岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

「モーターサイクル・ダイアリーズ」の風景

2008-02-03 10:57:59 | 世界のなかま
「昨日が車で今日はモーターサイクルか」といわれるかもしれないが、
「モーターサイクル・ダイアリーズ」は、ご存知のように映画の題名だ。
チェ・ゲバラと彼の友人による1万キロにおよぶ南米大陸の旅を
描いている。
「何でもみてやろう」の南米版といっていい。
(ゲバラについては岩清水日記2007年10月9日でも書きました)

ゲバラはフーセルというニックネームで登場する。
フーセルとは「熱い心」という意味だ。
文字通り熱い心を持った少年だったのだろう。
南米はアルゼンチンで生は受けたフーセルは、ブエノスアイレスで幼少年期を
過ごし、医学生となった。専攻はハンセン病だった。
23歳になった彼は友人とともに南米大陸縦断の旅に出かける。
日本一周などとはスケールや危険性のおいて比較できないほど厳しい旅である。

若者特有の明るさを持った旅はやがて、南米が持つ征服と収奪の歴史を肌で
知ることになる。その中で彼らは、世の不条理に対して、深く考え、
強い志を身に付けるようになる。
さまざまなエピソードが繰り広げられるが、フーセルが旅の目的とした
ペルー・サンパブロにあるハンセン病隔離病棟での話へと映画は進んでいく。

このハンセン病隔離病棟での話は、奄美大島の国立療養所奄美和光園の本を
読んでいる最中ということもあって、とても興味深かった。
時代は1952年である。サンパブロのハンセン病隔離病棟では、
病気に対する認識が遅れており、病棟を看る尼僧たちは最新医学を
学んだフーセルが、素手で患者に接することに驚きと恐れを感じた。

このハンセン病隔離病棟は河の南岸にあり、病院や医師たちの宿舎は
北岸にあった。医師や看護師は、北岸から河を船で渡り、また帰っていた。
同じ場所で寝起きすることはなかった。
「橋のない川」である。
日本でも、岡山・長島愛正園のある島に本州から橋が架かったのは、
1990年代だった。橋は人権の架け橋でもある。

この隔離病棟で、フーセルは医療活動を行い、人々と親しくなっていく。
そんなある日、彼が24歳の誕生日を迎える。
彼を祝うのは北岸の人々だったが、宴に疲れで岸辺に下りた彼は、
河向こうの隔離病棟の灯りを見て、誰も渡ったことのない河に飛び込み
泳ぎ始める。
この無謀な試みにまず北岸の人々が騒ぎ始める。
その騒ぎを聞いた南岸の人々がフーセルが渡ってくることを知る。

喘息持ちのフーセルの無謀な挑戦は成功するのだが、
この橋のない河を渡るというシンボリックな行動が、
戻ることなき革命家への変身を暗示する。

ブエノスアイレスを出る時に幼さが残っていた青年は、
旅を終える時には、知性と意志を具えた青年に変わっていた。

彼は確かに河を渡っていたのだ。

この年から、7年後にはキューバ革命が成功し、ゲバラは日本を工業相と
して訪問する。ゲリラ的行動で広島の原爆病院を訪問することになるのだが、
医学生の心を持ち続けていたのだ。
それからさらに8年後、彼は南米革命の途上に命を落とすことになる。

今は革命家という言葉を聞くことも少なくなったが、フーセルの熱き思いに、
反応するこころが今もあることは確かだ。

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