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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

文学ときどき酒 丸谷才一対談集

2021-01-16 18:05:35 | 丸谷才一

丸谷才一 2011年 中公文庫版
これは2019年4月に地元の古本屋で買ったもので、不幸なことに長い間読まずに放っておかれたもの。
もっとも単行本は一九八五年刊行だっていうんで、遠い昭和の話だ、5年くらい読むのが遅れたって何でもないような気もしないでもない。
おさめられている対談の初出はいろいろ雑誌だけど、古いのは昭和47年、新しくても昭和58年だしねえ。
対談集っておもしろいんだが、丸谷さん本人が本書のなかで、
>最近の本ではシンポジウムというのがはやってまして、序文に、われわれ三人があるホテルに籠って、じつに三日間の長きにわたって討論した内容がこの本であると書いてあるのですね。三日間の長きにわたってといえば、当人は長いと思ったかもしれないが、一冊の本が三日でできるわけじゃありませんか。おかしいですよ。(略)
>シンポジウム形式、対話形式の本というのは一切書評しないのが正しいだろうとかねがね思っているのですけど。(p.43)
なんて言って、手っ取り早く本をつくるために、しゃべりとばしたものを文字にしただけってのはいかがなものかと。
そんなこと言ってる対談は、本をつくろうとしてんぢゃなくて、雑誌の一コーナーの企画であるからいいんだろうが。
ちなみに雑誌ってものについて、昭和47年時点での話ではあるが、丸谷さんは、
>そういう、本と雑誌の関係が、日本ではいままで逆転していましたね。雑誌が一番立派なもので、本はその次に来る何かもっと低いものという具合だった。(略)
>本と雑誌が両方あって、雑誌が本に勢いをつける、刺戟を与えるようになるのが非常に望ましいと、ぼくは考えているんですよ。(p.12)
なんて言っていて、雑誌第一とする出版事情がおかしかったといい、文芸雑誌はもっと批評を載せるようになるべきと言っている。
おもしろいのは、その対談相手の吉田健一の意見で、
>そうよ。話はちょっと高級になるけど、ご馳走ってものがあるでしょう。本式に食べるとなると大変なもので、西洋なら、前菜に始まり、コーヒー、コニャックまでいく。それじゃ大変だから、前菜とスープだけの店はないものかと思うんだよ。これは実に気の利いた店でしょう。雑誌って本来そういうものじゃないかしら。(p.13)
っていうんだが、さすが食通だ、そういう例えでくるか。
吉田健一のことについては別の対談でとりあげてるけど、年をとってからは食べなくなったそうで、金沢に行ったときの話として、
>吉田さんはあれだけ召し上らないくせに、目の前には料理がたくさん並んでないといけないんですね。
>(略)招待側が金沢中の料理屋に、東京から美食家の偉い先生がお見えになるからと言って、お二人を案内した。ところが、飲んでばかりいて、ちっとも食べない。(略)困ってしまって、どうぞ箸をおつけ下さいとお願いすると、二人で叱るんだそうです。しかし何しろ料理屋の女将に言った手前もあるから、無理にまた催促したら、吉田さんが「料理の味は目で見ればわかります」(笑)。ぼくは中島敦の『名人伝』を思い出しましたね。弓の名人が修業を積んで、とうとう飛んでいる鳥を目で見るだけで落としてしまったという、あの境地に達している(笑)。(p.132-133)
なんてエピソードがあって、妙におかしいったらない。
酒といえば、最後の最後にあとがきのとこで本書のタイトルに触れ、
>『文学ときどき酒』といふ題なのに、どこでどういふ具合に酒を飲んでゐるかを示してゐないのは心残りだが、(笑)と書くのと同じ呼吸で(酒)と途中に入れるのはやはりをかしいだらう。第一、吉田健一さんの場合なんか、とてもその煩に堪へないのである。
って、また吉田健一さんを担ぎ出しているんだが、それにしても対談を活字にしたとき「(酒)」は、あってもいいような気がしてくる。
読んだなかでは、毎度おなじみのとおり源氏物語とか王朝和歌について語られてるものもいいんだけど、丸谷さんが自身の小説について言ってる一節がとても気になった。
『たった一人の反乱』が、意外なことが絶えず起きておもしろいとホメられたところで、
>ああいう小説は、自分では非常に論じにくい小説で、というのは、実用性が非常にないのですね、あの小説は。日本の文壇で最も受け入れられない小説ですね。あの小説読んだからどうだということはべつに何にもないわけですから。そういう実用性の乏しさというものが退けられてきたのが日本文学の明治以後の伝統ですね。明治以前の日本文学というものは、もちろん実用性というものを非常に排除して、(略)夏炉冬扇のごとしというのが文学の理想だったわけでしょう。ところが明治以後の文学は、夏の冷房装置、冬のセントラル・ヒーティングのごときものになってきてるでしょう。私はそういう実用性をなるべく排除した形の小説を書きたい。(p.24-25)
なんて言ってる、これまた昭和47年での話だが、そういう意見表明はちょっとめずらしいんぢゃないかと思った。
コンテンツは以下のとおり。
読むこと書くこと 吉田健一
小説のなかのユーモア 河盛好蔵
本と現実 石川淳
倚松庵日常 谷崎松子
いろんなことをするから人生 里見弴
吉田健一の生き方 河上徹太郎
『源氏物語』を読む 円地文子
花・ほととぎす・月・紅葉・雪 大岡信
エズラ・バウンドの復権 篠田一士、ドナルド・キーン
ジョイス・言葉・現代文学 清水徹、高橋康也

コメント
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