「SA計画」推進のために、本社から、キャラバン隊を
編成して各支社に啓蒙(既に死語)を図った。
「1.本社から支社、直接部門に出向いての指導、
トレーニングを徹底した。
2.本社内に推進会議を設置し、各部門との連携をとって、
全体体制を推進した」
そして、2年間後の自らの総括はどうだったか。
「道半ばの評価」とある。成功はしていない。
どの程度の検証をしたかわからないが、
「職場、個人ごとに取り組み度合の格差がひろがってしまった」
とある。
自主管理ということのマイナス面が出てしまったのだろう。
よくある現象だが、事前にその可能性がわからなかったのか。
そして、このマイナス面は尾をひいてしまう。
2年計画だった「SA計画」は延長することになった。
「次ぎの2年間で終了する『後のない』計画として、確実に目標を
達成する決意を固めた」。
確実に目標を達成する、ということだから、数値目標があったの
だろうが、ここでは書かれていない。
延長された「SA計画」の基本的な考えは変わってはいない。
自主管理と主体性の発揮への期待である。
私が驚いたのは、「SA計画」は後2年(1996~97年)で
終ってしまうということだ。
では安全推進はどのように継続されたのだろうか。
一時的なものではないはずである。
(この本はこの時点で終わっている。もしかすると、
1997~2006年版が来年にできるはずだったかも
しれないが、もう出版はないだろう)
推測されるのは、この4年間をもって終了された「SA計画」は、
やがて社員の意識からも外れ、経営幹部は、率先して「高速鉄道
プロジェクト」へと事業の重点を移していっただろうということだ。
この「新世紀へ走る JR西日本のあゆみ」は、「SA計画」に
続いて「ATS整備の歩み」という1項がある。
これも、安全への取り組みということで、こと細かく載っている。
(ここで原稿の書き手が変わったようだ。専門的なだけに真実が
垣間見れるところがある)
「ATS整備の歩み」の内容は以下の機種の説明と設置原因、
目的である。
1.ATS-SとB型
2.ATS-P形
3.ATS-SW
※1988年阪和線事故の車止激突事故、神戸線東灘信号場で
分岐線に高速で進入するという事故を受けて設置が進んだとある。
(阪和線のATS整備がJR西日本の他線に比べて進んでいる
理由は事故が多発していたからであったことがわかる)
ところが、その後、遅々としてATS-SWの設置は進まず、
今回の事故へと繋がってしまう。
文章だけ読むと、設置率については書いていないので、完備された
ものと思ってしまうが、実態は私鉄は無論のこと、JR東日本の
設置率ともかけ離れてしまっていたことが今回の事故でわかった
しまった。
この実態をだれが把握していたのだろう。この文章の書き手も
理解していなかったのかもしれない。
理解しておれば次の文章はとても書けるものではない。
「その後、ATS-PやATS-SWの導入を進めた結果、
SA計画の推進などのソフト対策ともあいまって、赤信号を
行き過ぎ、制限速度をオーバーするといった危険度の高い事故は
皆無といえるようになり、列車運転の安全性を大きく向上させる
ことができた」。
そして、安全対策は重点項目からはずれ、念願の「高速鉄道
プロジェクト」を邁進していくことになったのだと思う。
技術陣にとって、危険な地点にはすべて新型ATSが設置され、
安全は確保されたと信じたのだろうか。文章からはそう読めるが。
しかし、この文章が書かれた後に、技術陣も把握していなかった
かもしれない新たな危険地点が、予想されない経緯で登場して
きていたのだ。
それが東西線との接続のために新設された尼崎R300だった。
その尼崎R300は当初危険とは認識されなかっただろう。
開業当初は、R300前の直線の通常スピードは90kmだった
からである。
ところがあろうことか、その後の2度にわたる時間短縮で、それは
110km超まで上がっていた。
これが、悲劇へと繋がるのに、そう時間はかからなかった。
R300は、運転士の心の中でしか、危険地点になっていなかった
のだろうか。
