丸谷才一 2002年 文春文庫版
これ中古の文庫本買ったの、おととしの7月だった、読んだの最近。
とっくに読めばよかった、と後悔するほど良い本だった、とっくにというのはこの一年二年ぢゃなくて、もっと若いとき、できたら学校通ってたころに読みたかったもんだ。
(とはいえ、初出が「本の話」平成10年からの連載で、単行本が平成11年、冷静にみれば私が学生んときには読もうとしてもなかったんだから言ってもしかたない。)
なんでそう思うかというと、巻末の鹿島茂氏の解説で、「論文指導にこれほど役に立つ本もない」と断言されてる内容だからだ、私もそう思った。
しかも論文の書き方の作法やテクニックなんかぢゃなくて、「何を書いたらいいか、いやどう考えたらいいかさえわからない学生にとって」役に立つような、名著だから。
しかもタイトルからして難しそうな気がしてずっと開かずにいたんだけど、インタビューにこたえる形式の、読むだけだったらとてもやさしいとっつきの本だった。
なかなか常人には思いつかないような発想をすることについて問われた丸谷さんは、
>(略)正しくて、おもしろくて、そして新しいことを、上手に言う、それが文筆家の務めではないか。(p.12)
と言い、そんな完璧にできなくても、せめて新しいことを言うべきで、「遊び心」を大切にしているとも言い、
>(略)大真面目ではないかもしれませんが、しかし多少は頷けて、納得できる節もある、そう言えないことはないなあくらいの説得力はあって、しかもおもしろいというのを心がける。
>これをうんと極端にやったのが、僕の戯文的随筆になるわけです。(p.13)
という、そうだ、それが随筆のおもしろいわけだ、と当人に解説されて心強く膝を打ってしまった。
どうしてそういう傾向の性格になったかについては、幼少期からの疑問や環境にあったのではと語るところから始まるんだけど。
>どうやら日本の小説というものは、ただいやなことを書く、読んでいて不愉快になることを書くということが大事なことらしい。読者に対して嫌がらせをするように書けば、文学的だということになるらしい、と。(p.18)
とか、
>そういうどんより澱んだ、保守的な街に育ったもんだから、僕は、自由にものを考えるということにたいへん憧れたわけですね。それやこれや、いろいろなことが重なって、新しいことを考える人間に対する敬愛の念を強く抱くようになりました。(p.33)
とか言ってる。
ほかの評論なんかでもよく言及してる近代以降の日本文学への不満については、山崎正和氏の『不機嫌の時代』を読んで、だいぶ謎が解かれたという。
>(略)明治四十年代、日露戦争の後で、日本の知識人たちの多くが、方向を失い不機嫌な状態に陥った。五十代の森鷗外も、四十代の夏目漱石も、三十代の永井荷風も、二十代の志賀直哉も、みんな不機嫌だった。そこから近代日本文学は始まった、そういう議論ですね。(p.93)
というわけで日本の小説はじめじめしてい暗いんだとわかった、不機嫌ぢゃないと軽薄で文学的ぢゃないってことになってしまったと。
日本の評論についても、たとえばフランスの作家のジイドからサルトルまでって例にあげて、
>しかし、彼らの小説がおもしろいのは、決して彼らの政治的関心のせいではない。小説が小説そのものとしておもしろいからでしょう。ところが日本の文藝評論家および翻訳者たちは、彼らの政治思想を論じることだけに夢中になって、肝心の小説の地肌の良さとか、書き方の面白さといったことは何も言わなかった。これは実に幼稚で野蛮な態度ですね。(p.49)
って批判する。
いまの日本の文明については、吉田秀和氏に「レトリックを捨てた文明」と教わったという。
>(略)かつては日本にもレトリックというものがあったのに、明治維新でそれを捨て去ってしまった。なにしろ江戸後期はレトリックの飽和状態みたいなものだから、明治の人は江戸のレトリックを捨てたくて仕方がなかった。(略)
>レトリックの欠如。(略)これで行くと、われわれの文明の性格がたいへんよくわかるし、それからさらに現代生活の問題点が実によく心に迫る。(p.53-55)
というと高尚な議論っぽいんだけど、たとえに出してくるのが、喫茶店に「白玉クリームあんみつ」ってメニューがあるが、昔の日本人だったら比喩的に「夏の月」みたいな名前をつけたはず、ただ中身の名前を羅列して散文的な写実性で説明するのが現代日本文化だ、みたいな話なので、おもしろくてわかりやすい。
