不肖コロ健、四六時中病理のことを考えているわけではない。仕事をしている間がほとんどなので、起きている時間の70%ぐらいか。
だから、残りの3割の普段の生活で病気の成り立ちとか、細胞の特性だとかを考えるというようなことはほとんどない。
歩きながら、マクロファージ(白血球の一種)が活性化して肉芽腫(炎症の一つの形)を形成したけど、その活性化の度合いがひどくて、こんなになってしまったのではないか、などということを考えたりしない。
だが、仕事とか、研究とかで、顕微鏡をとおして標本を診ていると、壮大なストーリーが頭の中に浮かぶ。
ウイルス感染がマクロファージの活性化をきたして、肉芽腫形成を引き起こしたわけだけど、これって、サイトカインストームに近い病態だったのではないか。とすると、今のところ沈静化しているけど、別の部にあるという同じような病変も組織学的には同様の所見ではないのだろうか。
なんて、言葉が頭の中にポンポン出てくるし、目の前の細胞たちの戦いにドキドキしてしまう。
普段は、人間関係だの、自分自身のことだの、社会のこと、世界のことだのあれこれ考えているのだが、いざ標本を目の前にすると、人間が変わる。不思議な現象である。ひょっとして、これってトランス状態?
なんだか神がかって、標本の向こうにある病気の本態がほの見える瞬間なのだ。
こんな瞬間を持てるという僥倖を神様に感謝したい。
だがそれも一瞬。マクロファージの救援に精鋭のリンパ球がやってきて、組織は炎症だの壊死だのと、病像は一気に複雑化して(よくわからなくなって)しまい本態は闇の中へと去って行く。
論文を読んでいてもこういうトランス状態になることは滅多にない。他人の考え方が出発点なので、仕方のないことだ。
病理医たるものまずは標本をじっくり診る。何ごとにおいても、病理医はこうあるべきだろう。