山崎正和 2006年 中公文庫版
ふう、これ、やっと読んだ。
中古の文庫を見つけて手に入れたのは、たしか去年の1月だったが、むずかしそうな気がしてずっと放って後回しにしてた。
もともとは丸谷才一の『ゴシップ的日本語論』読んだときに、
>わたしの敬愛する友人である山崎正和さんが最近お出しになつた『社交する人間』といふ本(中央公論新社)があります。読みごたへのあるいい本です。問題点が清新で目を見張るやうな感じです。(『ゴシップ的日本語論』p.61)
ってあったのに目を止めて、その後さがしたものなんだが、まあ近年の私には「読みごたへ」のある本はなじまないのかもしれない。
読んで思ったんだけど、前半戦はあまりおもしろくない、なんか途中で集中力なくなったりした、けど、終盤のほうはおもしろくてどんどん読み進めた。
前半のほうは、ジンメルがどうしたとか、ゲゼルシャフトがどうとか、ホイジンガがどうしたとか、なんか歴史と過去の学説みたいな話並んでるんで、勉強嫌いな私には合わないのかも。
「社交と経済」とか「社交と政治」みたいな話になってくると興味がもてて、おもしろく読めた。
で、それよりも今回とても刺激されたのは、身体運動のリズムの話。
>このリズムの運動のなかからやがて意識が生まれ、標的に向かう矢印型の志向作用が始まって、結果として主体と対象の区別も起こりうることは、容易に想像できるだろう。おそらく最初にあるのは自然な運動状態であり、そこでは微弱な拍節と流れが緩慢なリズムをかたちづくっている。ところが、その自然な運動が何らかのきっかけで躓き、リズムの流れが乱れようとすると、それを維持するためにおのずから拍節が強められる。(略)そしてその能動性の主体となるものを考え、それに名前をつけようとすれば、それは意識としか呼びようがないのは明白ではないだろうか。(p.267-268)
とかって個人の意識とは何ぞやから始まり、
>そしてここまでの観察でわかったことは、文化は人間のある独特の生きかたを内容としているということであった。それは人間が行動を定式化しながら生きる生活、具体的にはリズム化しながら生きる生活を基盤として成立するということであった。(p.271)
って、環境からの刺激に反応するだけの生物としてではなく、リズムつくって能動的に行動することが文化ってもんで、
>流れと拍節がほどよく均衡し、リズムが緊張していれば生活は文化的になり、拍節が弱まってリズムが弛緩すれば、生きかたは自然に埋没する。逆に流れの力が弱まってリズムが硬直し、機械的、図式的な規則に変われば生活は文明化すると考えられる。(p.273)
というように、自然的、文化的、文明的ってのはどういうことかって解説する、こういう考え方は初めて聞いたので、蒙を啓かされた感じがした。
そうやって手を変え品を変え、
>(略)人間が社交を求めるのはたんに楽しみのためでもなく、ましてただ孤独を恐れるからではない。それはむしろ社交が人間の意識を生み、自律的な個人を育てるのと同じ原理によって、いいかえれば個人化とまさに同じ過程のなかから発生していたからである。けだし社交の人間関係が情緒的な密着を嫌い、「付かず離れず」の距離を求めるのは、遠くこのことに起因していたといえるだろう。(p.295)
って、人間は社交する生き物であるみたいなことを繰り返し説いてくれる。
あと、
>しかし同じころこの商品需要の多様化と並行して、早くも注目を惹いていたのが消費動向のより本質的な変化であった。外食や観光からスポーツや生涯学習にわたる、いわゆる「時間消費」の高まりがそれであって、これによって商品消費の市場が侵食されていることが伝えられた。(p.354)
って、支出金額に対して消費しうる時間の量が大きいもののほうが消費者にとって価値が大きいって「時間消費」って概念、あまり自分では考えたことがなくて、これまた刺激的だった。
で、さらに、時間消費のなかで人々がどういうふうに関係を結ぶかについて、あるインターネット上での研究会というか討論の場の例をあげて、
>(略)参加者はそこで互いの「業績」を認めあうことに喜びを覚えていたという。金銭的にはもちろん、現実社会の名誉の点でもまったく無償の集団のなかで、それでも人びとは相互の認知を頼りに絆を結びあう(p.357)
