尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

マレーシア総選挙と東南アジア情勢

2018年05月11日 23時26分01秒 |  〃  (国際問題)
 朝鮮半島や中東の情勢はもっと書くべきなんだけど、前から東南アジアを書きたかった。ちょうどマレーシア総選挙で初の政権交代が起こったので、この機会に各国の様子をまとめておきたい。僕は昔から東南アジア地域に関心があって、鶴見良行さんの本などをよく読んでいた。海外旅行は少ないけど、最初に行ったのがタイ、マレーシア、シンガポールである。映画でもタイやインドネシア、ヴェトナムなどの映画をずいぶん見てきた。

 昔からすごく気になる地域が東ヨーロッパ東南アジア。諸勢力の狭間のような複雑な歴史、そこから来る重層的、複合的な文化が面白い。特に東南アジアは政治的、経済的に日本に大きな意味があって無関心ではいけない地域だが、現状を見ると心配がつきない。50年ぐらい昔は「アジアは近代化できるのか」と問われていた。「日本だけが例外だった」と言うのである。80年代になって、韓国、台湾、香港、シンガポールが工業化に成功し「アジアの4小龍」と言われた。さらに中国やインドも工業化が進んで、今じゃ「アジアでは工業化は成功しない」なんて誰も言わない。

 一方、社会の民主化はどうだろうか。ある時点までは、工業化の進展で中間層が増え、その影響で民主化も進むという説があった。実際、80年台後半に韓国台湾で民主化が進み、普通選挙でリーダーを選ぶ体制が実現した。曲折はあるが、韓国、台湾では民主体制が定着している。東南アジアでも、1986年のフィリピン「ピープル・パワー革命」、1998年のインドネシアのジャカルタ暴動とスハルト退陣による民主化が起こった。一時は社会の発展で民主化が進むかのように見えたが、21世紀になってむしろ情勢は逆戻りしている。

 タイでは昔から選挙が行われていたが、タクシン元首相派と反対派の対立が激化して、2014年に軍によるクーデタが起こった。その後、憲法が制定され民政に復帰すると言われながら、その時期が延ばされ続けている。また、ミャンマーでは長い軍事独裁がついに終わり、2015年11月に選挙が行われアウン・サン・スーチー率いる国民民主連盟が圧勝した。事実上のスーチー政権ができ、それで万事解決かと思ったらそうはいかなかった。その後、民族対立が激しくなり、特にイスラム教徒のロヒンギャ族の虐殺問題が激化した。仏教徒に支えられるスーチー政権は問題解決にリーダーシップを発揮できないままである。

 そんな中で、5月9日に行われたマレーシアの総選挙で、独立以来初めての政権交代が起こった。野党連合の「希望連盟」を率いる元首相のマハティールが、92歳の高齢ながら首相に就任すると見られている。与党「国民戦線」のナジブ・ラザクは2代首相のアブドラ・ラザクの子で、2009年以来首相を務めていた。マハティールは1981年から2003年まで、22年間も首相を務めていた。高齢の首相と言えば、インドでは80代の首相が今までにいたが、90代というのは世界でも初めてではないか。さて、このマレーシアの選挙結果は民主主義の勝利と言えるんだろうか。
 (選挙勝利を喜ぶマハティール)
 現在の政府に対して、反対派が共同して選挙で結集した。そのことにより政権交代が実現した。そう言えば、それはその通りだと思う。だけど必ずしも「民主主義の勝利」と喜べるかどうかは留保が必要だ。その理由はいくつか挙げられるが、まずはマハティールがリーダーだということ。これはそこまで与党の分裂が深刻だったと言えるが、日本で言えば小泉純一郎が自民を離党して野党共闘の首相候補になったといった感じか。かつての「実績」と「人気」を覚えている人がいるだろうが、それが「真の政権交代」と言えるか。

