いしいしんじ 平成十六年 新潮文庫版
河合隼雄さんの著作を読むと、どうしても物語・おはなしってことを意識するわけで。
なんかないかなと古本買い行ったついでに探してたら、いしいしんじの文庫に目がとまることになり、読んでみることにした。
『麦ふみクーツェ』しか読んだことなかったんだけど、なんか期待するものあって。
タイトルのぶらんこ乗りってのは、語り部である「私」の弟のこと、高校生になった姉が、三つ年下の弟が小学校に入ったばかりのころのことを回想して書いたって体の物語。
おばあちゃんに、悪いことするとサーカスに売り飛ばすぞみたいにおどされて育った、小さいころの弟は、そのせいでサーカスに恐怖を感じてたんだけど、実際に観に行ったら、空中ブランコに魅せられることになる。
そのぶらんこ好きにこたえて、お父さんは庭にある木に手製のぶらんこを作ってやり、弟は上手にぶらんこに乗ることができるようになる。
ちなみにこの一家、亡くなったおじいちゃんは偉大だった画家、子供に全然甘い顔をみせないおばあちゃんはそのむかし舞台女優だった。
画家の娘のお母さんはやはり画家なんだけど、子供の目にはよくわからない絵しか描かない、そしてお父さんは額縁とか作る職人、夫婦はとても仲がいい。
全体になんか不安な印象をもたらせつつ、おはなしは進むんだけど、やっぱり、ある日のこと弟がアクシデントにあい、声を失う。
それまでも、ノートに独自のおはなしをつくる才能があった弟だが、話さなくなったことから、さらに文字にしていろんなことを書くようになる。
おまけに、それ以降、いつも家の庭のぶらんこの上にいることが多くなった弟は、動物の話すことが聞こえるといって、誰も知らないような動物のできごとを書きとめては姉に教えるが、姉はみんな弟のつくり話だと思う。
このあたりから、動物の話すことはあっちがわのこと、あっちがわに引き寄せられることがあるって弟の言うことに深い意味があるように思えてくる。
はじめてサーカスを見たときに、
>サーカスは思ったとおりだった。あっちがわとこの世の、ちょうどあいだにある。ぼくはなんどもあっちがわにひっぱられそうになった。
って書いた弟は、動物のはなしについても、
>おねえちゃんのこえはこっちがわにある。ぼくは、どうぶつのこえとおねえちゃんのわらいごえ、あっちがわへこっちがわへとゆれているぶらんこみないたものなんだ(p.177-178)
って言う。
そんな感じのことがくりかえし語られていき、最後のほうで、いなくなった弟について姉は、
>だって、ぶらんこは行ってはもどりする。はるかかなたへ消えたようでも、ちゃんとまっしぐらな軌道をえがき、ちょうどいい引力に従って、もといた場所にもどってくる。それに、忘れちゃいけない。弟は世界一のぶらんこ乗りだ。(p.252)
って、いつかまた手をつなげあえると信じてるという。
うーむ、なんとなくタイトルにひかれただけで読んでみたけど、とんでもなく良い物語にぶちあたってしまったようだ。ときどき読み返すことになりそうな予感がする。
河合隼雄さんの著作を読むと、どうしても物語・おはなしってことを意識するわけで。
なんかないかなと古本買い行ったついでに探してたら、いしいしんじの文庫に目がとまることになり、読んでみることにした。
『麦ふみクーツェ』しか読んだことなかったんだけど、なんか期待するものあって。
タイトルのぶらんこ乗りってのは、語り部である「私」の弟のこと、高校生になった姉が、三つ年下の弟が小学校に入ったばかりのころのことを回想して書いたって体の物語。
おばあちゃんに、悪いことするとサーカスに売り飛ばすぞみたいにおどされて育った、小さいころの弟は、そのせいでサーカスに恐怖を感じてたんだけど、実際に観に行ったら、空中ブランコに魅せられることになる。
そのぶらんこ好きにこたえて、お父さんは庭にある木に手製のぶらんこを作ってやり、弟は上手にぶらんこに乗ることができるようになる。
ちなみにこの一家、亡くなったおじいちゃんは偉大だった画家、子供に全然甘い顔をみせないおばあちゃんはそのむかし舞台女優だった。
画家の娘のお母さんはやはり画家なんだけど、子供の目にはよくわからない絵しか描かない、そしてお父さんは額縁とか作る職人、夫婦はとても仲がいい。
全体になんか不安な印象をもたらせつつ、おはなしは進むんだけど、やっぱり、ある日のこと弟がアクシデントにあい、声を失う。
それまでも、ノートに独自のおはなしをつくる才能があった弟だが、話さなくなったことから、さらに文字にしていろんなことを書くようになる。
おまけに、それ以降、いつも家の庭のぶらんこの上にいることが多くなった弟は、動物の話すことが聞こえるといって、誰も知らないような動物のできごとを書きとめては姉に教えるが、姉はみんな弟のつくり話だと思う。
このあたりから、動物の話すことはあっちがわのこと、あっちがわに引き寄せられることがあるって弟の言うことに深い意味があるように思えてくる。
はじめてサーカスを見たときに、
>サーカスは思ったとおりだった。あっちがわとこの世の、ちょうどあいだにある。ぼくはなんどもあっちがわにひっぱられそうになった。
って書いた弟は、動物のはなしについても、
>おねえちゃんのこえはこっちがわにある。ぼくは、どうぶつのこえとおねえちゃんのわらいごえ、あっちがわへこっちがわへとゆれているぶらんこみないたものなんだ(p.177-178)
って言う。
そんな感じのことがくりかえし語られていき、最後のほうで、いなくなった弟について姉は、
>だって、ぶらんこは行ってはもどりする。はるかかなたへ消えたようでも、ちゃんとまっしぐらな軌道をえがき、ちょうどいい引力に従って、もといた場所にもどってくる。それに、忘れちゃいけない。弟は世界一のぶらんこ乗りだ。(p.252)
って、いつかまた手をつなげあえると信じてるという。
うーむ、なんとなくタイトルにひかれただけで読んでみたけど、とんでもなく良い物語にぶちあたってしまったようだ。ときどき読み返すことになりそうな予感がする。