れるのも面白い。鶏卵ラベルの上に貼ってある朱書きの「内務卿大久保利通」は何だったんだろう? 町田久成の筆跡を見た著者(モリナガ・ヨウさん)が、面倒くさそうな人物、と評していたのには笑ってしまった(いま、その箇所が見つからないけど)。

 内国博覧会や博物館に関する資料が豊富なのはもちろんだが、大学南校(東京大学の前身のひとつ)の資料が混じっているのは意外な発見だった。物産局関係のみならず、「大学南校入学者保証人証書書式」(庚午だから明治3年?)なども。明治18年(1886)の駒場農学校獣医学科の成績表もあった。探せば、もっと東大沿革史料が出てくるかもしれない。
 
 「恵比須ビール」と並んだ「大黒ビール」のラベルの解説によると、大黒ビール(大日本東京大黒社)は横浜で明治22-23年に創業されたビール会社で、自力製造はせず、他社の製品を買って大黒ラベルをつけて販売していた(え?)。また、日本麦酒醸造会社は、当初、大黒ビールという名前で販売を予定していたが、先に出されてしまったので、急遽「恵比須ビール」に変更した。というような「小ネタ」も本書から仕入れることができる。実に、楽しみ方はいろいろ。

 しかし、この『君拾帖』、「本物が見たい」と言って、東大総合図書館に申し込めば、誰でも拒否はされないはず(たぶん)。マイクロフィルムや電子化資料などの複製物がある場合は「特別の理由がない限り、そちらを利用してください」と断り書きされてされているが、『君拾帖』の複製物は確認できない。別にこれまでも『君拾帖』の存在は隠されていたわけではないが、本書によって、その面白さが一挙に広まってしまって、大丈夫なのか?と他人事ながら気になる。
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龍の見る夢/開発主義の時代へ(高原明生、前田宏子)

2014-09-07 22:57:24 | 読んだもの(書籍)
○高原明生、前田宏子『開発主義の時代へ:1972-2014』(岩波新書:シリーズ中国近現代史5) 岩波書店 2014.8

 年代別構成の1-5巻としては最終巻である。文化大革命まっただ中の1972年から、習近平体制の今日までを一気に駆け抜ける。一般に中国の改革開放政策は、小平指導下の1978年に始まったとされているが、本書はその認識を取らない。

 文革の最中も毛沢東やその他の共産党の指導者は、経済発展の必要性を忘れていたわけではなかった。1972年初め、国務院は化学繊維、化学肥料などのプラント輸入を再開する。「文革は中国経済を破壊したというイメージが強いが、実は文革期に中国の経済は成長していた」ということを、著者は『中国経済年鑑』から作成したGDPと経済成長率のグラフをもとに述べている。ふうん。文学的なイメージに惑わされないようにしなければ。「毛沢東は多面性を有する複雑な人物であり、経済を最重視しながらも、経済発展の必要性を決して忘れていなかった」というのは、私にも分かる。

 そして、文革の収束、毛沢東の死。後継者に指名されたのは華国鋒であったが、「二つのすべて」(毛主席の行った決定をすべて擁護し、毛主席の指示にすべて従う)以外、何ら新機軸を打ち出せなかった華国鋒との政治路線闘争に勝利した小平は、改革・開放を推し進めていく。外交、内政の相次ぐ危機。ずっと後のページに出てくるのだが、小平が南方講話の中で「右も左も社会主義を滅ぼすことができる。中国は右を警戒しなければならないが、主には左を防止することだ」と言い残しているというのは印象的だった。「生産力と国力、そして生活水準の向上にとって有利な制度や政策であればそれは社会主義である」という「三つの有利」論というのも、よく言ったものだなあと思う。

 1992-2002年は、小平の衣鉢を継いだ江沢民、朱鎔基と(共産党の)保守本流・李鵬のせめぎ合いの時代。私の記憶にも新しく、なつかしい。2002年、江沢民は「三つの代表」論を発表し、共産党は「先進的生産力の発展、先進的文化の前進、最も広範な人民大衆の根本的利益」の三つを代表しなければならないと述べた。これによって中国共産党は階級政党から国民政党に転換したとみることができる。

