良寛の終焉の地・島崎和島から父以南が生まれた与板に向かいます。
もう午後4時頃になっていました。
与板で何を観ればよいか事前の準備ができていませんでした。
ぶっつけ本番になってしまいました。
与板の街に到着すると、長く商店街が続いていました。
軒先を屋根を付けたアーケードです。積雪対策だと思います。
↓ 城下町与板のイラストマップです。
黄色のマーカーで印した地点は、次の日に訪問した場所です。
この日は商店街(太いブルーライン)を右から左に通り抜け藤野神社境内でUターンしました。
中央下にある直江兼続の銅像を見て、ここの城主だったのかと驚きました。
歴史民俗資料館脇に車を止める頃には日も暮れていました。今日はおしまいです。
10kmほど走って中島見附のビジネスホテルに入りました(中島見附ルートイン)。
夕食はロボットが運んでくれました。びっくり。
まだパーフェクトではありませんが。
部屋に戻り資料を確認しネット検索しました。一夜漬けです(-_-;)
翌朝、与板を再訪しました。
まず、楽山苑を訪ねました。
観光案内では、楽山苑は豪商大坂屋三輪家の11代当主、三輪潤太郎が1892年に建てた「楽山亭」を中心とした庭園とあります。
この大阪屋三輪家六代の末弟に三輪左一という人がいます。良寛と壮年時代から親しく交流していました。良寛に居士(在宅仏教徒)として20年間も参禅を修行していたと聞きます。
良寛の心の友と言っていいでしょう。多くの書簡が残っています。
与板の街を一望する楽山苑の庭では女性の皆さんが草抜きに精を出していました。
朝の挨拶をすると室内に入っていいよと気軽に許可をいただきました。
庭先には天寒自愛の碑がありました。
良寛の歌碑です。
維馨尼(いきょうに)にあてた見舞いの書簡です。
経典の購入資金を調達するため、江戸へ単身托鉢に出るという維馨尼の決意に打たれ、
寒空のもと長い旅路を案じ、良寛は深い心情のこもった書簡を寄せています(案内より)
以下はこちらより引用しました。
左一と維馨尼
六代当主長高の弟・左一は良寛と深く交遊し、姪のきし(後の維馨尼)を良寛は可愛がった。
又、左一は商才にも長けていたと伝えられる。三輪佐一は、後に良寛の禅に参じ法弟となった。
良寛の胸中を最もよく理解した友人である
積翠庵(茶室)です。
次に訪れたのは、徳昌寺です。
ずいぶん立派なお寺です。
四国の札所巡りも叶います
新潟県のホームページに寺の由緒が書かれています。
三輪家のお墓もありますが遠慮いたしました。
与板にはまだまだ書かなければならないことがあります。
今日はここまでです。
お読みいただきありがとうございました。
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