丸谷才一 平成十六年 新潮文庫版上・下巻
丸谷才一の書くものは好きだけど、和歌にはとくに興味あるわけでもないしなーと迷いつつ買って、最近になって読んでみた。中古の文庫買ったの去年の7月だ。
そしたら、おもしろい、っていうか勉強になる。
まず、この詞華集をつくったスタンスが、すごい。
>そこで「百人一首」という形で日本文学史を書いたわけです。言ってみれば、日本文学史のエッセンスのサンプル集だな(笑)。(上巻p.503)
>そう、これは子規の『歌よみに与ふる書』と張り合うための本なんです。(下巻p.389)
と、あとがき代わりの巻末対談で語っている。
あと、いいのは、決まりきった形ぢゃなくて、それぞれの長さがてんでバラバラなこと。なんでも一首について見開き2ページ以内で解説つけて並べてけばいいってもんぢゃないと。
ちなみに書名が『新々百人一首』なのは、藤原定家の向こうをはって「新百人一首」にしようかと思ったんだけど、源義尚(九代将軍足利義尚)の撰による同名の書があるので、“新々”にしたんだそうだ。
もちろん、『小倉百人一首』と『新百人一首』に入ってる歌とはかぶらないように、本書は歌を選んでる。
で、こういう撰集をつくるときには、ただ一定数をピックアップするんぢゃなくて、その並びとかも大事だという伝統を守ってる。
>(略)勅撰集といふアンソロジーを一つづきの絵巻物として受取る態度が失はれ、一首一首が孤立した形でしか鑑賞されない現状(略)
を憂えているわけだ。
言われて例をあげられてみれば、巻頭や最後に位置する歌の偉大さや、同じ季節のなかでも順に移り変わっていくように配置されている歌の並びは、たしかに重要だ。
それどころか、場合によってはメイン編集者である撰者は、自分で詠んだ歌を読み人知らずとして、しかるべきとこに配置して、一巻の完成度を高めるってワザを使い、
>(略)二十一代集全般にわたる編纂の奥の手だつたのではないか、勅撰集の華麗と端正とは一つにはこのことに由来するのではないかとわたしには思はれてならない。(上巻p.138)
なんて推定している。
似たようなことでは、ほんとにその作者がつくったか定かでないものもあるが、そこはその名前と歌の内容が適切であればいいものらしい。
そのへんのとこ、ふるい時代の歌人ってのは、個人の作者ぢゃなくて共同体の代表みたいな存在だったってことのようだ。
あとは、誰の作品でどうこうというよりも、歌のもつ呪術性のようなもののほうが重要だってことで、歌の呪術性については、いろいろ説かれている。
>王朝貴族が見わたすのは単なる風景の鑑賞ではなく、その底には国見や国ほめに通じる宗教行事性、国土の祝福があるからだ。(上巻p.39)
とかね、天皇が歌を詠むことによって、動植物とか国土の繁栄につながるわけだ。
で、このあたり、恋がからんでくると、当然のようにますます話がおもしろくなってくる。
>かういふ具合に、王朝の恋に和歌がつきものなのは、一つには当時の貴族生活が美的情趣をこの上なく重んじたゆゑである。が、もつと根本的には、恋とは相手の魂に呪術をかけることだといふ古代的な恋愛観の名残のゆゑである。すなわち恋歌とは呪文の一種にほかならなかつた。(下巻p.174)
とかって具合。いいねえ、ふるき日本人。
ほかにも恋愛観については、
>これは大野晋に教へられたことだが、古代人は恋愛を、楽しいものとしてではなく、苦しいものとして把握してゐた。それゆゑ、その苦しさ、切なさから、何とかしてのがれることができたらいいのにと夢想した。かういふ恋愛観は長くつづいて、王朝のころにもなほ支配的であつた。王朝和歌に恋の喜びを主題にしたものがすくなく、恋の哀しみだげがくりかへし嘆かれてゐるのは、われわれ現代人の眼から見るとすこぶる奇異な感じだが、彼らにとつては当然のことだつたのである。(下巻p.81)
なんて解説がある。
そういうのって、もしかして、日本の昔話がグリムとかに比べて男女の結婚で終わってめでたしめでたしとなるのが少ないのとかとも関係あんのかな、って想像してしまう。
ちなみに、秋(旧暦の七月からだよね)ってのは恋の季節であるってことは、いろんな歌のところで触れられていて
>(略)秋が悲しいのは(略)本来、秋は恋の季節なのにしかしその恋が成就しないため、と思ふことにしたらしい。それが王朝文化の約束事だつた。(上巻p.352-353)