 2002-2012年は、胡錦濤、温家宝の時代だが、党および国家機関に江沢民の影響は根強く残った。外交面において、ソフトな国際協調路線を掲げる胡錦濤に対し、それとは相容れない動きがたびたび起きたのも、背景に党内の政治的対立、外交政策をめぐる主導権争いがあったためと考えられる。2012年に誕生した習近平政権については、まだラフスケッチしか語られていないが、中国にも新しい世代の指導者が出て来たという印象は受けた。あらためて考えてみると、近年、日本のニュースが内向きになって、中国の政治的な動きをあまり報道しなくなったような気がする(些末な、センセーショナルな報道はあっても)。嬉しくない傾向である。

 これは、本書の著者の関心のせいかもしれないが、全体を通して強く感じたのは、中国の政治家たちが「経済」を強く重視していることだ。路線対立というのも、計画経済か市場経済か、同じ改革派でも生産重視か財政金融重視か、などに帰着する。そして、いったん経済政策が決まると、全てがその実現のために設計される。80-90年代の全方位的な国際協調路線も、それが中国経済の発展に有利と考えられたから採用された。また、1997年のアジア金融危機を通じて、中国の指導者は「経済安全保障」という概念を学んだともある。当時の銭其琛副総理の「地域と世界との金融協力を強化し、国際投機資本の攻撃を共同して防御しなければならない」という談話には感心した。経済にうとい私でも近年の世界情勢を見ていると、その意味が理解できる。安全保障といえば、台湾の李登輝さんも本書にちょっと出てくるのだが、「デモクラシーは軍事力にまさる安全保障手段である」という発言が心に残ったので、書きとめておく。

 具体的な経済政策において、物価の安定を取るか景気の刺激を取るか、失業者が増えると社会が不安定になるから雇用対策を優先すべき、いや、インフレは広範な人民の生活を圧迫する、といった近年の路線対立の構図を読んでいると、意外なくらい、日本社会と問題の質が変わらないなあと感じた。それどころか、中国の少数民族問題には、大学入試や一人っ子政策で優遇され、多額の経済支援や教育支援を受けている少数民族が「恩」を仇で返すのが納得いかない、と考える漢族の人々もいるそうで、ううむ、どこかの国で見た風景だ、と思ってしまった。

 日本の近現代政治史も、ドロドロした小説仕立てではなくて、一度こういう政策本位のスマートな記述で読んでみたいと思った。それだけの内実があれば。
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隅から隅まで/雑誌・芸術新潮「ヒエロニムス・ボスの奇想天国」

2014-09-04 22:14:58 | 読んだもの(書籍)
○雑誌『芸術新潮』2014年9月号「特集・中世の大画家 ヒエロニムス・ボスの奇想天国」 新潮社 2014.9

 わーいわーい、大好きなヒエロニムス・ボス(1450?-1516)だ! 私にこの不思議な画家を深く教えてくれたのは、間違いなく澁澤龍彦だが、いくつかの作品は、もう少し前から知っていたかもしれない。ボスより少し遅れて、同様に幻想的な作品を残したフランドルの画家、ブリューゲル(1525?-1569)と一括して語られることが多いが、私は圧倒的にボスが好き。明るく朗らかな色彩、明晰な形態、それなのに(それゆえに)深まる「謎」と「不安」、大好物である。

 同誌の特集は、展覧会と連動していることが多いので、何か来日するのだろうか!?と色めき立ってしまったが、そうではないらしい。2016年は没後500年にあたるため、オランダでは記念イベントや大規模展覧会が予定されているが、日本までその波及は無いもよう。ヨーロッパの記念イベントが一段落したあとでもいいから、日本に来てくれたら嬉しい。

 ボスの「真筆」とみなされている作品は、世界に20点しかないそうだ。私は、乏しい渡欧経験の中で、マドリッド美術館に行ったことがあり「え、スペインなのにこんなにボスがあるの?」と、死ぬほど驚いた記憶がある。所蔵作品を全部見られたかどうかは定かでないが、『快楽の園』を含め、最多の5点所蔵。真贋論争の判定に、作品の支持体の板に対する年輪年代測定法が用いられていると読み、科学ってすごいと感じた。Wikiによれば、ボスの作品のほとんどが「16世紀の宗教改革運動での偶像破壊のあおりを受けて滅失した」とのこと。悲しい。それでもこれだけの名作が残った幸運に感謝したい思う。