ってあって、本書の単行本は2003年だけど、当時より現在のほうがますますそういう自由な非組織的共同体みたいなもの増えてると思うんで、いよいよ社交の場はネット空間が中心になってんのかなという気がした、人間関係「付かず離れず」だしね。
主な章立ては以下のとおり。
序章 社交への飢餓
第一章 現象としての社交
第二章 社交の社会学
第三章 社交と現代社会論
第四章 社交と遊戯
第五章 「アルス」の終焉
第六章 社交の興亡
第七章 社交と経済
第八章 社交と政治
第九章 社交と文化、文明
第十章 社交と自我
終章 グローバル化と社交社会
E・S・ガードナー/宇野利泰訳 1963年 ハヤカワ・ポケットミステリ版
また古いペリイ・メイスンシリーズのつづきを読んだ、短時間ですらすらいけるのがいい。
原題「THE CASE OF THE MISCHIEVOUS DOLL」は1963年の作品。
メイスンの事務所に来たのは、年は23,4、髪はとび色、眼はうす茶、かなり個性のつよそうな女性。
ドリー・アンブラーと名乗り、用件は自分がほかの誰でもなくドリー・アンブラーだと確認してくれという。
そのためには盲腸の手術痕をお見せするという、指紋とったほうが確実だとメイスンがいうと、それはイヤだという。
何者なのか興味もったメイスンは、事務所から出た彼女を探偵に尾行させる。
尾行者からの報告によると、そのあと空港へ直行して、人の多い新聞売り場の前でピストルを三発発射、婦人休憩室へ逃げ込んで、しばらく後に休憩室から出てきたところを、駆けつけた警察官に身柄を確保された。
ところが、捕まったその女はミネルヴァ・ミンデンと名乗って、ただのいたずらでしたと犯行を認め、保釈金を払って釈放された。
このミネルヴァ・ミンデンというのは、「じゃじゃ馬女相続人」として有名で、相続人なしで亡くなった富豪の財産を、調査で姻戚関係にあると探し当てられたため相続したんだけど、飲酒運転したりスピード違反したりで素行の悪さが多いひと。
すると、ドリーがまたメイスンを訪ねてきて、私は新聞広告の募集に応じて奇妙な仕事を始めていた、指定された服装をまとい、街の通りを歩いてみせるだけで高額収入になる。
気になって、調べてみたら裏にミネルヴァ・ミンデンがいることがわかった、彼女と自分は容姿そっくりで同じ服装だ、きっと彼女の替え玉かなんかに自分はされようとしている、何か罪を着せられるのではないか。
どんな企みかを暴きたくて、空港にミネルヴァが来ているタイミングで、空砲を撃って騒ぎを起こしたが、ミネルヴァはあっさり自分がやったことだと認めて、替え玉がいるとかの騒ぎにしないで乗り切ってしまった。
真相を調査してほしいという彼女の依頼を受けたメイスンは、探偵事務所をつかって調べ始めると、ドリーを採用するちょっと前にミネルヴァがひき逃げ事故を起こしたのではないかという情報をつかむ。
一方で、ドリーはミネルヴァと母のちがう姉妹なんぢゃないかという疑いも浮上、替え玉探してて、あまりにそっくりなのを見つけたら、実は新たな相続人を見つけちゃったとしたら、こんどは財産分与で争うことになるのかも。
そうしてると、ドリーがメイスンに電話してきて、すぐお会いしたいのでウチまで来てくれ、私は見張られててこちらからは行けない、とか頼んでくる。
だいたいシリーズのパターンとして、こういうのに応じてメイスンが出かけてくと死体を見っけちゃうんだが、今回は撃たれたばかりでまだ脈のある男を見つける、でも救急搬送されてるあいだに死んぢゃう、殺人事件発生。
部屋の主であるドリーもいないので、犯人に誘拐されたのではとメイスンは案じる。
警察が到着して一緒に周辺調査すると、ドリーのガレージには車があって、警察によれば盗難車であり、ひき逃げ事件に関係する車両であるという、ドリーは単なる被害者ぢゃなくて、自身なにか犯罪に関わっているというのが警察の見立て。
その後、メイスンがミネルヴァと面会すると、メイスンも間違うくらいドリーと似ていたが、ミネルヴァのいうには、ドリーは自分と親戚関係にあると思い込んでいて、財産の分け前を要求し脅迫まがいのことをしてた、新聞広告の替え玉募集とかいうのはドリーが探偵事務所をやとって作った自作自演だろう、メイスン弁護士もドリーにだまされてるんですよと。
