午後3時をまわってしまったので、小浜の発心寺をめざし、縄文ロマンパーク
をあとにしました。福井県の山々は優しくなだらかでした。しかし、気になるこ
とがありました。
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もしや、 立ち枯れかしら
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た。
小浜駅の近くに位置する曹洞宗の発心寺に午後4時ごろ到着しました。この寺
では12月に臘人の接心という修行が1週間おこなわれています。この修行は
雪の降る小浜の風物詩となっているようです。この恒例の修行に夫の父が大
学時代に何回も参加しました。夫の父は僧籍には属しておりませんが、生涯、
佛教関係の勉強をしておりました。夫の父の遺稿集『耕心』の一部を引用しま
す。『 』内が引用文です。
『・・・はたち前後のころから、いろいろの事情で、自分なりにひとり悩むことが
多くなり、「けっきょく自分はどうなるのか。どうあるべきなのか。」と言
ったような問題がだんだん内攻してきた。そこで自己とか自我とか自
叙とか、ともかく自という字のついた書籍などを手当たり次第あさって
参考に読んでみるようになったが、畢竟「他はこれ我れに非ず」、他の
種々相を知ることによって、かえってますます自分がわからなくなって、
その悩みはひろまるばかりであった。もっと人間そのものの根底にたっ
た決定的な解決の道はないものかと思って、自然哲学的傾向の書物
を求めるようになったが、いずれの哲学書も、何か冷たい理屈っぽい感
じがして、これだけは、到底自分は救われそうもないと思い、情味のあ
る宗教的なものに心をひかれるようになった。あるときは、学資の一端
を補うために、外人牧師の家に寄宿して仕事を手伝い給料を貰ったこと
もあったが、それが縁で、牧師の親切な人柄や、周囲のひとびとの、奉
仕的やさしい雰囲気に、なんとなく感化されるところもあって、教会へも
しばしば出入りして説教もきき、讃美歌も歌い、進んでバイブルも読んだ
が、これまたどこかに偏執と臭味を感じ、どうしても肌に合わないところが
あるので、入信する気にもなれなかった。
○
その矢先、たまたま高楠順次博士の佛教講演を聞く機会があった。その
ときのお話の内容が、どんなものであったか、今は全く忘れてしまったが、
ただ、佛教が自覚の宗教であるという一言だけは、印象深く残っている。
そして同博士の朗々とした、歯切れのいい、澄みきった音声に乗って、た
くまずしみじみと流れ出る見識、風格、人柄と言ったものにひどく魅力を感
じ、最後まで固唾を呑んで謹聴したことだけが、今なおはっきり記憶に残っ
ている。その後もしばしば経験して気のついたことですが、頭の中で智識
的に詰め込んだこと、考えたことは、とかく消え易く変わり易く、また忘れ
勝ちで、けっきょく身につきませんでしたが、感覚的に目で耳でとらえたこ
と、或いは手で足でおぼえたこと、要するに生身で経験したことは、いつま
でも忘れずに身に残るものだということです。
○
ともあれ、この講演が、佛教なるものに強い関心をもち始めた第一の導火
線になったかと思う。それから仏教というものを、ひとつ身を入れてやってみ
ようかという気になったが、さてどこからどう手をつけていいやら、皆目見当が
つかない。周囲に適当な助言者もいなかった。今にして考えれば、へたに一
宗一派に偏した指導者や助言者がいなかったことが、むしり自分に幸いした
と思う。そこでやむを得ず、何か手引きになる解説書でも探してみようと思っ
て図書館へ行って、あれこれと索引をめくってみた。するといつぞやお話を聞
いた高楠順次博士と、木村泰賢というひとの共著になる『インド哲学宗教史」
という書名を発見した。あの先生の本ならと思って、とりあえずこれを借り出し
て読んでみることにした。すると開巻第一に自分の心を強くとらえた言葉が出
てきた。それは、「インドの宗教は哲学であり、インドの哲学は宗教である」 と
いう一言でした。・・・・』その後、昭和2年にインド哲学科に進学、
『・・・大学で、仏教の勉強をはじめたか『ただ一人の釈迦が説きだした佛教が、
どうして八宗十宗とと分かれて、夫々が各宗宗旨を固執するようになったかと
いうことである。次にはそれ等の宗義を研究し比較し解明し記憶したところで、
果たして自分自身の始末がつくのかつかないのか。
私は何か失望に似たものを感じ始めたのである。・・・略・・』そのご、禅宗の
曹洞宗出身の同級生が「正法眼蔵」(道元著)を贈ってくれた。その本のを読ん
で『・・・「現成公案」という巻きのところに、「佛道をならうというのは、自己をなら
うなり、自己をならうというは、自己をわするるなり・・・・云々」という文句を発見
し、ハッとした。佛教に対する年来の期待が、ここへきて初めて的中したような
思いがしたからである。
それにしても、こういうことをはっきり言う道元禅師とはどういう人物か、また
禅とはどのような法門宗旨か、これが自分には頗る興味深い問題として、改
めて登場してきた。』。(続きは発心寺の写真の下の続きを読むをクリックして
ください)
発心寺
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坐禅のお堂
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裏山の墓地
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帰宅後、発心寺を調べると山川登美子の墓があったようです。
墓地の一角に菜園がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/d7/3a920b97278dc2f12f506ecd9639f02c.jpg)
帰宅後のネット情報ですが、このお寺の僧侶は自給自足に近い生活との事で
した。
『そのころ自分は大学一年生で、佛教青年会の寄宿舎に舎生として住み、
かつ同会の一事業である日曜講演部の仕事を手伝っていた。・・・福井市
の通安寺の住職今成覚禅の講演会を企画、講演後の座談で『・・・今成
覚禅は「是非一度接心にご出席なさい。すると禅が如何なるものかわか
る」と言う意味のことを言った。・・』その後、原田祖岳老師を招いて
日曜講演会を開いた。そのあとの坐談で『・・・老師は「一度接心に来ると
いい。その時なら詳しい身のある話もしみじみできるだろう」と言われた。
・・・略・・・・・・・「よし行って見よう」・・』このような次第夫の父は老師が
住職を務める小浜発心寺の接心に参加したました。
昭和3年12月のことでした。その修行はすさまじく厳しかったようで
『・・何の因果でこんなにたたきのめされるのか。うらめしいやら、
くやしいやら情けないやらでボロボロ涙が出た。さりとて逃げ出すわけにも、
文句をつけるわけにもいかない。唯々忍従甘受あるのみ。しまいには覚悟を
決め「なにくそ、こんな事でへこたれてたまるものか」と奮然気をとり直し、坐り
直して頑張り通すようにもなった。・・・』