ジョン・ファウルズ/小笠原豊樹=訳 1972年 河出書房新社:I・II全2巻(今日の海外小説シリーズ24・25)
原題「THE MAGUS」は1965年の作品。
二年前に『快楽としての読書海外篇』で書評読んだのがきっかけだった。
丸谷才一いわく、
>読みだしたらやめられないといふのは、本来、小説の基本的な条件のはずなのに、現代小説ではむしろ場ちがひな性格になつてしまつた。今は、あくびを噛み殺しながら読む小説本が尊敬される時代なのである。しかしここに一つ、現代文学ではきはめて例外的な、読みだしたらやめられない長篇小説がある。『魔術師』(三部構成)を第一部だけ、ないし第二部だけでよすのは、たいていの読者に不可能なことだらう。読者はどうしても大団円まで、文字通り「巻を置くあたはざる」思ひでページをくりつづけるに相違ない。(p.173「大団円のある世界」)
(※この書評の初出は、「週刊朝日」1972年4月21日号で、単行本『遊び時間3』=文庫版『ウナギと山芋』所収。)
ってことだから、どうして自分はそんな小説をタイトルさえも知らなかったんだろう、なんとしてでも読まなくてはと思うことになった。
なかなか見つけらんなくて、ようやく買い求めることができたのは今年3月のことだった。「日本の古本屋」さんにはお世話になっています。
ほんとは文庫版が欲しかったんだけどね、まあ、いいや大きい本でも、しかし置く場所無い問題は深刻化する一方だけど。
で、全2巻上下二段組で320ページ程度、読むにはけっこうエネルギーいるなと思ったこともあって、しばらくは手に入れたから安心状態で放置してたんだけど、最近やっと読んだ。
しかし、うーん、そーんなに言うほどおもしろいかな、ってのが一読した正直な感想だ、すくなくとも私は、ふだん小説など読まない知人に読んでごらんとか薦める自信はない。
たしかに次へ次へと読み進めさせられる力は感じたけど、私は、きょうはここまで、続きはまた明日、みたいに冷静に読めてしまった。
ちなみに、三部構成とはいっても、第一部と第三部は短くて、第二部が延々と長いよ。
物語の時代は1953年ころかな、主人公ニコラス・アーフェは1927年生まれのイギリス人、中産階級の一人息子で、兵役が二年あったのちにオックスフォードに入学、在学中に両親を飛行機事故で亡くす。
財産があるわけでもなく、特にやりたいこともなさそうで、職を探した結果、ギリシャの島の寄宿学校の英語教師になる。
そこへ出かけてくちょっと前に、アリスンっていうオーストラリア娘と出会って恋仲になる、このスチュワーデスとは別れてそれっきりってわけでもなく、物語の最後までかかわってくる。
それでギリシャのフラクソス島へ行くと、イギリスとギリシャの混血らしい大金持ちのコンヒスという孤独な老人に招かれる。
このひとが魔術師ってことになるんだけど、大がかりな舞台装置つくって、たとえばイギリス人の双子の女性を雇って使ったりして主人公を誘惑させたりとか、なんか自身の半生を再現するような芝居を実演して、現実と非現実の境に主人公を追い詰めるようなことを延々とするのだ。
なんで、そんなことするんだ、ってのが、よくわからない、丸谷さんの評によれば「一切のイギリス中流上層的なものへの復讐かもしれない」ってことなんだけど、たしかに主人公アーフェだけぢゃなく、歴代のイギリス人教師はなんらかの同じようないたずらを仕掛けられてきたらしい。
丸谷さんの評をさらに引くと、この島でのなぶられた経験によって主人公は「無関心とシニシズムといふ悪から脱出して、一種の実存主義的な自由を手に入れる」ことになって、作者は「ロマン主義小説の富をふんだんに盗みながら、新しい哲学小説を書かうと試みた」んだっていう。
>孤児である青年、ギリシアの島の風光、世間と絶縁した邸、双生児の姉妹、対独協力者であるモンテ・クリスト伯、仮面、陰謀、裏切り、偽造された手紙のかずかず、われわれはドンデン返しに次ぐドンデン返しにあきれ、これだけ絶妙の技法で魅惑してくれた以上、哲学がその小説技巧よりいささか落ちても問題にすることはないと満足するであらう。(丸谷才一前出「大団円のある世界」)
って、いわれちゃうと、「今の句に関しては、作品より批評の方がうますぎたね。もどかしい句だ」っていう『俳句という遊び』のなかの飯田龍太氏のセリフをなんだか思い出してしまった。
週刊少年ジャンプ編集部 2021年4月 集英社
サブタイトルは「少年ジャンプがどうしても伝えたいマンガの描き方」。
どこで見かけたんだったか、きっかけ忘れたが、気になったんで出たばかりの新しいとこで買った本。
帯とか裏表紙に「マンガ家になりたい人へ」とあるが、なにもマンガ家になろうとは思ってないが。
その裏表紙に、
>週刊少年ジャンプ編集部が「何も知らないところから、マンガを楽しく描いて上手くなる」ための一冊を、本気で作りました。(略)決定版「マンガの描き方」本!!