どっちが悪いやつなのかわからない、さすがのメイスンも、
>おれはこれまで、どんな事件がおこっても、いつも自分の意のままにあやつってきた。こんどのように、こっちが事件にあやつられていると思うと、たまらなく口惜しいんだ(p.116)
みたいにアセる、めずらしい、でも事件あやつっちゃだめでしょ、いつも違法すれすれの仕掛けをする弁護士さんたら。
そうこうしてるうちに、ミネルヴァが殺人事件で起訴される、メイスンに弁護を依頼するが、メイスンとしてはドリーとミネルヴァでは利害が対立する関係かもしれないので迷う、しかし結局は、ぢゃあ殺人の件に限りってことで、弁護を引き受ける。
めずらしいね、最初の依頼人が被告ぢゃない裁判にのぞむ展開っていうのは。
かくして、ミネルヴァが「やってない」というのだけを聞いたメイスンは、それで十分だとして、さらに彼女が「わたくし、あなたに告白したいことがあるのです」と、別件を持ち出そうとするのを、それをきくわけにはいかない、
>つまり、被告の権利として、その弁護人にむかって、どんなことでも話すのをゆるされていますが、しかし、あなたが起訴された罪とは無関係の、別個の罪をおかしたことを、ぼくに話すとなると、事情はまたちがったものになってくるのです。
>(略)ほかにも重大な犯罪をおかしていることを知って、その犯罪のために逮捕されないように助言したとなると、ぼく自身、従犯となってしまうのです(p.134)
と自身の立場を説明する、まあ、ここで聞いちゃうと謎解きのお話になんないんだけど。
かくして、いつものとおり絶対不利な状況で裁判は始まるんだが、例によって翌日まで休廷ってなってる間にさらなる調査をして、再開された法廷で満場をあっと言わせる逆転劇を起こす。
(※2022年1月15日追記)
もしかしてタイトルの「人形・doll」って、ヒロインの名前がドリーってのと引っ掛けてる? なんてことが突然あとから気になった。
橋本治 二〇〇四年 集英社新書
このあいだ『「わからない」という方法』を読み返したときに気づいたんだが、私はこっちのほうを先に読んだんではないかと。
これ持ってるのが2004年5月3刷で、あっちは2001年出版だけど私の持ってるの2005年15刷だから、こっち読んでおもしろいと思ったからさかのぼって別の読んでみようと思ったんではないかと。
まあ、いいや、いずれにせよ遠い昔のことだから。
とはいえ、よく思い起こせば、そのころって私も初めての上司って立場になったころだったような、全然たいした仕事はしてなかったけど。
本書読み返したら、「あー、部下の作成したペーパーに、何か筆を入れて、より良くしてあげよう、なんて考えるのは邪魔なだけなんだから極力よそう」なんて、反省したこと思い出したりして。
>この本は別に、「あなたの創造性を高める本」じゃありません。「停滞した日本のサラリーマン社会はなんとかならないのかよ?」を考察する本です。(p.17)
とか、
>しかし、そんな重大な欠陥がなぜ見過ごされているのかというと、これはまた別です。事の最大の理由は、「上司は思いつきでものを言う」が公然と放置されている、サラリーマン社会の構造そのものにあるのです。(p.27)
とかって、最初のほうで言ってるとおり、日本社会のそこんとこどうにかならないのか考えるのがテーマ。
>「会議」とか「議論」ということを考えると、どうしても「前提から始まって結論に至る」というようなもんだと思います。でも、日本の会議は違うんです。「仮の前提から始まって、それを正式の前提として承認することによって終わる」が、日本の会議なんです。
>結論は、既に別のどこかで出されている。あるいは、会議で承認された「前提」を受けて、別のところが改めて、結論を出すのです。
>日本の会議というのは、議論をするところではなくて、承認をするところなんです。(p.59)
だなんて具合に、著者は会社員でもなかったのによく知ってるなーと思う。
もっとも、それについては最後に、会社員である編集者とつきあいがあればそれでわかると種明かししてますが。
