犬養毅より犬養木堂という名が知られているかもしれません。
備中・庭瀬(現岡山市北区)の生まれです。安政2年のことです。
「憲政の神」と言われた政党人です。
総理大臣に任命(大命降下)された翌年(昭和7年)の5月15日に青年将校らにより暗殺されました。
書名にある「狼の義」は、表紙にあるごとく鋭い眼を持ち疾走した政党人の義について書いています。
犬養木堂の生きざまを450頁に及ぶ小説で読み通すこともなかなかではありますが、
この評伝を書き通された林新・堀川惠子夫妻の力量には圧倒されます。
この書がなければ、明治憲法発布から始まった憲政の歴史を知ることはなかったでしょう。
この憲政は木堂の暗殺で途切れました。
日本国憲法が発令し国会が復活されるまで(昭和22年)の15年間、憲政はなかったのです。
この間の13年、日本は中国大陸に侵攻、さらに連合国を敵に回し、最後に破滅してしまいました。
私たちは日本がどのように道を間違え破滅にいたったか、そしてあがないながらも倒れた人々のことを知るべきだと思います。
現在に通じることばかりです。
以下はこの書籍を読み始めた折に書いた文章です。
明治から昭和にかけて生き抜いた政治家 犬養毅(木堂)を中心に書かれた小説です。
著者は林新氏と堀川惠子の共著となっています。
林氏は堀川氏の夫です。
林氏が前半部分を書き進めたのですが病に倒れ堀川氏が引き継いで完成させたとあります。
犬養毅は現在の岡山市北区川入の出身です。
地元に大きな銅像があります。
吉備津神社の大きな駐車場の奥に聳え立ち主君である吉備津彦を見上げています。
吉備津神社と犬養毅の生家は指呼の距離です。
犬養(犬飼)家の祖先は、桃太郎(吉備津彦)の陪臣だったとの言い伝えがあるそうです。
犬養が生まれた幕末期には、犬飼家は零落しておりほぼ無一文で上京しています。
しかし類まれなる文筆の持ち主で、22歳で西南戦争の従軍記者となっています。
日本初の戦地特派員でしょう。九州の戦況を伝える記事は100回を越えたそうです。
幼少の頃から学んだ漢籍・漢学に培われた迫真の文章が東京の人々の注目を集めました。
田原坂の激戦から西郷終焉の地(鹿児島市城山)まで取材を続けています。
その後の経過は今読み進めていますが、終末は5.15事件での暗殺に至ることになります。
ところで私の知識もこの従軍記者以降5.15事件までの間ほぼ欠落しています。
生家にある記念館に訪問したことはありますが、理解が出来ていません。
遅まきながら学んでいきたいと思います。
この写真は『狼の義』の巻頭に張り付けられています。上下が繋がっている1枚の写真です。
総理大臣官邸に詰めかけた支援者を当時最新のドイツ製カメラで撮影したそうです。
生家にある記念館でも展示しており、はるばる岡山からこんなに多くの人がお祝いに上京したのかと驚きました。
犬養が中央にいると書かれていますが同定できません(-_-;)
※桜を見る会とはまったく異なります。
これから100頁以降を読み進めて行こうとしていますが、帝国憲法制定、結党(政党設立)など関係した人物が
あまた登場し難渋しています。
鎌倉殿の13人の人物相関図さえ混乱する私にこれから始まる長い憲政史を理解できるかどうか。
心もとない限りです。
とにもかくにも、林・堀川夫婦の連係プレーを支えとして残り350頁読み切りたいと思います。
お読みいただきありがとうございました。