 本書の楽しさは、何といっても細部の拡大図版! むかし、高校生のお小遣いではポケット版(A5サイズ)の画集しか買えなかったので、表紙や特集扉ページの『快楽の園』部分拡大図版は、私にとって「初めて見る風景」である。思わぬところに思わぬポーズで出没する怪物、怪人たち。何なのよ~こいつら! 安易に寓意が読めないところが、嬉しくて、楽しい。

 『最後の審判』では、世界は魔物であふれ、多くの人々が地獄と煉獄で苦しんでいる。天上のイエスの傍らにある集団が、わずか6人。ほかに昇天しつつある小さな人影が3人と、天使に支えられて、煉獄の山道を登りつつある者が1人(よく見つけたなー)。『東方三博士の礼拝』の黒人の博士がまとう純白のローブも、拡大図版で見られて嬉しい。これほど素晴らしい描写とは思っていなかった。ぜひ高精細デジタルで、細部の細部まで味わいつくしたい。

 さらに、ボスの真作とみなされている素描8点も収録されている。フクロウかわいいなあ。利発そうだが、『快楽の園』の解説に、フクロウは「愚者の象徴」とあって、えっと驚いた。また、『茨の冠のキリスト』はじめ、透徹した写実で描かれた人物には、幻想画とまた違ったボスの魅力がつまっている。

 その他の記事では、小特集「スペインはすごい!」の扉絵が愛らしくて、お気に入り(支倉常長とダリの口髭がシンクロしているw)。同じく小特集「ネーデルラント美術紀行」は写真たっぷり。あ、マウリッツハイス美術館もアムステルダム国立美術館も新装したんだ。久しぶりにヨーロッパに行きたくなってきた。行けないだろうけどねえ。
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キーワードは馬?/諸星大二郎『暗黒神話』と古代史の旅(太陽の地図帖)

2014-09-03 00:59:17 | 読んだもの(書籍)
○太陽の地図帖編集部編『諸星大二郎「暗黒神話」と古代史の旅』(別冊太陽 太陽の地図帖_027) 平凡社 2014.9

 はじめに正直に断っておく。私はかなり古くからの諸星ファンだが、よく考えてみると「暗黒神話」を読んでいない。なんということ! うかつにも本書の出版を聞いて、はじめてそのことに気づいた。私がリアルタイムに触れた最初の諸星作品は「孔子暗黒伝」(週刊少年ジャンプ、1977-1978年連載)だと思う。「暗黒神話」の少年ジャンプ連載は、これにちょっとだけ先立っている(1976年)。 ちょうどこの間に、私の愛読誌は少女マンガから少年マンガに移行したのだった。

 それでも諸星ファンとして本書を買い逃すわけにはいかない。小さな文字で表紙に添えられた地名「チブサン古墳」「富貴寺」「宇佐神宮」「比叡山延暦寺」「益田岩船」「石舞台古墳」等々に引き寄せられ、ページをめくると、あまりビジュアルに素顔をさらすことの少ない諸星先生が、長野県茅野町の神長官守矢資料館(じんちょうかんもりやしりょうかん)で、無数のクマやシカやイノシシの首が並ぶ壁の前に、ぼんやりした表情で立たれている。諸星先生、諏訪のお生まれだったのか。この資料館は、藤森照信氏の設計で、一度行ってみたいと思いながら、車の運転ができない私にはハードルが高くて、なかなかその機会がない。

 『暗黒神話』のあらすじに沿って、ゆかりの土地を訪ねる本編も「Chapter1 諏訪・茅野」から始まる。諏訪は「縄文王国」だったんだな。ちょうど夏の北海道旅行で縄文文化への関心が高まったところなので、かなりツボを刺激される。それにしても縄文土器を、悪夢の奥から出現したような「怪物」に変換してしまう、諸星先生のイメージ操作力に息を呑むばかり。