 マレーシアは典型的な多民族国家で、1969年にはマレー系と中国系の大規模な民族衝突が起きた。それ以来「マレー人優先政策」(ブミプトラ)が取られてきた。そのためマレー系有権者はマレー系与党の「国民戦線」に投票してきた。野党は中国系やインド系が中心となっていたので、反体制知識人が存在する大都市以外で野党が勝つことは難しかった。しかし、近年国民戦線の腐敗、縁故主義が批判を浴び与党を離れるマレー人も多くなっていた。今回は事前に野党優勢が伝えられていたが、いよいよ現実に政権交代が起きた。しかし、政権運営がうまく行かない場合、民族対立が激化しかねない。

 政策的には与野党ともに、バラマキという言葉では済まない、利益誘導的な公約を掲げた。いったん導入された消費税を廃止するなど本当にできるのだろうか。今回の選挙をきっかけに、今まで以上に果てしない利益誘導政治が始まりかねない。確かにナジブ・ラザク政権の腐敗体質が断罪された面はある。しかし、伝統的に国民戦線が強いボルネオ島北部のサバ、サラワクなどとの地域分断も起こりかねない。難しい政権運営になるのは間違いない。

 人権無視が甚だしいフィリピンドゥテルテ大統領、最近独裁化の著しいカンボジアフンセン首相などの問題を書く余裕がなくなった。そこでは中国とどう関わっていくかという今後のアジアの大問題がある。また地域内の最大国家で、G20に唯一参加しているインドネシアで、宗教対立が激しくなりつつあるのもとても気になる。書いてると終わらないのでもう止めるが、この地域との関係はとても大事なのでニュースには注目していきたいと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝鮮半島情勢をどう考えるか

2018年05月10日 22時51分05秒 |  〃  (国際問題)
 2017年4月27日に、朝鮮半島の南北首脳会談が行われて、板門店(パンムンジョム)宣言が発表された。まだ2週間も経っていないけど、世界が大きく変わてしまった感がする。それ以前に米朝首脳会談の開催が公表されていて、元々の合意では今月中にある。9日に北朝鮮で拘束されていた3人の米国人が解放され、米国帰国時にはトランプ大統領自らが出迎えた。一方、今まで正式には国内で報道していなかった北側もトランプ大統領との会談を報じたという。遠からず米朝首脳会談が行われ、そこで何らかの合意がなされる可能性が高いと考えるべきだろう。(その後、トランプ大統領のツイッターが「6月12日、シンガポールで米朝会談」と伝えた。)
 (南北首脳会談時の両首脳夫妻)
 その合意はもちろん「完全な核廃棄」を約束するものになる。そのやり方や時期、検証法は不明だが、それらが全部事前に判っているなら、トランプとキム・ジョンウンが会う必要もない。両首脳が「取引(ディール)」の見せ場を作る意味でも、最後の駆け引き的な部分が残ると考えられる。だけど、イラン核合意を攻撃するトランプがそれなりの成果の見込みなしに会談するはずがない。「首領様」が「失敗」することもありえないから、両者がそれなりに成果を宣伝できる見通しが出来てきていると考えられる。お互いに「平和の旗手」なんかではなく、「ロクデナシ」どうしだと相互認識していると思うから、会談もまとまるのではないか。

 日本の安倍政権は未だに「制裁実施」のみ強調して回っている。むろん、国連加盟国は安保理決議を順守する義務があるわけだから、現時点では「お説御もっとも」とでも言うしかない。「北朝鮮危機」を権力の源泉にしてきた安倍政権は、事態の進展に付いていけてないし、未来に向かった知恵が感じられない。まあ日本の問題はともかくとして、どうして安保理決議が通ったのだろうか。イスラエルに関する決議はアメリカが、シリアのアサド政権に関する決議はロシアが、それぞれ反対するから、どんなに道理があることでも安保理で決まらない。

 一方、北朝鮮の核開発や長距離弾道ミサイル開発には、中国もロシアも安保理で反対しなかった。だから制裁が可決された。その時点では、キム・ジョンウンとしてもそれで良かったという判断だったのだろう。何故なら、核やミサイル開発を進めてこそアメリカが振り向くはずだという戦略だったんだろうから。アメリカ側から見れば、制裁を強化すればどこかで折れてくるということになる。「チキン・レース」を展開していたわけだが、その結果国連内で誰も北朝鮮を擁護できなくなった。今後はそれじゃ困るということが、度重なるキム・ジョンウンの中国訪問なんだと思う。

