岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

岡山と軍隊。

2014-06-15 06:23:33 | 岡山
※総合グランド倶楽部 旧偕行社(陸軍将校倶楽部)

明治40年に岡山市に第17師団が創設されました。
師団といえば2万人規模の大部隊です。
平素は基地内にいる兵隊も休日になれば街に繰り出したと思われます。
街の中での兵隊の様子など知りたいと思ったのですがこれがなかなか分かりません。


旧陸軍時代の塀と思われる。現在、岡山大学がそのまま利用している。

私などにとって軍隊の編成を理解するのは困難です。
第17師団をWIKIで検索するとそこそこ詳しく書かれていますが、私の理解が及ばないのです。
そこで岡山県史などに分かりやすく書いていないかと図書館から本を借りてきました。
『岡山県の歴史』山川出版社です。
ところが何も書いていません。最後の年表に、17師団は明治40年に新設されたと書いているだけです。
軍隊は県の歴史には関係ないということでしょうか。
県民、市民の生活とはまったく別ということでしょうか。
たぶん、そうなのでしょう。
壁の外側にいる住民(ほとんどが農民)とは別の世界に住んでいたようにさえ思えます。


ある日突然、岡山市に基地をつくるという話が降ってわいてきた。
それからすぐ全国から「作業員(土方、工夫と呼ばれていた)」が集まってきた。
口利き、斡旋屋の活躍(暗躍?)があるのでしょう。
瞬く間に造成、建築をして去って行ったようです。

作業された方々が自費で建立した記念碑に彫られていました。
3000人規模だったらしいです。
碑建立のために寄付したジモトの人はいませんでした。
苗字で分かります。
しかし、工事を請け負った人々が自費で石碑を建てるということがあったのですね。





作業をした人々は小屋掛けをしていたのでしょうね。
その後、岡山に住み着いた人もいたと思われますが、今となっては知る由もありません。
瓦職人が一族全員で工事のために移住したという話は聞きましたから、
そのような人も多くおられたと思います。

また、基地予定地内にも先住者(農民)がいたはずですが強制移住されたのでしょうか。
この話も聞いたことがないです。
すべてが秘密裡に進行していたのでしょう。
当然、基地周りの住民とは交流はなかったと思われます。
現代の自衛隊でも住民との交流は限られていますからね。
塀のあちら側は住民にとっては何が起こってもわからなかったでしょう。

ただ、市民との交流はなくとも、少なくとも数千人単位の若者の生活があるのですから、衣食住に関わる物資は大変な量を消費してしたはずです。
産業としてジモトは潤っていたのではないでしょうか。

日本の軍隊は、派兵されることを前提に考えられています。
この部隊も昭和に入ると中国や南方に司令部を移動して戦っています。
岡山に常駐して、本土を守る軍隊ではないのです。
ですから、実際、何千何万人の若者が常駐していたわけではありません。
どの程度、地域とかかわりがあったのかはよくわかりません。
ほとんどなかったように思います。
交流している写真を見たことがありません。
しかし、いつでも帰って来られるように広大な基地は残しています。

軍隊の移動は重要機密でしょうから、ある日突然兵隊がいなくなったり、また派手に出兵したりとしたことでしょう。
住民はわかることはとても限られていたと思います。
これでは、県史に書きようがないのも当然です。

ただ、明治末年に三野の浄水場が新設され用水路も整備されていくことも師団が岡山に創設されることと関係があるように思います。また、山陽鉄道が国有化されます。日露戦争以後、軍事輸送の重要性が認識されていたと思います。

日清日露戦争を経て、日本国中で 富国強兵を強力に進めたことが見えてきました。

書き進めて、やっと軍隊のしっぽが少し見えてきたようにも思います。


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