北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

庶民の教育

2011-06-08 23:45:38 | Weblog
 議会の常任委員会が開かれて、市長総括委員会に出席をしました。

 釧路市の場合は常任委員会は今年度から3つとなりましたが、通常この委員会で議論される場合は、担当の部長が説明と答弁を行います。

 しかし内容が高度で、部長の答弁では不足であり市長から直々に考えを聞きたいという場合に、「市長総括」という形で、限られた時間の中で市長に対して直接意見を述べるとともに質疑応答をするものです。

 今日の総務・文教常任委員会では、市内の小学校での学力向上に向けた質問が出され、教育長からは「各学校の改善プランを教育委員会のホームページに載せることで、より多くの市民や保護者に対して公開してゆく」という答弁がありました。

 学力の向上は、幼少期での学力向上は今や市として大きな課題であり、市ではこの春から教育委員会に教育支援課を立ち上げて学力の向上に向けた取り組みを始めています。

 道が作成する学力テスト問題を生徒たちにやらせることで適切な評価と弱いところのあぶり出しに繋げてほしいものです。





    ※     ※     ※     ※     ※


 あるく民俗学者宮本常一さんの本に『庶民の発見』(講談社文庫)という本がありますが、このなかに「村里の教育」という章があります。

 宮本氏が日本中を歩き回ったのは戦後から昭和にかけてのことでしたが、地方ではまだ昔ながらの面影を発見できた良い時代でした。

 ここに「シツケ」について書かれた部分があります。


---------------≪ ここから引用 ≫--------------

 …一般にシツケといえば、もっと基準になるモラルをその底に持っていた。

 西日本で、その基準になるものは、「モッタイナイ」「オカゲ」「バチ」「義理」「恥」などであろう。これらのなかには、古い時代の祭祀儀礼から出たと思われるものもある。バチなどはそれであって、ご飯をこぼすとバチがあたるとか、文字を書いた紙で尻を拭くとバチが当たるとかいうように、そのなかには物忌みの気持ちが強く含まれている。

 モッタイナイやオカゲにも神祭的な感覚が含まれている。人がものをそまつにしないのは、モッタイナイからであり、我々が日々を安穏にくらしてゆけるのは、天地や祖先のオカゲだと信じていた。

 オカゲというのは恩とはややちがった意味をもっていた。恩はかえさなければならないが、オカゲをうければ喜びあえばよいものであった。伊勢神宮へのオカゲまいりなどがそのことをよく物語っている。

 (…中略…)


 われわれが日常「おかげさまで」と話の冒頭にこの語をつけるときは、しあわせにくらしているときに限り、しかもそれを誇ろうとするのではなく、天地神仏の加護によったというつつましい気持ちを含めている。


---------------≪ 引用ここまで ≫--------------


 今回の大震災で被害にあった東北の皆さんのふるまい方を見ていても、こうした考え方が根底に今もしっかりと息づいていることが分かります。

 しかし宮本氏は、これらのシツケのような日常の機微は文字による学校教育からではなく、依然として村里生活の中にあり、祖父母が孫に、親が子に、村民が一人一人に村里生活の規範として教えるよりほかになかった、とも書いています。

 学校教育と村里の教育の両方がなければ、正しくシツケの行き届いた一人前の人間にはなれなかった時代のお話。

 現代人にも耳の痛いところではあります。
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