 1953年7月27日に結ばれた朝鮮戦争休戦協定は、もともと国連軍北朝鮮、中国の間で結ばれている。国連軍は事実上アメリカ軍が主導で、米陸軍のハリソン中将が署名した。なんで国連軍結成にソ連が拒否権を行使しなかったかというと、当時アメリカが主導していた国連運営に抗議して、ソ連は国連を欠席する戦術を取っていたからである。北側の攻撃開始はソ連のスターリンが承認していた。なぜ直ちに国連に復帰しなかったのかはよく判らない。中国は義勇軍という形で大量の人民解放軍を派遣したから、朝鮮戦争を終わらせるためには中国の関わりが必須になる。中国は平和条約の当事者である。

 国連軍は形の上では今も残っている。日本にも後方司令部があって横田基地に置かれている。(構成国は米英仏オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、タイ、トルコと韓国。)今韓国にいる米軍は、休戦協定締結後の1953年11月に結ばれた米韓相互防衛条約に基づくものとされる。だから朝鮮戦争の平和条約が結ばれても、国連軍の使命は終わるけど、米軍が韓国から引きあげなくてはならないわけではない。しかし、北が完全に核とミサイルを放棄し、それを中国が擁護し保護することになったなら、米軍撤退問題も起きてくるかもしれない。

 最近の事態を見て「朝鮮統一」が近いかのように語る人もいる。しかし、それは違うだろう。分断の固定化がいましばらくは強まる。何だかんだ言っても、中国は東北部が「カラー革命」の震源にならないように、「北朝鮮」の存在が必要なんだと思う。まかり間違って朝鮮労働党政権が崩壊してしまって、米軍のプレゼンスが鴨緑江岸にも及んでしまうことだけは中国は避けたい。そこでキム・ジョンウン政権が「恭順」の意を示して来れば、全面的に抱え込んでいく。韓国が「米国の核の傘」のもとにある限り、核を放棄した北朝鮮は「中国の核の傘」に置く。

 これが当面の方向性なんだろうと思う。しかし、そのような「平和」でいいのかが今後問われてくる。日本にとって朝鮮戦争は「対岸の火事」ではなかった。憲法9条がありながら、警察予備隊を作って事実上の再軍備に乗り出したのは、朝鮮戦争後のマッカーサー指令による。朝鮮戦争が完全に終結するときには、日本の「戦後」も見直してみる必要が出てくる。その前に日朝の国交正常化交渉が必要になる。とにかく戦争以来半世紀以上ずっと「休戦」でしかなかった南北朝鮮で、今が一番平和条約締結に近づいている。この機を逃してはいけないと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米国のイラン核合意離脱問題

2018年05月09日 21時27分08秒 |  〃  (国際問題)
 書きたい問題がいろいろあって時事問題をしばらく書いてない。この間、朝鮮半島の南北首脳会談が行われ、東アジア情勢に大きな変化が生じた。昨日、キム・ジョンウン国務委員長が訪中して、大連で習近平主席と会談したと発表された。今日(9日)はムン・ジェイン大統領と李克強首相が来日し、日中韓三国首脳会談が開かれた。この問題はとても重大なんだけど、それを書く前に「イラン核合意」を米国トランプ大統領が破棄した問題を書着ておきたい。