ってあるように、内容としてはそういうこと。
いままで「ジャンプ」に関する本って、なんか昔のこと振り返るようなものばっか読んできたような気がするから、現在の最新の状況はどうなってんのかなってのも、ちょっと気になったとこではあったし。
体裁としては、マンガ家志望の15歳男子高校生が持ち込みにきて、そこで編集部のひとが疑問にこたえたりアドバイスしたりという形をとってんだが、いちいち強調したいことが太字にしてあるとこ妙に多いのがマンガっぽいといえなくもない。
あと、やっぱフリガナの多さね、目がちかちかしかねないほどギッシリ振り仮名がある、そういえば、子どものころ漢字が読めるようになったのは「ジャンプ」とかマンガのフリガナのおかげだったかもしれない、と思い出した。
で、登場人物の高校生は「ジャンプ秘伝のマンガの教科書」みたいなものを期待してくるんだけど、「漫画の描き方には唯一絶対の『正解』はない(p.25)」ってさとされる。
どうやったら上手な絵が描けるかってテクニックとかよりなによりも、「好きなものを描く。描けることを描く(p.27)」、「『これが好き!』『これが描きたい!』に勝る武器はない(p.35)」ということが大事だ、って第1章で説くのがメインテーマみたいになってます。
それと、第4章で「物語のピリオドを打てば打つほどマンガはうまくなる(p.115)」として、とにかくたくさん完成させることの重要性を説明してるのも参考になりますね。
第5章、第6章の具体的なツールの使い方なんかよりも、第3章のジャンプ作家アンケートが、すごく興味深い。
「Q1.漫画を描き始めた頃に一番知りたかったことはなんですか?」から、「Q13.読み切り漫画を描く上で、参考にしていたものはありますか?」までの13問に、16人が答えている。これはスゴイ、こんな貴重な資料はないんぢゃないかと思った。
そんなこといって、残念ながら私は最近の「ジャンプ」読んでないから、だれがどんなもの描いているのか具体的イメージないんだけど。
あと、「新人作家さんによく聞かれる質問に答えるコーナー」ってのもおもしろいと思うんだが、それのラストに「この本に書かれていることは、どれくらい守ったほうがいいのでしょうか?」ってのを置いて、「ぶっちゃけ全部無視してもオッケー(p.171)」って書いてる身も蓋もなさがいい。
やっぱ、好きなことを好きなように描け、ってことか。
コンテンツは以下のとおり。
第1章 技術論の前に「描きたいもの」を育てる
第2章 2ページ漫画を描こう
第3章 ジャンプ作家アンケート
第4章 悩んだら「やれるところから、好きなように」に戻ろう
第5章 デジタル作画のコツ――ミウラタダヒロ先生に訊く!
第6章 アナログ作画のための道具選び――四谷啓太郎&田代弓也両先生が語る!
米長邦雄 平成6年1月 日本将棋連盟
きのうのつづき、ということになろうか。
棋書の類はね、読書ってのとはちと違うんで、あまり採りあげないんだが、まあ、たまにはいいかと。このタイミングぢゃないと出すときないしね。
これは2017年の9月の古本まつりで手に入れたものだが。
べつに欲しくて探してたというわけではなく、目についたときは、ほー、こんなのもあったんだ、ぐらいの見つけ方だったんだけど、帯見たら「米長名人の最新刊」とあって、そうか、って衝動買いした。
ってのは、「名人」を名乗っていたのは約一年のあいだだけだったので、悲願達成を祝うファンとしてはその肩書による著書は持ってなきゃならんだろう、と思ったからで。
「まえがき」の一行目にも、ちゃんと「この本は、私が五十歳の史上最年長名人になってから出版した、初の将棋の本である。」って書いてある、ありがたく蔵書に加えずにはいられないってもんだ。
サブタイトルは「さわやか自戦記書きおろし」で、実戦集。
そう、若いときは「さわやか流」と呼ばれたんだけど、いつしか真反対の「泥沼流」と称されるようになると、本人は気に入ってキャッチフレーズにした。
泥沼流を米長名人が自称するのは、強者は泥沼で戦うって信念と合致するからで、要は定跡からは離れたところ、前例とか予備知識とか関係ない、何が正解かわかんないとこで戦えば、強いほうが勝つ、って考えに基づく。
本書でも、
>局面を難しく、選択肢の多い方へと持って行く。難しくなればなる程、力の差が出て、最後は自分が勝つ。この自信があればこその泥沼流である。(p.102「対大山康晴王将」)
と言っていて、似たようなことを、
>選択肢が多ければ多いほどヘボは間違えやすい。局面が複雑に複雑にと広がりを見せていった時にヘボの方が間違える。(p.239「対大山康晴十五世名人」)
とも言ってるし、そっから付随してくることを、
>居飛車不満とされる変化に飛び込んだわけだが、そんなことは私も百も承知だ。とにかく、将棋は力だ。