と解説してくれている、そうなんだよ、そういうこと個々の歌の意味の前に教えてくれれば国語の授業も楽しいだろうに。
あと、恋愛関係において、いろんな場面で歌を詠むことになるんだが、
>しかし王朝の人々の考へ方は違ふ。女は才智の限りを盡して気のきいたことを言ふときに最も美しい。(上巻p.241)
なんて女性に求められる、語りかけられたことに歌でスッと返す才能についても説かれている。
その他、歴史と文学との関係性について勉強になったのは、
>『新古今』時代の歌人たちに望帝=崇徳院といふ神話的イメージは、むしろ、彼らの心の底にある、宮廷生活を失ふことへの恐れとその悲劇性への憧れとの、最もドラマチックな色調での複合であつた。(略)
>当時の歌人たちが、古代的世界の終焉といふ一種終末論的な不安と陶酔にひたると同時に、宮廷の栄華と草庵の閑寂(その極致が配所である)とを二つながら味はいたいといふ人生美学に憑かれてゐたとすれば(略)(上巻p.58-59)
なんてところ。人生観、価値観っていうか、美意識みたいなの、作品の字面だけではさすがにわかんないものねえ。
崇徳院については、後白河上皇がなぜ自分では和歌はそんなに好きでもないのに、よりによって戦乱の世に、千載集なんて勅撰歌集をつくったのかという謎に対して、崇徳院の怨霊をなだめるためだなんて、大胆な説も披露されている。
どうでもいいけど、崇徳院って歌の天才だったっていうのは、あんまり知らなかったんで、本書の解説には感心してしまったものがある。
あと、和歌という文芸においては、教養として昔の歌とか他のひとの優れた歌を知ってて、そのうえで本歌どりをするというのが重要らしいが、そのへんもたーくさん参考となる歌を並べてくれていて、抽斗が豊か。
>そして、王朝和歌の基本的な技法の一つである本歌どりとは、単なる模倣では決してなく、継承であり、展開であり、唱和であり、それゆゑ一つの批評のあり方なのだから(略)(下巻p.136)
ということなんだそうだが、歌全体ぢゃなく、使われてる言葉ひとつにも、やっぱ伝統によって築かれてるものが大きいんで、
>(略)ここでわたしは王朝文学史における、第五句に「たまらず」を据ゑる和歌の一系列をたどらなければならない。順徳院の余花の詠は孤立してあるものではなく、その長い伝統のなかに位置を占め、歴史から養分を摂つてゐるゆゑこれほどの完成に到達することができた。(上巻p.202)
って調子なんだが、ぢゃあいい歌詠もうとしたら、どんだけ勉強しなきゃいけないんだってちょっと絶望的な気分にならなくもない。
ほか、文法のようなもんで、知らなかった決まりごと、字余りってのはよくあるようだけど、「字余りの句にはアイウオを含む」っていう本居宣長の発見した法則があって、そうぢゃない字余りは王朝和歌の伝統から外れてるってことみたい。
もうひとつ、藤原伊尹の歌の章で、「――ものは」と題を置いてそれに答えをつける形式の解説があるんだけど。
>これは助詞ハが日本語において占める重要性と密接な関係があらう。ハは提題の助詞と呼ばれ(主格の助詞とする説もあるが違ふ)、その承ける語を話題として示し、下にそれについての答、解決、説明を求める。(下巻p.185)
という日本語講座があって、これには目からうろこ落ちた。
ハとガの違いで、ハのほうがちょっと広くてガのほうが限定的みたいな漠然とした主格についての考え方は聞いたことあるような気がするけど、ちがうんだ、ハは提題だから、その下に答えが来るんだ、と改めて認識した、なるほど。
ちなみに、ここんとこでとりあげられてる「つらかりし君にまさりて憂きものはおのが命の長きなりけり」って歌は、一読したなかではいちばん気に入った歌かもしれない。
むずかしいかと思って敬遠せずに(おそかったけど)読んでよかった、教養の書。

どうでもいいけど、こないだ読んだ『江戸小話傑作集』のなかに、原題「居酒」って平忠度が出てくる話があって。
一の谷の戦いに敗れて逃げていく忠度が、酒屋があったので、ぐっと飲んで「コレ亭主、薩摩守とつけて置け」と言って駈け出してくと、亭主が「さてはたゞのみ卿にてましますか、されどたゞのみ卿ともつけ難し」なんて言って、「呑み人しらず」と記した。
ってーのなんだけど、素養がないとわかんないよね、ハイブローだなー、天明二年の『語満在』所収の小話。