 と同時に米国のポンペイオ新国務長官が現在、ピョンヤンを訪問している。来るべき米朝首脳会談の調整を行っているが、帰国時に北側に拘束されている米国籍の3人が解放されるかどうかが重大なシグナルになると思われる。朝鮮半島情勢と中東情勢は緊密に関連している。米国はちょっと前まで北朝鮮を先制攻撃するんじゃないかという観測まであったけれど、中間選挙を秋に控えたトランプ大統領は支持者受けする中東問題を重視した。5月には、イスラエルにある米国大使館をエルサレムに移し、イラン核合意を破棄した。完全にイスラエル寄りをアピールしている。
 (イラン核合意破棄を発表するトランプ)
 前から「イラン核合意は最悪の取引」と言ってきたから、その意味では今回の発表は意外ではない。もともとはオバマ政権の「功績」はみなひっくり返したいという衝動だったのかもしれない。しかし、大統領としての初の外国訪問にサウジアラビアを選んだトランプである。従来の中東政策に大きな変更を加えつつある。確かに最近、シリアやカタール、イエメンなどでイランの存在感が増している。最近行われたレバノンの選挙でも、シーア派民兵組織のヒズボラが勢力を予想以上に伸ばした。イラン対サウジアラビアの代理戦争が中東各地に広がりつつある。
 
 イエメンの反政府系のフーシ派はイランの援助を受けているとされる。フーシ派と思われるサウジアラビアへのミサイル攻撃もたびたび起こっている。だからイランのミサイル開発に制限を掛けない合意はおかしいという主張も理解できないわけではない。しかし、核開発を中止し国際的な査察を受け入れるという基本は守られている(とされる)。この合意自体は意味があって、だからこそ米国以外の英仏独中露とイランはこの合意を今後も維持するとしている。それは事前に予想できるので、「アメリカの孤立」だけをもたらしているし、中東屈指の経済規模を持つイラン市場からアメリカが除外されるだけではないか。

 この間イスラエルのネタニヤフ政権はトランプ大統領に合意破棄を強く働きかけていた。しかし、この合意を「不完全でイランの核開発を完全に防げないもの」と仮に考えたとしても、イスラエル自身が核保有国とされ、国際的な査察を受け入れないままでいるのでは説得力がない。中東にイスラエルだけが核兵器を保有しているというのは、なんで許されるのか。そっちこそが地域の波乱要因なんじゃないか。しかし、アメリカが国連安保理で拒否権を発動するから、イスラエルは何でもできてしまう。ネタニヤフ首相は汚職問題で捜査を受けていて、政権基盤が弱くなっている。トランプ大統領に頼って、イラン敵視を強めていた。

 イランは国内情勢が複雑だ。2017年には大規模な反政府運動が起きた。保守穏健派のロウハニ大統領に対しては、保守強硬派からも改革派からも批判がある。政権のバランスは非常にもろいもので、外からの一方的な対応は保守強硬派を勢いづけ、イスラム体制の人権問題を深刻化させるだけだ。トランプはそういう事には関心がないというか、どうなってもいいというのがホンネだろう。これは非常に危険なことだと思う。中東のどこかでイラン・サウジの本格戦争が起きかねない。そうなった時には原油価格の上昇により、世界経済は破滅的な影響を受ける。
 (イランのロウハニ大統領)
 イスラム教のマジョリティであるスンニ派(スンナ派)とマイノリティであるシーア派は、確かに違うわけだがちょっと前まではお互いに攻撃しあうほどの敵対関係にはなかった。世界各地にあるモスクで一緒に祈りをささげることも普通だった。でも21世紀になって、特にイラク戦争を契機にして宗派対立が激しくなった。そうなるとシーア派が国教であるのはイランだけだから、イスラム世界で宗派対立が起きるとイランがシーア派(あるいはシーア派に近いマイノリティ)の支援に駆け付けることになる。そこでイランの存在感が増しているのは事実だ。その問題はどう解決できるのか、イスラム世界はまだ解を見つけていない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

韓国映画「タクシー運転手」と光州事件

2018年05月07日 23時10分37秒 |  〃  (新作外国映画)
 2017年の韓国映画「タクシー運転手 約束は海を越えて」(택시운전사)が公開されている。1980年に起こった「光州事件秘話」で、ウェルメイドなエンタメ映画でありながら、民主化運動の歴史をこうして語り継いでいくんだという気概にあふれている。韓国で大ヒットし、大鐘賞作品賞を得た。とても面白いし、隣国の現代史を知る意味でも当時を知らない世代に見て欲しい映画。