 「Chapter2 九州北部」では、数々の装飾古墳を紹介。禍々しくも美麗なカラー写真にうっとりと見入る。装飾古墳は公開されていないものと決めてかかっていたが、見学できるところもあるのだな。「予約制」や「要問い合わせ」のところもあり、「バス30分+徒歩20分」「バス3時間20分」など、かなりハードルが高いが、アクセスデータはありがたい。

 「Chapter3 国東半島」も魅力的なのに行きにくいところ。ここは国東半島に限らない「馬頭観音」と「石馬」に関するコラムが興味深かった。浄瑠璃寺(奈良国立博物館寄託)の馬頭観音は、むらむらに剥げ残った赤い顔料が、全身に血を浴びたようで、怖すぎる。なぜか若狭地方にも馬頭観音は多い。「石馬」は、九州の岩戸山古墳と鳥取の石馬谷古墳の二例しか日本にないそうだ。覚えておこう。

 「Chapter4 京都・奈良」は穏当な名所揃いなので割愛。「Chapter5 駿河・伊豆」に紹介されている神社や旧跡は、いちばん馴染みがなかった。草薙神社、焼津神社など、ヤマトタケルの東征伝説に由来する神社があるそうだが、創建はいつなんだろうか。

 本書のところどころに「暗黒神話」本編の一部と思われるカット(1コマ、時には1ページ)が転載されているのは嬉しい。ただし本文との関連が分かるものもあれば、分からないものもある。中には全く説明のない「謎」のカットもあって、気になる。

 本書に署名入り記事を書いている方々は、冒頭の中沢新一氏しか知らなかったが、畑中章宏氏、松木武彦氏など、今後の読書のために覚えておきたい(プロフィールによれば両氏とも私と同世代だ)。こういう本を作るのは楽しかっただろうなあ。いいなあ。

 巻末の「『暗黒神話』を楽しむための読書案内」では、上記の畑中章宏氏、松木武彦氏が厳選した14点を紹介。いまどき珍しいほど時代に迎合しない良書揃い。したがって表紙写真はどれも地味(笑)だが、そこがよい。なお、諸星大二郎先生の「オススメの三冊」は、谷川健一『古代史ノオト』、大林太良『日本神話の起源』、益田勝実『秘儀の島』らしい。→※「ヴィレッジヴァンガード下北沢」のツイート。こういう教養主義、古いんだろうけど、私は好き。

 なお、当然ながら、本書を入手後、札幌の大きな書店をまわって「暗黒神話」を探したのだが、見つけられなかった。Amazonでは「在庫あり」だが、今月、東京に行ったら、まずリアル書店で探してこよう。それと「画楽.mag」という雑誌が「暗黒神話」完全版(新たに手を入れたもの)を連載するという。嬉しいけど、まずはオリジナル版を読みたい。

 もうひとつ追記。『諸星大二郎原画展』(2014年8月27日~9月2日、阪神梅田本店)東京、博多に続く大阪FINAL開催が今日までだったらしい。北海道に来てくれないかなあ(泣)。
コメント (2)
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闇にひそむ後鳥羽院/怨霊とは何か(山田雄司)

2014-09-01 22:05:50 | 読んだもの(書籍)
○山田雄司『怨霊とは何か:菅原道真・平将門・崇徳院』(中公新書) 中央公論社 2014.8

 歴史上、怨霊となった人たちが好きだ。敗者好きと言ってもいいかもしれないが、判官びいきとはちょっと違う。敗者であることを受け入れた悲劇のヒーローよりも、怒れる怨霊となって祟りをなし、今なお気味悪がられる悪役たちが好きなのである。

 本書は「日本三大怨霊」と呼ばれる(←そもそも、この括り方の由来が知りたい)菅原道真・平将門・崇徳院について、それぞれ1章を設けて記述する。全国各地に散らばる鎮魂の史跡、御廟や神社・塚などが写真入りでたくさん紹介されていて嬉しい。

 まず前段では、古代の霊魂観を論ずる。霊魂(たましい)は、油断をしていると身体から抜け出してしまうと考えられていた。中国では、頭部(脳)の中の魂が、髪の毛の中を通って抜け出すと考えられていたため、毛先を露出させず、髷を結い、さらに頭巾や簪で留めておかなければならなかった。毛先を露出させた髪型は幽霊や、霊魂と通じる巫(かんなぎ)・道術者のものだった。

