丸谷才一 平成元年 新潮文庫版
著者の決定版国語読本であるはずの、『完本 日本語のために』という文庫本を読んだら、二冊を合本したはずが「頁数の都合上」収録されてなかった項目があったんで、もとの『日本語のために』を読んだらおもしろかったんで、もうひとつの本書も読んでみたくて古本を買い求めた。
単行本は昭和61年だというけど、日本語を考える状況ってのは現在も変わってないとは思う。
本書あとがきには、
>日本語論はいま全国民的関心の対象になつてゐます。(略)なぜさうなつたかといふと、一方には社会の激変によつてもたらされた、どうも現在のままの日本語ではうまくゆかないといふ反省があつた。標準語は果してどれだけ、論理と情感を伝へることができるのか。片仮名ことば、ローマ字ことばの氾濫ははふつて置いていいのか。(略)
>そして他方には、これももちろん社会の変動に促されて生じたものですが、一体われわれはどこから来てどこへゆくのだらう、日本人の根拠は何なのかといふ不安があつた。つまりアイデンティティ(自分は何であつて何に属してゐるか)の問題ですが、このとき手がかりになるのはまづ日本語である。国語はその民族その文明の記憶を入れてある仄暗い倉庫ですから、かういふ疑問が生じたとき、最上の資料になるのはわれわれの言葉なのです。(p.265-266)
ってあるけど、つまりそういう問題意識。
さて、私が読みたかったのは「日本語へらず口」という章なんだが、たとえば「――させていただく」という言い回しが厭だという。
そも歴史ひもとくと、「させていただく」ってのは上方の言葉で、浄土真宗の教義から出たという。
浄土真宗ではわれわれはすべて阿弥陀如来によって生かしていただいてるって他力の考え方があり、なにごともそのおかげに感謝してるから、そういう言葉づかいをするんだが、それが近江商人によって各地に広がってったらしい。
それがいまでは語法だけになって、「本日は○○のためお休みさせていただきます」みたいに使うのは、別に阿弥陀如来のおかげで休むんぢゃなくて、
>はつきり言へば誰のおかげでもない。普通この言ひ方は、
>「あなたの許可を事後承諾的に得て、休みにします」
>といふ気持ちだらう。そしてその事後承諾のづうづうしさと妙に丁寧な言ひまはしとが慇懃無礼な感じになつて、不快なのだらう。(p.177)
って指摘する。
「させていただく」を使うことによって、相手に恩を売るんぢゃなくて、恩を感じてるのはこっちですと言いたいんだろうが、
>口さきだけで恩の売り買ひのまねごとをしてゐるわけだ。その偽善性は癇にさはるものだし、(略)
>それにあの謙譲語法は長つたらしくていけない。あの七音の、長い長いへり下り方をたくさん使はれると、相手と自分との恩のやりとりを測るのに忙しくなつて、話の中身のほうはついおろそかになる。(p.182-183)
みたいに説明されると、なるほどと思う、言葉は丁寧そうにみえて実は一歩も譲る気ないって感じの態度が裏にはあるよね。
別の章では漢語と和語について論じてるけど、明治以後、プラスのイメージには漢語を使い、マイナスイメージには和語を用いがちな言語風土ができてきたという。
さらに西洋語がはいってくると、いちばん格の高いのが片仮名の西洋語で、次が漢語、いちばん下が和語という具合になってきたという。
>この三種類の言葉にによる三段階の格式は、現代日本語の大問題である。いつぞや国語学の大野晋さんが、片仮名で「アイディア」と言へばいかにも内容のあることをきちんと考へたやうだし、漢語で「着想」と言へばそれに次ぐくらゐの貫禄なのに、和語で「思ひつき」と言ふとひどく詰まらぬことを軽薄に思つただけのやうに聞えると指摘してゐたが、まさしくその通り。(p.186-187)
なんて教えてくれるのは、とてもおもしろい。
違う章に移っても、
>片仮名ことばを大幅に採用して、日本語を豊かにするなんてことは、痴人の夢にすぎない。(p.201)
とかなかなか厳しい。
ちなみに、明治初期に始まった鉄道と郵便を比較して、鉄道系には「乗車券」とか「運賃」とか「線路」とか漢語系が多いのに対して、郵便用語は「葉書」とか「小包」とか「為替」とか和語系が多いのは、郵便の父たる前島密の言語観が反映されているらしい。
前島密は明治初年には漢字廃止論を提案したことあるらしいが、江戸以前からの耳慣れたことばを郵便制度には採用することにしたという、「印紙」案を却下して、耳慣れた「切手」を押し通したなんてのは、ちょっとトリビア。
本書のコンテンツは以下のとおり。
I 国語教科書を読む
1 分ち書きはやめよう
2 漢字配当表は廃止しよう
3 完全な五十音図を教へよう
4 読書感想文は書かせるな
5 ローマ字よりも漢字を
6 漢語は使ひ過ぎないやうに
7 名文を読ませよう
8 子供に詩を作らせるな
9 古典を読ませよう
10 話し上手、聞き上手を育てよう
11 正しい語感を育てよう
II 言葉と文字と精神と
III 日本語へらず口
させていただく
字音語考
郵便語と鉄道語
巨人の腹
IV 大学入試問題を批判する
慶応大学法学部は試験をやり直せ
小林秀雄の文章は出題するな
附録1 歴史的仮名づかひの手引き
附録2 和語と字音語の見分け方
わたしの表記法について