 1970年代の韓国ではパク・チョンヒ(朴正熙)大統領の軍事独裁が続いていたが、1979年10月26日に中央情報部長のキム・チェグが大統領を暗殺した。当時このニュースを聞いたときは、非常にビックリしたことが思い出される。1980年には民主化の期待が進み「ソウルの春」と呼ばれたが、チョン・ドゥファン(全斗煥)を中心にした軍部強硬派は5月17日に戒厳令を布告した。

 有力野党政治家のキム・デジュン(金大中)、キム・ヨンサム(金泳三)等も拘束され、金大中の地盤だった全羅道の中心地、光州(クァンジュ)では学生・市民のデモが戒厳軍によって強圧的に弾圧された。怒った市民が決起し20万にも増加し、一時は市民が全羅道庁を占拠した。戒厳軍は光州市を包囲し、戦車で制圧し多くの死傷者が出た。今では、「民主化運動」として評価されている。2007年製作のアン・ソンギ主演の映画「光州5.18」を見ると事態の本質をよく理解できる。

 さて、今回の「タクシー運転手」はソウルに住む貧しい運転手の話である。妻に死なれ幼い娘とともに貸家に住んでいる。社会的関心など全然なくて、デモ隊を見れば「学生はいい気なもんだ」とつぶやいている。金に困っていて、外国人が光州までの運転手を探していると聞いて、それは他の運転手のことなんだけど、ずるがしこく横取りする。光州がどうなっているか、全然知らないのである。この貧しき庶民であるタクシー運転手を名優ソン・ガンホが演じて、全く飽きさせない。悪い奴じゃないけど、結構うっとうしい、そんな役柄がはまっている。

 日本にいたドイツ人記者ピーターは光州で起こっていることを世界に伝えたいとソウルに飛ぶ。ユルゲン・ヒンツペーターという記者がモデルである。そこは実話だけど、この運転手は映画化段階では判ってなくて、運転手のエピソードは創作された。うまい話だと高速道路を一路飛ばしていくが、戒厳軍が通行禁止にしている。さあ、どうする? 光州に入れるか、そして取材できるか、無事に金浦空港まで戻れるのか? そういったサスペンスを織り込みながら、一庶民が権力の横暴を目の当たりにして義憤にかられ市民への連帯感が湧き起こる様を説得的に描いている。

 これはよく出来たエンタメ映画で、音楽や撮影なども感情過多に作られている。監督のチャン・フン(1975~)は「映画は映画だ」や「高地戦」などを作った人で、作家性と商業性のバランスがいい。当時を知らない世代なのに、実に時代の空気をうまく描いている。しかし、やはりソン・ガンホ(1967~)の映画というべきだろう。「シュリ」「JSA」などで有名になり、「殺人の追憶」(2003)の刑事役で圧倒的な熱演を見せた。「大統領の理髪師」や「シークレット・サンシャイン」なんかの名演に比べれば、「弁護人」やこの映画はもう全然難しくないと思うけど、やっぱりすごい。
 (ソン・ガンホ)
 僕が初めて韓国へ行ったのが、1980年。大田(テジョン)の学生たちとハンセン病回復者定着村ワーク・キャンプに参加した。この映画の学生たちの様子は、実に「あんな感じ」だ。そして僕はキャンプ終了後に、一人で光州へ行ってみた。ハングルは勉強していたけど、自由に話せるほどじゃない。何とか夜行寝台で朝早く光州へ着いた。もちろん何の痕跡も判らないけど、要所に警戒が続いていたのは怖かった。ただ歩き回っただけなんだけど、それだけでも自分の目で見たかった。それから普通列車で韓国西南の町、ヨス(麗水)に行ったが、車内で歌を歌い踊りあう民衆の姿に圧倒されてしまった。その後船で南岸を周ろうかと思ったが、悪天候で観光船が運休になって、電車でプサンまで行った。そんなことを思い出して見た映画。

