四方田犬彦 1999年 マガジンハウス
うーん、ちっとも旅行に行く気になんない私なんで、旅について書かれた本を久しぶりに読み返してみた。
かと言って、すぐ出かけようって誘う本ぢゃないんだけど。曰く、
>この書物は旅行のことといっても、どこか誰も足を踏みいれたことのない極地に行ったとか、密林で信じがたい冒険をしてきたとか、そんなことではなく、むしろ誰もが旅という行為をめぐって体験している取るに足らないことを、あえて取り上げてみようという意図から書き始められた。というわけで、災難の対処法とか、向こうでの言葉の不自由とか、待合室での退屈とか、そんなことばかり書いてきた。
っていう本なんで。
ちなみに、著者の最大の災難ってのは、ソ連解体の前年にグルジアの首都トビリシの駅で、カバンを盗まれてしまい、パスポートも現金も航空券も無くして、それでもモスクワ経由で何とか成田まで帰ってきたという経験。
貧乏旅行や、寝台車や船旅の愉しさ、旅行につきもののお土産や絵葉書や現地の食べ物についての考察とか、読んでて飽きない。(けど、あいかわらず私はべつに旅に出たくはなんない。まあ、それは私の問題なんだが。)
絵葉書の項では、
>絵葉書を前にしてはどんなことを書いても、とうてい絵葉書を出すという行為に到達できないという感じがある。理由は簡単で、そもそもこのメディアは、相手に特定の用件や情報を伝えるものではないからだ。(略)絵葉書のメッセージとはただひとつ、わたしはこんなに遠いところに来てしまいましたが、それでもあなたのことを思っていますよということに尽きるからである。
だなんて、うまいことが書いてある。こういうの読むと、私は「おお、そうだ」とか感動しちゃうんだけど、なんか今は世界のどこでもそれなりのとこ行けば、日本にいるひととリアルタイムで連絡とれちゃいそうな気がするんで、絵葉書って文化が絶滅しちゃわないか心配である。
まあ、少なくとも、この秋どっか海外行くにしても、ケータイだけは持っていくまいって、私は決めてんだけどね。
イタリアの郵便事情がわるいってことは、こないだ読み返した村上春樹の「遠い太鼓」にも書かれてたんだけど、この本にも日本から普通に航空便を出しても二、三週間はザラ、半年かかることもあるって書いてある。
それで、アルプスの麓のコモという土地に日本から郵便を送るのに、「コモ、イタリア」って書かないで、「コモ、スイス」って書いたら、隣国のスイスの郵便配達が国境を越えてイタリアのコモまで来てくれたおかげで四日で着いた、なんて話がある。
そういうホントかウソかわかんないエピソードは面白い。パスポートの裏の職業欄に「学習院」って書いておいて、その文字をチラリと見せれば、成田の税関の職員は最敬礼しちゃって荷物のなかは絶対に開けないから何でも持ちこめる、とか。(1980年代初頭の逸話らしい。)
でも、マジメなこともいっぱい書いてあります。私が好きな一節は、たとえば以下のようなもの。
> 書物の頁の間に挟まれた一枚のチケットの半券や、かつて足を運んだ土地で知りあった人から思いがけずも到来する絵葉書。そういった、ほんのささいな機掛けから、かつて成しえた旅行の思い出が次々と紡ぎ出されてゆくとき、人は真の旅行というものが空間のなかの移動である以上に、時間のなかの移動であったことに気付くはずである。
…んー、このあと私がどこへ出かけるかはわかんないけど、とにかく、写真でさんざ見た場所をめがけて出かけてって、「あ、写真そっくり」とか、事前の情報に後から現実の体験を追っかけてするような旅行はしたくないなぁ。(たいがいはそんなんだから、なかなか出かける気にならないんだけど。)
うーん、ちっとも旅行に行く気になんない私なんで、旅について書かれた本を久しぶりに読み返してみた。
かと言って、すぐ出かけようって誘う本ぢゃないんだけど。曰く、
>この書物は旅行のことといっても、どこか誰も足を踏みいれたことのない極地に行ったとか、密林で信じがたい冒険をしてきたとか、そんなことではなく、むしろ誰もが旅という行為をめぐって体験している取るに足らないことを、あえて取り上げてみようという意図から書き始められた。というわけで、災難の対処法とか、向こうでの言葉の不自由とか、待合室での退屈とか、そんなことばかり書いてきた。
っていう本なんで。
ちなみに、著者の最大の災難ってのは、ソ連解体の前年にグルジアの首都トビリシの駅で、カバンを盗まれてしまい、パスポートも現金も航空券も無くして、それでもモスクワ経由で何とか成田まで帰ってきたという経験。
貧乏旅行や、寝台車や船旅の愉しさ、旅行につきもののお土産や絵葉書や現地の食べ物についての考察とか、読んでて飽きない。(けど、あいかわらず私はべつに旅に出たくはなんない。まあ、それは私の問題なんだが。)
絵葉書の項では、
>絵葉書を前にしてはどんなことを書いても、とうてい絵葉書を出すという行為に到達できないという感じがある。理由は簡単で、そもそもこのメディアは、相手に特定の用件や情報を伝えるものではないからだ。(略)絵葉書のメッセージとはただひとつ、わたしはこんなに遠いところに来てしまいましたが、それでもあなたのことを思っていますよということに尽きるからである。
だなんて、うまいことが書いてある。こういうの読むと、私は「おお、そうだ」とか感動しちゃうんだけど、なんか今は世界のどこでもそれなりのとこ行けば、日本にいるひととリアルタイムで連絡とれちゃいそうな気がするんで、絵葉書って文化が絶滅しちゃわないか心配である。
まあ、少なくとも、この秋どっか海外行くにしても、ケータイだけは持っていくまいって、私は決めてんだけどね。
イタリアの郵便事情がわるいってことは、こないだ読み返した村上春樹の「遠い太鼓」にも書かれてたんだけど、この本にも日本から普通に航空便を出しても二、三週間はザラ、半年かかることもあるって書いてある。
それで、アルプスの麓のコモという土地に日本から郵便を送るのに、「コモ、イタリア」って書かないで、「コモ、スイス」って書いたら、隣国のスイスの郵便配達が国境を越えてイタリアのコモまで来てくれたおかげで四日で着いた、なんて話がある。
そういうホントかウソかわかんないエピソードは面白い。パスポートの裏の職業欄に「学習院」って書いておいて、その文字をチラリと見せれば、成田の税関の職員は最敬礼しちゃって荷物のなかは絶対に開けないから何でも持ちこめる、とか。(1980年代初頭の逸話らしい。)
でも、マジメなこともいっぱい書いてあります。私が好きな一節は、たとえば以下のようなもの。
> 書物の頁の間に挟まれた一枚のチケットの半券や、かつて足を運んだ土地で知りあった人から思いがけずも到来する絵葉書。そういった、ほんのささいな機掛けから、かつて成しえた旅行の思い出が次々と紡ぎ出されてゆくとき、人は真の旅行というものが空間のなかの移動である以上に、時間のなかの移動であったことに気付くはずである。
…んー、このあと私がどこへ出かけるかはわかんないけど、とにかく、写真でさんざ見た場所をめがけて出かけてって、「あ、写真そっくり」とか、事前の情報に後から現実の体験を追っかけてするような旅行はしたくないなぁ。(たいがいはそんなんだから、なかなか出かける気にならないんだけど。)