丸谷才一の書くものは好きだけど、和歌にはとくに興味あるわけでもないしなーと迷いつつ買って、最近になって読んでみた。中古の文庫買ったの去年の7月だ。
そしたら、おもしろい、っていうか勉強になる。
まず、この詞華集をつくったスタンスが、すごい。
>そこで「百人一首」という形で日本文学史を書いたわけです。言ってみれば、日本文学史のエッセンスのサンプル集だな(笑)。(上巻p.503)
>そう、これは子規の『歌よみに与ふる書』と張り合うための本なんです。(下巻p.389)
と、あとがき代わりの巻末対談で語っている。
あと、いいのは、決まりきった形ぢゃなくて、それぞれの長さがてんでバラバラなこと。なんでも一首について見開き2ページ以内で解説つけて並べてけばいいってもんぢゃないと。
ちなみに書名が『新々百人一首』なのは、藤原定家の向こうをはって「新百人一首」にしようかと思ったんだけど、源義尚(九代将軍足利義尚)の撰による同名の書があるので、“新々”にしたんだそうだ。
もちろん、『小倉百人一首』と『新百人一首』に入ってる歌とはかぶらないように、本書は歌を選んでる。
で、こういう撰集をつくるときには、ただ一定数をピックアップするんぢゃなくて、その並びとかも大事だという伝統を守ってる。
>(略)勅撰集といふアンソロジーを一つづきの絵巻物として受取る態度が失はれ、一首一首が孤立した形でしか鑑賞されない現状(略)
を憂えているわけだ。
言われて例をあげられてみれば、巻頭や最後に位置する歌の偉大さや、同じ季節のなかでも順に移り変わっていくように配置されている歌の並びは、たしかに重要だ。
それどころか、場合によってはメイン編集者である撰者は、自分で詠んだ歌を読み人知らずとして、しかるべきとこに配置して、一巻の完成度を高めるってワザを使い、
>(略)二十一代集全般にわたる編纂の奥の手だつたのではないか、勅撰集の華麗と端正とは一つにはこのことに由来するのではないかとわたしには思はれてならない。(上巻p.138)
なんて推定している。
似たようなことでは、ほんとにその作者がつくったか定かでないものもあるが、そこはその名前と歌の内容が適切であればいいものらしい。
そのへんのとこ、ふるい時代の歌人ってのは、個人の作者ぢゃなくて共同体の代表みたいな存在だったってことのようだ。
あとは、誰の作品でどうこうというよりも、歌のもつ呪術性のようなもののほうが重要だってことで、歌の呪術性については、いろいろ説かれている。
>王朝貴族が見わたすのは単なる風景の鑑賞ではなく、その底には国見や国ほめに通じる宗教行事性、国土の祝福があるからだ。(上巻p.39)
とかね、天皇が歌を詠むことによって、動植物とか国土の繁栄につながるわけだ。
で、このあたり、恋がからんでくると、当然のようにますます話がおもしろくなってくる。
>かういふ具合に、王朝の恋に和歌がつきものなのは、一つには当時の貴族生活が美的情趣をこの上なく重んじたゆゑである。が、もつと根本的には、恋とは相手の魂に呪術をかけることだといふ古代的な恋愛観の名残のゆゑである。すなわち恋歌とは呪文の一種にほかならなかつた。(下巻p.174)
とかって具合。いいねえ、ふるき日本人。
ほかにも恋愛観については、
>これは大野晋に教へられたことだが、古代人は恋愛を、楽しいものとしてではなく、苦しいものとして把握してゐた。それゆゑ、その苦しさ、切なさから、何とかしてのがれることができたらいいのにと夢想した。かういふ恋愛観は長くつづいて、王朝のころにもなほ支配的であつた。王朝和歌に恋の喜びを主題にしたものがすくなく、恋の哀しみだげがくりかへし嘆かれてゐるのは、われわれ現代人の眼から見るとすこぶる奇異な感じだが、彼らにとつては当然のことだつたのである。(下巻p.81)
なんて解説がある。
そういうのって、もしかして、日本の昔話がグリムとかに比べて男女の結婚で終わってめでたしめでたしとなるのが少ないのとかとも関係あんのかな、って想像してしまう。
ちなみに、秋(旧暦の七月からだよね)ってのは恋の季節であるってことは、いろんな歌のところで触れられていて
>(略)秋が悲しいのは(略)本来、秋は恋の季節なのにしかしその恋が成就しないため、と思ふことにしたらしい。それが王朝文化の約束事だつた。(上巻p.352-353)