 ところでスコセッシの大傑作「タクシー・ドライバー」、リュック・ベンソン製作のアクション「TAXI」、イランのジャファル・パナヒが映画製作を禁止されてタクシー運転手になって車内の様子を編集した「人生タクシー」、崔洋一が在日朝鮮人の運転手を描いた「月はどっちに出ている」、こうしてみるとタクシー運転手の映画も結構多彩である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武田清子、金賛汀、野添憲治等-2018年3・4月の訃報③

2018年05月06日 23時12分37秒 | 追悼
 2018年3,4月の訃報のまとめとして、著作を通して知っていた人を中心に。まず思想史家の武田清子さん。2017.6.20~2018.4.12、100歳。いやあ、100歳だったのか。経済史の長幸男氏の夫人だったから、戸籍名は確かに長清子だけど、何も新聞に戸籍名で訃報を載せなくてもいいじゃないか。(そういう新聞があった。)神戸女学院を出て、1939年に日米交換留学生として訪米。アメリカでラインホルト・ニーバーの知遇を得て、日米開戦後もアメリカにとどまった。戦前の米国留学経験者が今まで存命だったのかと感慨を持つ。一般的に一番有名なのは「天皇観の相克」(1978)だろう。これは70年代に現代史に関心があった人は全員読んだ。(少なくとも僕の周辺では。)内容的にも大変刺激的で、その後の研究のベースになっている。岩波現代文庫にある。
(武田清子)
新崎盛暉氏は沖縄現代史の研究家で、沖縄大学名誉教授。1936~2018.3.31、82歳。一般向けの著作も多く、特に岩波新書の中野好夫・新崎共著「沖縄戦後史」(1976)、「沖縄現代史」(1996)の2著があるから、社会問題や現代史に関心があり、沖縄の現代詩を知りたい人がまず読んだと思う。その他数多くの著作があり、僕の沖縄理解のベースになったかも。
金賛汀(キム・チャンジョン)氏は、在日朝鮮人の立場から数多くのノンフィクションを書いた。1937~2018.4.2、81歳。朝鮮大学校を出て、当初は朝鮮総連系の記者をしていたが、70年代半ばから組織に疑問を持ちフリーで著作活動を始めた。「在日朝鮮人現代民衆史」の先駆け的な存在で、「雨の慟哭」「火の慟哭」で注目され、次第にいじめ問題、朝鮮現代史なども追及した。「抵抗詩人尹東柱の死」「関釜連絡船」などずいぶん読んでると思う。晩年は新潮新書の「朝鮮総連」など総連批判、金日成神話解体の本が多いが、この人の本は読む意味がある。
   (順に新崎、金、野添)
・秋田県で民衆史のノンフィクションを書き続けた野添憲治氏が亡くなった。1935~2018.4.8、83歳。本名が山田市右エ門というのは、ちょっと驚いた。何といってもこの人は、花岡事件である。秋田県の花岡鉱山に強制連行された中国人労働者が、虐待に耐えかねて敗戦間近の1945年6月に大規模な蜂起をした事件である。日本人4名が死んだが、その後中国人労働者419人が死んだ。敗戦後、藤田組や鹿島組の関係者らがB級戦犯に問われた。この事件を現地で問い続けたのが野添で、1975年の「花岡事件の人々」は後に現代教養文庫に入って多くの人に読まれたと思う。花岡事件関連本だけで10冊以上あると思うが、他にも出稼ぎ、小作争議、マタギ、農林業の人々など秋田に根を張って書き続けた。もっと大きく取り上げられるべき訃報だったと思う。