ちなみに、上司が思いつきでものを言っちゃう理由はいろいろあるんだけど、ひとつの例として、現状を打破する発展的な提案が蹴られるのは、
>あなたの言うことは、「今まではともかく、これからは――」なんです。あなたは、「これから」という先のことしか考えていません。「今まで」のことなんか、どうでもいいのです。ところが、その話を聞かされる上司達は、「今まで」を生きていて、「これから」がまだよく理解出来ません。(略)
>「今まであんた達が無能だったから、会社はここまで傾いた。だからオレが、あんた達にどうすればいいか教えてやる」――あなたの提案は、上司達の耳にはそう聞こえるのです。(p.39)
みたいな状況から会議は膠着状態になって、なんか突拍子もないこと言い出すことが良いアイデア出してるんぢゃないか的な場をつくっちゃう、みたいなことがあげられている、なんか冷静に言われちゃうと悲しくなるよね。
とかく、この本は日本社会を指摘する名言に満ちてるんだけど、
>会社組織は、たやすく官僚化する、しかし、官僚組織はたやすく会社化しない。官僚組織は、するんだったら、より官僚化する。会社化しようとしてたやすく失敗する(略)(p.135)
とか、
>「しかし」とか「でも」というのは逆説の接続詞ですが、しかし日本語には、これを、「相手の言うことを聞き流して自説を展開するための軽い間投詞の一種」とするような裏マニュアルもあります。(p.35)
とかって、いいなあと思う。
今回ほとんど内容忘れてたぐらい久しぶりに読み返して、気に入ったのが、
>「読み手に分かるような文章を書く」というのは、民主主義下の原則ですが、これを忘れているのだとしたら、「部下であるあなたがバカである可能性」は、十分にあります。(p.162-163)
ってとこ。
なんか近年ね、いわゆるお役所の書いた文言を報道でみる機会が増えたような気がするけど、ふつうに読んでもなかなかわかんないでしょ。
しまいには受け取られ方が自分たちの意図とちがうと、「誤解があるようだが」とか読み手の責任にしようとするし。
あれはやっぱ、自分たちの無謬性の主張もあるが、自分たちだけで通じる論理と言葉づかいで書いてるからで、そもそも国民を読み手と思ってないし、やっぱ内部記録用なんだよね、ひとに説明する種類のものぢゃない。
閑話休題。
初めて読んだときも、現在も、本書を読んでいちばん感銘うけたとこは、
>あなたの目の前には、「思いつきでものを言うだけの上司」がいます。これには、どう対処したらいいでしょう?
>簡単です。あきれればいいのです。「ええーっ?!」と言えばいいのです。途中でイントネーションをぐちゃぐちゃにして、語尾をすっとんきょうに上げて下さい。(p.146-147)
っていう具体的な現実的な簡単な方法を示すとこ。
>そういう「人間的な声」がないから、「下から上へ」がちゃんとある組織であるにもかかわらず、くだらなく官僚的になるのです。(p.149)
ってこと、すごく大事だと思います。
そういやあ、組織内だけぢゃなく、外部からもむちゃくちゃな思いつき言われるのに、そのたびマジメに受け止めて回答してあげようとする組織知ってたけど、「相手にしないで、『ええーっ!?』って言って、笑っちゃえばいーんぢゃないですか」とか言ってたな、俺。
コンテンツは以下のとおり。
第一章 上司は思いつきでものを言う
一 「思いつきでものを言う」を考えるために
二 いよいよ「上司は思いつきでものを言う」
三 「上司」とはなんだ
四 どうして上司は思いつきでものが言えるのか
第二章 会社というもの
一 誰が上司に思いつきでものを言わせるのか
二 上司は故郷に帰れない
三 景気のいい時の会社には、なにも問題がない
第三章 「下から上へ」がない組織
一 景気が悪くなった時、会社の抱える問題は表面化する
二 「下から上へ」がない組織
三 もう少し人間的な声を出すことを考えてもいいんじゃないだろうか
第四章 「上司でなにが悪い」とお思いのあなたへ
一 「上司はえらくて部下はえらくない」というイデオロギー
二 儒教――忘れられた常識
三 「民主主義」という能力主義
四 もう少し「日本的オリジナル」を考えてもいいんじゃないだろうか