
最近、私自身の生活を支配している「家族介護」について、時間を使って考えてみたいと思っています。
六車さんの「介護民俗学」(読んではいませんが)や古瀬先生の「社会介護学」への取り組みを拝見して、「家族介護学」というのはないけれど、私がいま考えられるのは「家族介護」しかないかなと思っています。
せっかく生活の大きな大部分を占めている家族への介護を「体験記」という範疇から外へ踏み出してみられないかとも。
どのようなアプローチができるのか.
いまは思い浮かばないけれど、単に「家族介護の変遷」だけではない、「体験記」だけではない、そんな書き方ができないだろうかと夢想しています。
家族から社会へ。
介護や保育が、家族から社会へ、ウエイトをシフトしていることは実感としてもよくわかります。
一方、生活保護受給問題をみれば、家族や親族扶養を義務としてとらえる考え方が根強いことがわかります。
この場合は金銭に関わることなのでバッシングが激しいように思います。
介護保険制度や後期高齢高齢者医療制度にしても利用者1割負担に批判があるのも事実です。
それは、優遇されすぎているという、これも金銭的な不公平感です。
これらの批判は、大津問題での学校、教育委員会、市へのバッシングとも共通性があります。
時代は、寛容という言葉を忘れたかのように思います。
自らの閉塞感からか、他者への非寛容が目に余るように思います。
他者への優しい眼差しがなければ、社会介護も家族介護も成り立ちません。
特に複雑な問題を抱えた家族介護は、自身の寛容、非寛容という難題を突き付けられます。
やはり、これは試練という言葉を使ってもよいように思います。
そういえば、日本も相当な試練ですね。突然ですが。