そんな思想系の前半にくらべて、後半は具体的に本の読み方とか考え方とか文章の書き方の話になってくる。
丸谷さんの本の読み方は、すごくて、
>僕は本をフェティシズムの対象にするつもりはまったくない。大事なのはテクストそれ自体であって、本ではないと思っているんです。(略)だから、平気で本に書き込みするし、破る、一冊の本を読みやすいようにバラバラにする(笑)。(p.163)
ということで、ホントにバラバラにしちゃうらしい、評論を書いてるときに引用するときは書き写すんぢゃなくて破ったページを張り付けたりまでするらしい。
そんな読書スタイルだけの話だったら参考にならないかもしれないけど、大事なのは本読むことだけぢゃなくて、ちゃんと考えることの重要性を説いてるところは傾聴に値する。
>きょうは暇だから本を読もうというのは、あれは間違いです。きょう暇だったら、のんびりと考えなくちゃあ。考えれば何かの方向が出てくる。何かの方向が出てきたら、それにしたがってまた読めばいい。(p.138)
とか、
>とにかく、自分で考えることもしないで、「何か本はないか」――これがよくなかった。
>何かに逢着したとき、大事なのは、まず頭を動かすこと。ある程度の時間をかけて自分一人でじーっと考える。考えるに当って必要な本は、それまでにかなり読んでるはずです。(略)
>まず、じーっと考えて、ある程度見通しをつけた上で、そこで本を読めばいい。(略)
>ですから、大事なのは本を読むことではなく、考えること。まず考えれば、何を読めばいいかだってわかるんです。(p.176-177)
という調子。
文章の書き方についても、具体的で、
>ものを書くときには、頭の中でセンテンスの最初から最後のマルのところまでつくれ。つくり終ってから、それを一気に書け。それから次のセンテンスにかかれ。それを続けて行け。そうすれば早いし、いい文章ができる(p.229)
というのは、ある若い記者に文章心得を問われたときの答えだそうで、センテンス途中で止まって、考えたり迷ったりして、また書き出すというのはダメだという。
ほかにも、
>趣味の問題からもしれないけれど、僕はむしろ「対話的な気持で書く」というのが書き方のコツだと思う。自分の内部に甲乙二人がいて、その両者がいろんなことを語りあう。ああでもない、こうでもないと議論をして、考えを深めたり新しい発見をしたりする。(略)
>ここで注意。僕は対話体で書けといっているんじゃないんですよ。話は自分の頭の中でやるのであって、文章はあくまで普通に書く。(p.250-252)
という心構えを説いている、自分の言いたいことをひたむきに述べるだけではうまくいかない、反論があったり同意があったりの対話的な構造を持ってたほうがいいという、なるほど。
>文章で一番大事なことは何か? それは最後まで読ませるということです。(p.258)
ということを強調して、そのためにどうすればいいかを、書き出し、半ば、結びのそれぞれのコツについて解説して、
>書き出しに挨拶を書くな。書き始めたら、前へむかって着実に進め。中身が足りなかったら、考え直せ。そして、パッと終れ。(p.264)
という具合にまとめてるところは秀逸。
この本は遅まきながら今後何度でも読み返すことになるにちがいない。
コンテンツは以下のとおり。
レッスン1 思考の型の形成史
丸谷少年が悩んだ二つの謎/
読んではいけない本を乱読する/
わが鶴岡――ただしお国自慢にあらず/
俗説を覆す言論に喝采/
「白玉クリームあんみつ」を排す
レッスン2 私の考え方を励ましてくれた三人
その前に、吉田さんのことを少し/
中村真一郎――文学は相撲ではない/
津田左右吉に逆らって/
ジョイスとバフチンの密かな関係/
山崎正和さんが解いてくれた年来の謎
レッスン3 思考の準備
考えるためには本を読め/
本をどう選ぶか/
言葉と格闘しよう/
ホーム・グラウンドを持とう/
七月六日をうたった俳句と短歌の名作は?
レッスン4 本を読むコツ
僕の読書テクニック/
本はバラバラに破って読め/
マヨネーズと索引の関係――インデックス・リーディングということ/
人物表、年表を作ろう
レッスン5 考えるコツ
「謎」を育てよう/
定説に遠慮するな/
慌てて本を読むべからず/
比較と分析で行こう/
仮説は大胆不敵に/
考えることには詩がある/
大局観が大事
レッスン6 書き方のコツ
文章は頭の中で完成させよう/
日本語の特性とは/
敬語が伝達の邪魔になるとき/
レトリックの大切さ/
書き出しから結びまで/
言うべきことを持って書こう