・他に推理作家内田康夫(3.13没、83歳)、考古学者で弥生時代研究で知られる金関恕(かなせきひろし、3.13没、90歳)、元原水協代表理事の吉田嘉清(3.21没、92歳)、「嘆きのボイン」で知られた上方落語の月亭可朝(3.28没、80歳)、浜松ホトニクス創業者でカミオカンデ製作に貢献した晝馬輝夫(ひるま・てるお、3.29没、91歳)、元駐米大使・大河原良雄(3.29没、99歳)
・元大蔵次官でJT社長や東証理事長を歴任した長岡実(4.2没、92歳)、「キムチとお新香」で知られた比較文化学者、金両基(キム・ヤンキ、4.2没、84歳)は在日韓国人初の公立大教授として静岡県立大教授になった、「信長の棺」などの作家、加藤廣(ひろし、4.7没、87歳)、元宝塚トップスターの順みつき(4.17没、70歳)
  (内田康夫、月亭可朝)
 外国人では、フランスのデザイナー、ユベール・ド・ジバンシィ(3.10没、91歳)、横綱白鵬の父、ジジド・ムンフバト(4.9没、76歳)、元米大統領夫人のバーバラ・ブッシュ(4.17没、92歳)など。ミステリー作家のフィリップ・カーも82歳で亡くなったと訃報が出ていたが(3.23没)、名前だけ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミロス・フォアマン、高畑勲、崔銀姫-2018年3・4月の訃報②

2018年05月05日 23時31分30秒 | 追悼
 映画監督などの訃報をまとめて。ミロシュ・フォアマン(1932~2018.4.13、86歳)は、もともとチェコの映画監督で、1968年のワルシャワ条約軍のチェコスロヴァキア侵攻以後にアメリカに渡った。旧ソ連圏を離れて欧米で活躍した人は多いけど、フォアマンはアカデミー監督賞を2回受賞したんだから、もっとも成功した人である。「カッコーの巣の上で」(1975)と「アマデウス」(1984)の2作だが、どっちも作品賞も受賞してる文句なしの傑作だった。

 チェコ時代の監督作品も映画祭などで上映されている。「ブロンドの恋」(1965)や「火事だよ!カワイ子ちゃん」(1967)は、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた。どっちも政治的、社会的な映画というより、自由で伸び伸びしたタッチで作られていて、「カッコー」のジャック・ニコルソンや「アマデウス」のモーツァルトに通じている。大体チェコ・ヌーヴェルヴァーグには軽妙な映画が多く、ポーランド映画の重厚さはなかった。そこがアメリカで開化した理由でもあるだろう。「アマデウス」は最初フォアマンが? と思ったけど、モーツァルトの交響曲38番は「プラハ」だし、チェコとモーツァルトは縁が深かったということだろう。(同じハプスブルク帝国の支配だったし。)この2作以外は見逃しが多いけど、「カッコーの巣の上で」をもう一回見たいな。

 高畑勲監督はその日に一度書いているけど、この前新文芸座で追悼特集を見た。「赤毛のアン グリーンゲイブルスへの道」はテレビ作品をまとめなおしたものだけど、カナダ、スイス(ハイジ)の風景美は「おもひでぽろぽろ」や「平成狸合戦ぽんぽこ」につながるものがある。そして高畑にとっても宮崎駿にとっても原点と言える「太陽の王子ホルスの大冒険」。アイヌ民話的要素は少なく、グルンワルドやヒルダといった人名は「北欧的」だ。どうもスタジオジブリには北方ロマンティシズムが多い。すごく面白いけど、60年代民衆抵抗史観という感じ。声優も平幹二郎、東野英治郎、市原悦子、三島雅夫など60年代名作っぽい。大島渚の「忍者武芸帳」と二本立てで見てみたい。

 イタリアのタヴィアーノ兄弟の兄の方、ヴィットリオ・タヴィアーニ(1929~2018.4.15、88歳)が死去した。今はベルギーのダルデンヌ兄弟、アメリカのコーエン兄弟のように、兄弟で映画製作をするのも珍しくないけど、70年代にタヴィアーノ兄弟の映画が紹介されたときは、そんなのもありなのかと思った。芸術は個人に属すると思ってたからだが、映画はもともと共同性が高い。でも各シーンを交互に演出したというのは珍しいんじゃなかろうか。
 (右がヴィットリオ)
 77年のカンヌ最高賞「父パードレ・パドローネ」のサルデーニャ島の荒涼たる風景が忘れられない。戦時下のレジスタンスを扱う「サン・ロレンツォの夜」も素晴らしかった。日本では「グッドモーニング・バビロン!」(1987)がグリフィスの大作無声映画「イントレランス」製作に参加したイタリア人兄弟を描いてベストワンになるほど評判になった。僕は「カオス・シチリア物語」(1984)というピランデッロ原作の映画化もシチリアのローカル色が面白かった。イタリア映画は昔はよく見たもので、タヴィアーニ兄弟も「復活」や「塀の中のジュリアス・シーザー」も見たが、80年代までが全盛期。

