一日冷たい雨の日でした。東京の最高気温は10度に達しないほどでした。
奈良へ(2009年11月14日)
今まで仕事で南大門の写真を使いたいときにはネット上の写真をいただいていたので、長いこと自分の撮った東大寺南大門の写真が欲しいと思っていました。そこで今回の「奈良行き」では東大寺に行かなければ後悔しちゃうな、と、思っていました。サークルの仲間の数名は京都の清涼寺、広隆寺などを周る予定でした。それもとっても魅力的でしたが
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東大寺は743年4月、聖武天皇の「大仏建立の詔」に始まります。創建寺の天平文化の仏像や堂宇は残念なことに2回の戦火でほんのわずかしか残っていません。最初の戦火は源平の争乱のとばっちりで全焼に近いものでした。源平の争乱の始まりは平氏打倒の命令書を以仁王が発したことが発覚してしまったので以仁王と源頼政は挙兵します。しかし、平清盛と戦うには力不足だったので南都の寺(興福寺・東大寺)を頼ろうとして南へ逃げますが、宇治川で追っての平氏と戦乱となり以仁王は落馬がもとで死亡、源頼政は戦死しました(5月)。平清盛は12月に興福寺・東大寺を懲らしめるように5男重衡に命じました。そこで重衡は東大寺・興福寺をほぼ全焼してしまいました。大仏も台座を除き焼け落ちてしまったそうです。この事態に後白河法皇は重源を東大寺勧進職命じ、東大寺復興事業を開始させました。
東大寺復興のためには資金・材料・技術が必要です。重源はこれをどのように手にいれ、復興を成功させたのでしょうか。
まず、資金面です。精力的に寄付(勧進)集めを貴族・武士・庶民に行いました。後白河院はもとより、鎌倉の頼朝からも金・銀・米・絹などたくさんの寄付を集めるのに成功しました。技術は重源みずからも南宋への留学で寺院建築を学んでいました。さらに、博多に住んでいた南宋の陳和卿の協力を得ました。重源は後白河院から周防と備前の国司に任命されました。周防は木材の産地、備前は瓦の産地ということで、重源は東大寺復興の木材と瓦を手に入れることができました。そうして突貫工事が行われ、1185年には大仏開眼供養となりました。1195年には大仏殿落慶、1203年には南大門の金剛力士像が完成して東大寺のすべてが落慶しました。
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南大門は1本の釘も使わずに木組みでつくられています。これは中国の寺院建築の影響を受けた「大仏様」です。
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金剛力士像は運慶の総指揮で運慶と快慶の工房で奈良仏師が総力をあげ、約3000個の部材からなる寄木造を69日間で完成しました。
吽形
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阿形
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つづく