>うまく行かないだの何だのと言っていることがチャンチャラおかしいわい。この精神、この心意気から新手が生まれて来るのである。また、感動も生ずるのだ。(p.164「対櫛田陽一四段」)
みたいにも言っている。
そう、棋風としては、勢いを重視するようなとこあって、駒が下がるような手をとにかく嫌って、負けてもそんな手は指せないみたいな表現はよくみる。
勢いってだけだと、なんか猪突猛進みたいな感じするが、より専門的には「厚み」って言い表せるものに価値を置いてるのが特徴で、自戦解説では、そこんとこの感覚を説明してくれるのが、おもしろい。
それも細っかい手順とかの理論的な説明ぢゃなくて、勢いと感覚をアピールするから、表現がおもしろくなる。
たとえば、
>我ながら目のさめるような一着である。(p.36「対淡路仁茂五段」)
とか、
>どうだ、この落ち着きは!!(p.94「対中原誠名人」)
とか、
>どうだ、この俺の感覚は!!(p.144「対桐山清澄八段」)
とか、
>見よ。第3図の、このほれぼれするような堅陣を!!(p.220「対大山康晴十五世名人」)
っていうような調子、羽生世代以降の若い棋士は優等生タイプが多くなったんで、なかなかこういうことは言わない気がする。
もっと手の込んだ形だと、
>これが私の第一感であった。この動物的な勘、これこそ私の命である。(p.188「対藤井猛四段」)
とか、
>ヘタをすれば、呼び込みすぎて自滅になりかねない。そこを大丈夫と見切っている、その読みの深さをほめてもらいたい。(p.191「同」)
とか、
>これが秘策であった。私の才能の一端を示した一着で、どうしてこういう手が浮かぶのか、自分でも空恐ろしくなる。(p.198「対屋敷伸之六段」)
などというのもある、これが嫌味ないのが「さわやか流」らしい。
(誤解ないように一応言っとくと、対戦相手について、実力のすごさを紹介したり、才能をたたえたり、指し手を好手とほめたりってことも、いたるところに書いている。)
しかし、一局の締めくくりに、
>(略)しかし、ここは私の卓越した大局観をほめるべきだろう。(p.72「対真部一男八段」)
とか、こともあろうに、
>やっぱり、俺は強い。(p.38「対淡路仁茂五段」)
とまで言っちゃうと、ふだん「勝負の女神に好かれるには、謙虚であることが必要」とか言ってたのと、ずいぶん違っちゃってない、と思わないでもない。
ま、いっか、宿願の名人位についたんだから、ちょっとはハイになってても許されるでしょ。
ただ自画自賛する威張ったものだけぢゃなくて、ほかのおもしろい表現もある。
>玉頭の位、厚み、また玉の堅さが終盤になって大きくものを言うのである。例えるならば、これは貯蓄であって、序盤はインフレにならないように願っている年金生活者のような心構えでいることが大切だ。(p.100「対大山康晴王将」)
とか、
>位取りでじっくり指していても、決め所では一気に力強く行かなければならない。
>女性を口説く時と、将棋を勝ち切るまでのプロセスは、ほとんど同じであると心得られよ。(p.84「対小林健二八段」)
なんてのは絶妙な解説だと思う。
そういうわけで、将棋の参考書というのにとどまらず、ファンとしては読物として十分おもしろい一冊。
田丸昇 2021年3月 国書刊行会
サブタイトルは「評伝 米長邦雄」。
著者は、米長永世棋聖の弟弟子なんだけど、ただの棋士(?)ぢゃなくて、元「将棋世界」編集長だったりするんで、そういうの適任なんではないかと。
なんで今ごろ出版されんだろ、と思って、本人の著書もいろいろ読んだから、いまさらいいかとか、ちと迷った末に、せっかくだからと思い、5月ころに買ったんだったか。
まあ、そういうわけで、たいがいの話の大筋は知っているようなもんだったが。
内弟子時代に師匠の家で女性と同室になったとか、升田三冠王が米長の才能を認めたのは将棋大会の帰りに佐瀬家に寄ったときだったとか、そんな細かいエピソードは初めてのような気もしたが。
1995年に参院選に出るとかってなりかけたときに、夫人が反対したのでやめた、ってのもあまり聞いた記憶ないエピソードだった。
まあ、いつものとおり、出たばっかの本の内容をあまり多く引用したりすんのは、やめとく。
でも、冒頭の章では、米長語録をあげて解説してるけど、これが後続の章のあらすじ紹介みたいな役目になってるんで、忙しいひとはそこだけ読んでみたらどうでしょう。
第一章 米長の折々の名言
第二章 生い立ちと棋士を目指した頃
第三章 「さわやか流」の生き方で盤上盤外に活躍
第四章 奔放なエピソードと著名人との交流
第五章 中原を破って五十歳で悲願の名人位に
第六章 将棋連盟会長として財政再建と普及に尽力
第七章 波乱万丈の人生を終える