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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

江戸前の男

2017-10-01 17:26:03 | 読んだ本
吉川潮 平成11年 新潮文庫版
夏前に古本屋で買っといた文庫、読んだのはごく最近なんだけど、いやー、おもしろい、とっくに読めばよかった。
おもしろいのは本というより、主人公の噺家の人物がおもしろいんだ、副題は「春風亭柳朝一代記」。
ところが、残念なことに私はこの春風亭柳朝のことを知らない、病に倒れた(脳血栓)のが昭和57年12月だっていうんで、しかたない、それ以前に見た落語の記憶なんてない。
(だから、文楽も志ん生も円生も知らないんだけどね。いくら名人だと言われても、時代違ってりゃ知らないのはしかたない。)
昭和4年、新橋烏森の生まれで江戸っ子なんだが、落語の登場人物たちとは全然違って、小学校の昼食は弁当ぢゃなくて女中ができたての料理を届けてたっていう坊ちゃん。
ちなみに、師匠の蝶花楼馬楽(のちの彦六の正蔵)の家を訪ねたときに、初めて本物の長屋というものを見たらしい。
子どものころからの辛抱できない性格とか、大事なことでもすぐ人任せにして自分は何もしないって態度は、大人になっても変わらず、若いときに二十数回も職を変えたりした末、落語家を志した。
落語家修行は本気で取り組んだんだけど、それでも喧嘩をしたり、さらに謝るのがヘタだったりで、師匠をしくじり、破門になる。
魚屋で半年間働いたあと、入門しなおすんだけど、酒や遊びを控えて金をためたのはこのときが生れて初めてだという。
しかし、前座のころも、面倒な仕事は後輩にやらせて自分はラクして指図ばっかしてたんで、「太ったお奉行様」とあだ名されてたとか。
ちなみに談志家元は、若いころにいじめられたからと柳朝を嫌ってたそうだが、本書によると、高座の最中に舞台を横切ったりして落語の邪魔したそうだ、それなら談志も円鏡にやったって自分で言ってたような。
しかし、江戸っ子らしいしゃべりのうまさには定評があったらしく、志ん生が自分の弟子に「よそへ稽古に行くなら照蔵(二つ目のときの名)んとこへ行け。あいつは江戸っ子で啖呵が切れる」と言ったそうな。
一方で遊び人としても有名で、「女郎買いのことなら照蔵に聞け」っていうのは東京だけぢゃなく、大阪の落語界にまで知れわたってたらしい。
やがて当然のことながら真打になるんだが、一度目は兄弟子と同時にって話だったのを「こいつと一緒の昇進はやだ」って理由で辞退してる。
もちろん、ホントのこと周りには言いやしないで、「披露目のためのカネを遊びで使っちまったから」とか吹いて、それ聞いた人たちは、いかにもらしいやなんて思ったりする。
でも、師匠の正蔵には見破られて、もっとうまいウソをつけ、なんて一喝される。
出戻り入門したあとも、何度も破門だって言われて、そのたんびに遺書書いたりして許されるなんてことしてる、この師弟の縁はただもんぢゃないんである。
談志や円楽に出世で遅れをとったらどうすんだって周囲の心配をよそに、芸は確かだから、ほどなく真打昇進するんだけど、柳朝は自分が師匠となっても弟子を大事にしたらしい。
最初の弟子をとったときから、弟子は落語を教わりに来たんだから雑用やるより稽古しろって、家の用事をやらせなかった。
ただし、家事雑用をやらせているところもあるから、他の師匠に聞かれたら雑用もやっていると答えろよ、って本人には言っとくとこがいい男である。
二人目の弟子が小朝である。落語好きの親に連れられ幼いときから落語をみてきて、中学生のときに、師匠にするならこのおじさんだ、と自分で決めて門をたたいた。
柳朝のほうもひとめ見て気に入って、周囲にに「見るからに利発そうな子でな。絶対見込みがあるぜ」なんて言ってる。
可愛がられた小朝は、師匠に対しても物怖じせずに、堂々とものを言う、たとえば志ん朝と柳朝の二人会で師匠はどうしてちゃんとやらないのか、なんて。
その点について、柳朝は弟子には「お前もいつかわかる」としか言わなかったけど、長年の友人には「芸人が本気で勝負するなんて野暮の骨頂だと思ってる。しゃかりきになってやるより一歩引いて志ん朝を立てる。そのほうが粋じゃねえか」なんて言う。
江戸前なんである。
>自分が主役でないと思ったら、一気に隅のほうに引っ込んで悪あがきを見せない。石にかじりついてでも、ここで逆転してやろうなどという根性がない。淡泊、見栄坊、恥ずかしがり屋……。
>意地っ張りだし負けず嫌いでもあるのだが、それを絶対表面に見せようとしない。
友人である色川武大にもそう性格を見抜かれている。
しかし、平成8年の出版当時は想像もされなかっただろうけど、現在になってこれ読んで気の毒なのは、小朝が(あんなふうにして)離婚しちゃったことだね、って感想もたざるをえない。
ちなみに、小朝の結婚式は柳朝が病気した後なので、柳朝はもう二度と人前に顔を出さないって覚悟を決めちゃってたんで欠席する。
そんな師匠の気持ちを知ってる小朝は、誰とも顔を合わせないように別室を取るから、ちょっとだけでも式を覗いてください、なんてお願いをした。
できた弟子なんである。
だから、平成3年に師匠が死んだときも、柳朝の葬式なんだからって、できるかぎりのことをして派手に送り出そうと葬儀をとりしきる。
昭和28年に柳亭左楽が死んだとき、花輪が上野の谷中清水町の家から隣町まで千本以上並んで、葬列の最後を東京中の鳶の頭が木遣唄いながらついていく葬式をみて、自分も死んだらこういう葬式をやってもらいたいと思った柳朝に、ふさわしい手向けだったんだろう。
それにしても主人公が死んで葬式やるところから始まる伝記ってのもめずらしい。
コメント
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