「新世紀へ走る JR西日本のあゆみ 」 了
編成して各支社に啓蒙(既に死語)を図った。
「1.本社から支社、直接部門に出向いての指導、
トレーニングを徹底した。
2.本社内に推進会議を設置し、各部門との連携をとって、
全体体制を推進した」
そして、2年間後の自らの総括はどうだったか。
「道半ばの評価」とある。成功はしていない。
どの程度の検証をしたかわからないが、
「職場、個人ごとに取り組み度合の格差がひろがってしまった」
とある。
自主管理ということのマイナス面が出てしまったのだろう。
よくある現象だが、事前にその可能性がわからなかったのか。
そして、このマイナス面は尾をひいてしまう。
2年計画だった「SA計画」は延長することになった。
「次ぎの2年間で終了する『後のない』計画として、確実に目標を
達成する決意を固めた」。
確実に目標を達成する、ということだから、数値目標があったの
だろうが、ここでは書かれていない。
延長された「SA計画」の基本的な考えは変わってはいない。
自主管理と主体性の発揮への期待である。
私が驚いたのは、「SA計画」は後2年(1996~97年)で
終ってしまうということだ。
では安全推進はどのように継続されたのだろうか。
一時的なものではないはずである。
(この本はこの時点で終わっている。もしかすると、
1997~2006年版が来年にできるはずだったかも
しれないが、もう出版はないだろう)
推測されるのは、この4年間をもって終了された「SA計画」は、
やがて社員の意識からも外れ、経営幹部は、率先して「高速鉄道
プロジェクト」へと事業の重点を移していっただろうということだ。
この「新世紀へ走る JR西日本のあゆみ」は、「SA計画」に
続いて「ATS整備の歩み」という1項がある。
これも、安全への取り組みということで、こと細かく載っている。
(ここで原稿の書き手が変わったようだ。専門的なだけに真実が
垣間見れるところがある)
「ATS整備の歩み」の内容は以下の機種の説明と設置原因、
目的である。
1.ATS-SとB型
2.ATS-P形
3.ATS-SW
※1988年阪和線事故の車止激突事故、神戸線東灘信号場で
分岐線に高速で進入するという事故を受けて設置が進んだとある。
(阪和線のATS整備がJR西日本の他線に比べて進んでいる
理由は事故が多発していたからであったことがわかる)
ところが、その後、遅々としてATS-SWの設置は進まず、
今回の事故へと繋がってしまう。
文章だけ読むと、設置率については書いていないので、完備された
ものと思ってしまうが、実態は私鉄は無論のこと、JR東日本の
設置率ともかけ離れてしまっていたことが今回の事故でわかった
しまった。
この実態をだれが把握していたのだろう。この文章の書き手も
理解していなかったのかもしれない。
理解しておれば次の文章はとても書けるものではない。
「その後、ATS-PやATS-SWの導入を進めた結果、
SA計画の推進などのソフト対策ともあいまって、赤信号を
行き過ぎ、制限速度をオーバーするといった危険度の高い事故は
皆無といえるようになり、列車運転の安全性を大きく向上させる
ことができた」。
そして、安全対策は重点項目からはずれ、念願の「高速鉄道
プロジェクト」を邁進していくことになったのだと思う。
技術陣にとって、危険な地点にはすべて新型ATSが設置され、
安全は確保されたと信じたのだろうか。文章からはそう読めるが。
しかし、この文章が書かれた後に、技術陣も把握していなかった
かもしれない新たな危険地点が、予想されない経緯で登場して
きていたのだ。
それが東西線との接続のために新設された尼崎R300だった。
その尼崎R300は当初危険とは認識されなかっただろう。
開業当初は、R300前の直線の通常スピードは90kmだった
からである。
ところがあろうことか、その後の2度にわたる時間短縮で、それは
110km超まで上がっていた。
これが、悲劇へと繋がるのに、そう時間はかからなかった。
R300は、運転士の心の中でしか、危険地点になっていなかった
のだろうか。
「新世紀へ走る JR西日本のあゆみ 」 了