1200名という、小さな町か大きな村の人口ほどの院生を
抱えた十次は、いかにキリストの導きとはいえ、着る服、
食べるもの、住む家は、「みんな」で集め、つくるしかない。
ここでいう「みんな」は、国の内外を問わない。ちょっと、
想像ができないくらいの人数の援助があったのではない
だろうか。
集った総額はどのくらいになるのだろう。この話が終る頃
までに調べればと思う。参考までに、死者14万という
関東大震災時に米国民からの救援額は現在の金額にして
700億円に上るという。米国民の善意の大きさに驚く。
(この素晴らかった米国民の面影は今もある、と信じたい)
この年、十次には多くの課題が重なった押し寄せてきていた。
この急激な孤児増加の前に決定していたいくつかの事業を、
緊急事態の中、すべてを実行していこうとするのである。
具体的にあげていこう。
1.家庭舎制の実行
2.里預けの実行
3.宮崎への院生の移住
4.大阪事務所開設
5.東京事務所開設
これらのことをほぼ1年間で実施をするのである。
特に1の家庭舎移行への取り組みは、土地の購入、建物の
増築、改築、新築が関わってくるために膨大な資金が必要に
なった。だからといって、収容できればよいという仮設的な
建物を建てることは十次の頭にはなかった。
この時期(1906年)までに孤児院経営は20年に及んでいた。
既に40棟近くの建物を造っていた。
十次は、孤児院の住居はこうあるべきという住居思想の最終
到達点に近づいていたのだ。
盛時78棟を数えた建物には、さまざまな名前がついていた。
いくつか上げてみよう。
☆「クリスマス館」
クリスマス祝賀祈念のキリスト教関係者からの募金。
☆「ニューヨーク・クリスチャンヘラルド館」
クリスチャンヘラルド社による全米募金キャンペーンの
寄付金25,000円の一部で建てられた。当時の1円は今の
8000円程度と思われるので、2000万円の寄付となる。
1軒あたり当時に金で500~1200円で建てられている。
今の価値で400~1000万円で建てられているということに
なる。
☆「香川館」 岡山の元老の香川真一の寄付
☆「小樽館」 小樽の音楽活動写真会の純収入
☆「仁川館」「京城館」音楽活動写真隊の韓国遠征の収入
このような建物が2年間で24棟も建築されたのである※2。
1906年(明治39年)院生の各所在地別内訳は、
岡山孤児院1081名 里預け34名 宮崎64名 大阪10名
合計1192名
これが、1年後の1907年(明治40年)では、
岡山孤児院777名 里預け216名 宮崎61名 大阪21名
合計1075名
となっている。岡山孤児院の収容が限界を超えている事態と
なって、里預けを大幅に増やしたようである。
もちろん、東北から救済した児童も、帰郷を始めているので、
院生の数は序々に減ってくる。
ある程度、落ち着いてくるまで2年間を要しているようだ。
その間の岡山孤児院はどのようだったのか。
児童を養育する環境にあったのだろうかとさえ思う。
※「明治40年代前半の岡山孤児院の養護実践と家庭舎建築へ
の発展」菊池義昭著より
抱えた十次は、いかにキリストの導きとはいえ、着る服、
食べるもの、住む家は、「みんな」で集め、つくるしかない。
ここでいう「みんな」は、国の内外を問わない。ちょっと、
想像ができないくらいの人数の援助があったのではない
だろうか。
集った総額はどのくらいになるのだろう。この話が終る頃
までに調べればと思う。参考までに、死者14万という
関東大震災時に米国民からの救援額は現在の金額にして
700億円に上るという。米国民の善意の大きさに驚く。
(この素晴らかった米国民の面影は今もある、と信じたい)
この年、十次には多くの課題が重なった押し寄せてきていた。
この急激な孤児増加の前に決定していたいくつかの事業を、
緊急事態の中、すべてを実行していこうとするのである。
具体的にあげていこう。
1.家庭舎制の実行
2.里預けの実行
3.宮崎への院生の移住
4.大阪事務所開設
5.東京事務所開設
これらのことをほぼ1年間で実施をするのである。
特に1の家庭舎移行への取り組みは、土地の購入、建物の
増築、改築、新築が関わってくるために膨大な資金が必要に
なった。だからといって、収容できればよいという仮設的な
建物を建てることは十次の頭にはなかった。
この時期(1906年)までに孤児院経営は20年に及んでいた。
既に40棟近くの建物を造っていた。
十次は、孤児院の住居はこうあるべきという住居思想の最終
到達点に近づいていたのだ。
盛時78棟を数えた建物には、さまざまな名前がついていた。
いくつか上げてみよう。
☆「クリスマス館」
クリスマス祝賀祈念のキリスト教関係者からの募金。
☆「ニューヨーク・クリスチャンヘラルド館」
クリスチャンヘラルド社による全米募金キャンペーンの
寄付金25,000円の一部で建てられた。当時の1円は今の
8000円程度と思われるので、2000万円の寄付となる。
1軒あたり当時に金で500~1200円で建てられている。
今の価値で400~1000万円で建てられているということに
なる。
☆「香川館」 岡山の元老の香川真一の寄付
☆「小樽館」 小樽の音楽活動写真会の純収入
☆「仁川館」「京城館」音楽活動写真隊の韓国遠征の収入
このような建物が2年間で24棟も建築されたのである※2。
1906年(明治39年)院生の各所在地別内訳は、
岡山孤児院1081名 里預け34名 宮崎64名 大阪10名
合計1192名
これが、1年後の1907年(明治40年)では、
岡山孤児院777名 里預け216名 宮崎61名 大阪21名
合計1075名
となっている。岡山孤児院の収容が限界を超えている事態と
なって、里預けを大幅に増やしたようである。
もちろん、東北から救済した児童も、帰郷を始めているので、
院生の数は序々に減ってくる。
ある程度、落ち着いてくるまで2年間を要しているようだ。
その間の岡山孤児院はどのようだったのか。
児童を養育する環境にあったのだろうかとさえ思う。
※「明治40年代前半の岡山孤児院の養護実践と家庭舎建築へ
の発展」菊池義昭著より