重要な指摘ですので転載させていただきます。
こころの平和から社会に平和へ
2012年08月05日(日)
改めて言っておきますが、いわゆる「新型うつ病」なるものは、うつ病ですらなく、大部分が、発達障害の方の適応障害だと思います。発達障害の方は、他者からの批判に容易に衝撃を受けてしまい、攻撃モードに入ってしまいます。これが「他罰的」と言われる部分です。
ところが、「新型うつ病」(甘やかされて育った人たちの困ったうつ病)という概念が広がったおかげで、何よりも困るのは本当のうつ病の人たちです。「あの人と同じ目で見られたくない」と、うつ病の診断書を拒む人もいます。当然の権利なのですが。
精神科医にとっても、「うつ病」という診断書の重みが本当に軽くなったと感じています。診断名よりも、中身の詳細な説明が命、という感じになっています。明らかに余計な仕事が増えています。
定型的うつ病患者さんは昔も今も自責的で、「新型うつ病」なるものに対する世間の論調に「やっぱり悪いのは私か・・・」と大変胸を痛めておられます。エセ専門家が「新型うつ病」なる言葉を提唱しようと、うつ病治療の本質は何ら変わりません。
職場では具合が悪くなるものの週末ディズニーランドに行ける、という時点で、うつ病ではなく適応障害の可能性が高いです。医師による正確な診断が患者さんの人生を救うというのは、どんな診療科でも同じですね。誤診が患者さんへの人格攻撃につながるのは大問題です。
ちなみに「非定型うつ病」も、「新型うつ病」とは全く違うもので、れっきとしたうつ病です。睡眠や食欲のパターンが、定型うつ病の方と違うだけで、その苦しさはとてもディズニーランドどころではありません。非定型のうつは、双極性障害のうつの方にもよく見られますね。
児童虐待防止法の抜本改正をしたときの主眼は「虐待を早く見つけて通報する」に主にとどまっていた視点を、「その後も生きていかなければならない子どもの育ち」に大きく広げたことだった。いじめについてはまだ前者の段階にいると思う。そして後者が必要なのも同じ。
いじめられ体験が人間関係の基本設定になってしまうと、その後も本当に長期にわたって影響を受け続ける。些細なことでも他者のネガティブな反応を異常に怖れるようになることも多い。「相手にもいろいろ事情があるのだな」などという余裕のあるものの見方は一般に難しい。
いじめを「極悪のいじめっ子」「見逃した・隠蔽した学校」という視点から見ている限り、効果的な前進は望めないと思う。コミュニティとしてこれをどう引き受け癒していくか、という修復的司法の視点が必要。それがいじめられた子の「人間の基本設定」を変えることにもつながるはず。
学校の先生はもちろん、子どもに関わる全ての職種の人が修復的司法のトレーニングを受けたらとても効果的だろうと思う(もちろんAHでも可)。いじめ対策(予防、発見、癒し)になるし先生たちの燃え尽き予防にもつながるだろう。そういう環境で育つ子どもたちの未来も楽しみ。
虐待者に対する見方はabuse(虐待)からin need(助けを求めている)へとシフトしつつある。いじめる人間も極度の「in need」だ。行為としてのいじめが断じて許されないということと、そんな行動をとるほどに「in need」なのだと見ることは、矛盾しない。
こころの平和から社会に平和へ
2012年08月05日(日)
改めて言っておきますが、いわゆる「新型うつ病」なるものは、うつ病ですらなく、大部分が、発達障害の方の適応障害だと思います。発達障害の方は、他者からの批判に容易に衝撃を受けてしまい、攻撃モードに入ってしまいます。これが「他罰的」と言われる部分です。
ところが、「新型うつ病」(甘やかされて育った人たちの困ったうつ病)という概念が広がったおかげで、何よりも困るのは本当のうつ病の人たちです。「あの人と同じ目で見られたくない」と、うつ病の診断書を拒む人もいます。当然の権利なのですが。
精神科医にとっても、「うつ病」という診断書の重みが本当に軽くなったと感じています。診断名よりも、中身の詳細な説明が命、という感じになっています。明らかに余計な仕事が増えています。
定型的うつ病患者さんは昔も今も自責的で、「新型うつ病」なるものに対する世間の論調に「やっぱり悪いのは私か・・・」と大変胸を痛めておられます。エセ専門家が「新型うつ病」なる言葉を提唱しようと、うつ病治療の本質は何ら変わりません。
職場では具合が悪くなるものの週末ディズニーランドに行ける、という時点で、うつ病ではなく適応障害の可能性が高いです。医師による正確な診断が患者さんの人生を救うというのは、どんな診療科でも同じですね。誤診が患者さんへの人格攻撃につながるのは大問題です。
ちなみに「非定型うつ病」も、「新型うつ病」とは全く違うもので、れっきとしたうつ病です。睡眠や食欲のパターンが、定型うつ病の方と違うだけで、その苦しさはとてもディズニーランドどころではありません。非定型のうつは、双極性障害のうつの方にもよく見られますね。
児童虐待防止法の抜本改正をしたときの主眼は「虐待を早く見つけて通報する」に主にとどまっていた視点を、「その後も生きていかなければならない子どもの育ち」に大きく広げたことだった。いじめについてはまだ前者の段階にいると思う。そして後者が必要なのも同じ。
いじめられ体験が人間関係の基本設定になってしまうと、その後も本当に長期にわたって影響を受け続ける。些細なことでも他者のネガティブな反応を異常に怖れるようになることも多い。「相手にもいろいろ事情があるのだな」などという余裕のあるものの見方は一般に難しい。
いじめを「極悪のいじめっ子」「見逃した・隠蔽した学校」という視点から見ている限り、効果的な前進は望めないと思う。コミュニティとしてこれをどう引き受け癒していくか、という修復的司法の視点が必要。それがいじめられた子の「人間の基本設定」を変えることにもつながるはず。
学校の先生はもちろん、子どもに関わる全ての職種の人が修復的司法のトレーニングを受けたらとても効果的だろうと思う(もちろんAHでも可)。いじめ対策(予防、発見、癒し)になるし先生たちの燃え尽き予防にもつながるだろう。そういう環境で育つ子どもたちの未来も楽しみ。
虐待者に対する見方はabuse(虐待)からin need(助けを求めている)へとシフトしつつある。いじめる人間も極度の「in need」だ。行為としてのいじめが断じて許されないということと、そんな行動をとるほどに「in need」なのだと見ることは、矛盾しない。