と解説してくれている、そうなんだよ、そういうこと個々の歌の意味の前に教えてくれれば国語の授業も楽しいだろうに。
あと、恋愛関係において、いろんな場面で歌を詠むことになるんだが、
>しかし王朝の人々の考へ方は違ふ。女は才智の限りを盡して気のきいたことを言ふときに最も美しい。(上巻p.241)
なんて女性に求められる、語りかけられたことに歌でスッと返す才能についても説かれている。
その他、歴史と文学との関係性について勉強になったのは、
>『新古今』時代の歌人たちに望帝=崇徳院といふ神話的イメージは、むしろ、彼らの心の底にある、宮廷生活を失ふことへの恐れとその悲劇性への憧れとの、最もドラマチックな色調での複合であつた。(略)
>当時の歌人たちが、古代的世界の終焉といふ一種終末論的な不安と陶酔にひたると同時に、宮廷の栄華と草庵の閑寂(その極致が配所である)とを二つながら味はいたいといふ人生美学に憑かれてゐたとすれば(略)(上巻p.58-59)
なんてところ。人生観、価値観っていうか、美意識みたいなの、作品の字面だけではさすがにわかんないものねえ。
崇徳院については、後白河上皇がなぜ自分では和歌はそんなに好きでもないのに、よりによって戦乱の世に、千載集なんて勅撰歌集をつくったのかという謎に対して、崇徳院の怨霊をなだめるためだなんて、大胆な説も披露されている。
どうでもいいけど、崇徳院って歌の天才だったっていうのは、あんまり知らなかったんで、本書の解説には感心してしまったものがある。
あと、和歌という文芸においては、教養として昔の歌とか他のひとの優れた歌を知ってて、そのうえで本歌どりをするというのが重要らしいが、そのへんもたーくさん参考となる歌を並べてくれていて、抽斗が豊か。
>そして、王朝和歌の基本的な技法の一つである本歌どりとは、単なる模倣では決してなく、継承であり、展開であり、唱和であり、それゆゑ一つの批評のあり方なのだから(略)(下巻p.136)
ということなんだそうだが、歌全体ぢゃなく、使われてる言葉ひとつにも、やっぱ伝統によって築かれてるものが大きいんで、
>(略)ここでわたしは王朝文学史における、第五句に「たまらず」を据ゑる和歌の一系列をたどらなければならない。順徳院の余花の詠は孤立してあるものではなく、その長い伝統のなかに位置を占め、歴史から養分を摂つてゐるゆゑこれほどの完成に到達することができた。(上巻p.202)
って調子なんだが、ぢゃあいい歌詠もうとしたら、どんだけ勉強しなきゃいけないんだってちょっと絶望的な気分にならなくもない。
ほか、文法のようなもんで、知らなかった決まりごと、字余りってのはよくあるようだけど、「字余りの句にはアイウオを含む」っていう本居宣長の発見した法則があって、そうぢゃない字余りは王朝和歌の伝統から外れてるってことみたい。
もうひとつ、藤原伊尹の歌の章で、「――ものは」と題を置いてそれに答えをつける形式の解説があるんだけど。
>これは助詞ハが日本語において占める重要性と密接な関係があらう。ハは提題の助詞と呼ばれ(主格の助詞とする説もあるが違ふ)、その承ける語を話題として示し、下にそれについての答、解決、説明を求める。(下巻p.185)
という日本語講座があって、これには目からうろこ落ちた。
ハとガの違いで、ハのほうがちょっと広くてガのほうが限定的みたいな漠然とした主格についての考え方は聞いたことあるような気がするけど、ちがうんだ、ハは提題だから、その下に答えが来るんだ、と改めて認識した、なるほど。
ちなみに、ここんとこでとりあげられてる「つらかりし君にまさりて憂きものはおのが命の長きなりけり」って歌は、一読したなかではいちばん気に入った歌かもしれない。
むずかしいかと思って敬遠せずに(おそかったけど)読んでよかった、教養の書。

どうでもいいけど、こないだ読んだ『江戸小話傑作集』のなかに、原題「居酒」って平忠度が出てくる話があって。
一の谷の戦いに敗れて逃げていく忠度が、酒屋があったので、ぐっと飲んで「コレ亭主、薩摩守とつけて置け」と言って駈け出してくと、亭主が「さてはたゞのみ卿にてましますか、されどたゞのみ卿ともつけ難し」なんて言って、「呑み人しらず」と記した。
ってーのなんだけど、素養がないとわかんないよね、ハイブローだなー、天明二年の『語満在』所収の小話。