 「怨霊」という言葉は漢訳経典にはなく、9世紀初頭、(日本の)仏教者によって作り出されたと推測されている。迷える霊魂を慰撫するには、儒教的対応や神社の祈祷では限界があり、死後の世界の体系をもっている仏教の力が必要だったのだ。「怨霊」鎮撫に大きな役割を果たしたのが入唐僧の玄で、玄が帰国した頃から変化観音の作例が相次ぐ。これらは災害の因をなす怨霊を鎮圧するとともに、時には怨敵を祈り殺す呪詛の像としての性格もあった(観音なのに、こ、怖い)。一例として挙げられているのが霊山寺の観音像。私は2010年に拝観して、確かに「異形」という印象を持った。お姿は霊山寺のホームページで見られる。

 その後、最澄、空海らの時代になると、呪術による調伏ではなく、経典を読誦し、仏法の理を説くことで、怨霊をなだめ、成仏させる方法が確立する。

 「三大怨霊」の中で、最も上手く慰撫されたのは菅原道真だろう。醍醐天皇の皇太子・保明親王とその皇子・慶頼王を祟り殺し(たと信じられ)、醍醐天皇をも地獄に突き落とした道真が、明治維新後、楠木正成などと並ぶ「忠臣の鑑」に祭り上げられていたのには笑った。評価って変わるものだなあ。醍醐天皇もいい面の皮だ。道真が純粋に学問の神様として崇められるようになったのは戦後のことである。

 これとは逆に平将門は、今なお祟り神の「都市伝説」を再生産し続けている。興味深いのは、江戸時代に将門を題材とした文芸作品や錦絵が多数作られたこと。山東京伝の読本『善知鳥安方忠義伝(うとうやすかたちゅうぎでん)』はそのひとつで、歌川国芳の名作浮世絵『相馬の古内裏』を生んだ。

 崇徳院は「日本史上最大の怨霊」とも呼ばれている。安元年間、後白河院周辺の人々の相次ぐ死(建春門院滋子を含む)、太郎焼亡と呼ばれる大火災などの社会不安は、人々に崇徳院と頼長の怨霊を意識させた。これを語って(煽って?)いたのは、かつて崇徳院に仕えた藤原教長ではないかというのは面白いな~。

 しかし、その後の崇徳院の怨霊の「成長」には、後鳥羽院の怨霊問題が強く影響しているという。私は、後鳥羽院には、あまり怨霊のイメージを持っていなかったので、非常に面白かった。水無瀬神宮所蔵の『後鳥羽院置文案』には「我身にある善根功徳をみな悪道に回向」し、魔縁となって祟るという宣言がある。ここから『保元物語』の崇徳院怨霊像が創造されたというわけだ。なんと「日本史上最大の怨霊」の実体は、表舞台で荒ぶる崇徳院にあらずして、闇にひそむ後鳥羽院であられたか! ぜひ一度、水無瀬神宮に詣でてみなければ。そして、もちろん後醍醐天皇も怨霊だったのね。明治維新後の価値転倒で曖昧になってしまったけど。

 なお、崇徳院が讃岐に流された『保元の乱』以降「武者の世」が始まったという歴史観は、幕末の国学者や尊皇の志士たちにも強く意識されていた。王政復古を実現するためには崇徳院の神霊還遷が必要と考えられ、最終的に現在の上京区の白峰神宮となった。

 室町時代に入ると、世阿弥は「怨霊」の代わりに「幽霊」という言葉を用い、恐ろしい「幽霊」を創作した。なるほど、先日、太田記念美術館で『江戸妖怪大図鑑・幽霊』を見てきたところだが、「幽霊」すなわち「怨霊」に置き換えてもよいのだな。また中世以降、「怨霊」という考え方が希薄化するに従い、「怨親平等」(敵味方一切の幽魂を弔うこと)の思想が一般化する。ただし、近代においては「怨親平等」の思想が政治的に利用されてきたことにも著者は注意を促している。
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