北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

マリモと台湾の浅からぬ因縁

2012-01-14 23:45:56 | Weblog
 昨年は二羽のタンチョウ、オスのビッグとメスのキカが台北市動物園へ贈られて、釧路市と台北市との新たな交流が誕生しました。

 そのタンチョウは今年の3月に特別天然記念物指定60周年を迎えるのだが、それと同じくやはり特別天然記念物指定60周年を迎えるのがマリモです。

 今年はマリモでも少しく地域を盛り上げたいと思っていますが、マリモはタンチョウと違って鳴くわけでもなければ動きもせず、そもそも湖で保護されているのでドライブの途中などでおいそれとその姿を見るわけにもいきません。

 なんとも地味な植物で、話題性に乏しいというのが実情です。



   【阿寒湖チュウルイ島の見学施設】


    ※     ※     ※     ※     ※


 しかし阿寒湖畔でマリモの研究を続ける若菜さんの研究成果によって、次第にその実情が明らかになりつつあります。

 世界の湖にはマリモそのものは個体で存在しているところはいくつかあると言われています。

 実際、阿寒湖畔で売られているお土産のマリモも、どうやらロシアあたりから持ち込まれて売られているのだそうですが、こうした趣味の植物にはその流通シンジケートがあって、その実態はどうも分からないのだそう。

 しかもDNAを調べると本物のマリモと同じなのだそうで、似たような水草を丸めて売っているようなまがい物ではないようです。どうも神秘性が漂っています。

 さて、そんなマリモについていろいろと調べているうちに、なんとマリモも台湾と関係があるということが分かってきました。

 日本でマリモが学問的に知られるようになったのは、1894年(明治27年)に札幌農学校(当時)の宮部金吾先生がシオグサ属に同定したのが最初ですが、この時点ではまだ「マリモ」という名前は付けられてませんでした。

 阿寒湖で球状の大群落を形成する植物を、「マリモ(毬藻)」と名付けたのは当時札幌農学校(現北海道大学)の学生だった川上瀧彌(かわかみたきや)さんで、明治30年のことです。

 調査機関が今よりも格段に少なかった明治時代には、当時の大学生の研究というのは極めてレベルが高く、川上氏も道庁から委託を受けて道内外の植物調査にあたっていたと言いますから立派なものです。

 さて、このマリモと命名した川上瀧彌氏ですが、その後新渡戸稲造の紹介で台湾へ渡り、ここでも台湾周辺の離島を巡り様々な植物に関する論文を書いて台湾の植物を世界に知らしめる大きな貢献を果たしました。

 さて、当時台湾では1913年に着工した「児玉総督・後藤民政長官記念館」は1913年5月に完成しましたが、すぐに総督府に渡されるとその名称は「台湾総督府博物館」と改められました。

 川上瀧彌はその初代館長として病をおして引っ越しの準備をしていましたが、1915年8月20日に総督府博物館の開館が無事行われた翌日に、わずか44歳という若さで亡くなったのでした。

 台湾にはkawakamiと名がつく植物が40種類以上もあるそうで、その功績は今も台湾の植物研究者の知るところになっているのだそうです。

 
 いかがでしょう、タンチョウによる釧路と台湾の関係はあると言いましたが、なんと一世紀も昔に既にマリモを通じて釧路と台湾には深い関係性があったのです。

 川上瀧彌氏の死は殉職として、台北植物園内にある神社に祀られているのだそう。

 今度台北へ行くときは、動物園とともに植物園にも言って見なくてはなりますまい。

 不思議なことに、いろいろなことが束になってやってくるタンチョウ・マリモの60周年記念の年。なんだか面白くなってきましたね。



   【ビロード上の質感がきれいです】

コメント
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