 韓国の女優、チェ・ウニ崔銀姫、1926~2018.4.16、91歳)が亡くなった。夫のシン・サンオク(申相玉)とともに作った映画で主演を務め、50年代、60年代の大スターだった。でも多分、1978年にキム・ジョンイルの指示により北朝鮮に拉致されたことで記憶されるだろう。その時は離婚していたシン・サンオクも拉致され、北で映画を作った。チェ・ウニも主演女優として「活躍」したが、映画祭で東欧にいた時に米大使館に駆け込んだ。その当時のことは、キム・ジョンイル時代を考えるときに重大な証言になる。しかし、そういう問題は置いといて、韓国映画史上ものすごく重要な女優だ。日本映画で言えば、大映の京マチ子、山本富士子、若尾文子を全部合わせたような役柄を演じていて、独立から朝鮮戦争、復興へと至る時代を象徴する大女優だった。
  (右は若いころ)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

衣笠祥雄、ホーキンス、竹本住太夫-2018年3・4月の訃報①

2018年05月04日 22時38分35秒 | 追悼
 2018年3月の訃報特集は書かなかったので、4月と合わせて書くことにする。映画人や学者などの訃報は別に書きたいので、まずその他から。新聞1面で取り上げられたのは、衣笠祥雄ホーキング竹本住太夫だった。鉄人と博士と人間国宝である。
  
 僕の若いころ、プロ野球では広島カープだけが優勝経験がなかった。その広島が初優勝を決めたのは、1975年10月15日、デイゲームの後楽園球場。その日、僕は球場の付近に行っていた。大学の友人と一緒だったから、多分急な休講で時間が空いて、じゃあ皆で見に行くかということだったんじゃないか。でもチケットは売り切れで周辺で歓声を聞いて優勝を知った。東京ドームができるのは1988年だから、その頃は外でも音が聞こえたわけだ。その年は初の外国人監督ルーツを迎え、一塁手衣笠は監督によって三塁手にコンバートされた。ルーツは早々に辞任し古葉監督に代わったが、山本浩二衣笠祥雄を中心にして「赤ヘル旋風」と呼ばれ優勝した。
 (2011年、リプケンと被災地を訪れた時)
 衣笠祥雄(1947~2018.4.23、71歳)は、1964年に京都・平安高校で甲子園春夏ともベスト8。この頃の注目選手だったら、大体高校から知っていた。1965年にカープに入団し、68年からレギュラー。衣笠と言えば、なんといっても連続出場試合記録。1970年10月19日の巨人戦から、1987年10月22日の大洋戦まで、2215試合の連続出場を果たした。ゲーリッグの大リーグ記録(2130)を超えたとして、国民栄誉賞も受けた。通算安打2543本は歴代5位、通算ホームラン504本は歴代7位。タイトルは84年の打点王しかなく、どうしても打撃は山本浩二に及ばないイメージが強い。しかし、通算安打は山本浩二は2339本、14位で、衣笠が大きく上回っている。

 そういう「鉄人」が71歳で亡くなったのは早すぎる感じだが、やはり現役時代の無理が重なっていたんだろう。死球を受けても次の日に出場するなど、ニュースで何度もやってた。星野仙一も同様で、プロスポーツ選手の大変さなんだと思う。その後大リーグの連続試合出場記録は、カル・リプケンの2632試合という凄い人が出た。リプケンは東日本大震災の時に、衣笠とともに被災地も訪れた。訃報を聞いて思い出したが、二人に友情が生まれたのも素晴らしいと思う。

 「鉄人」で長くなってしまった。スティーヴン・ホーキング(1942~2018.3.14,76歳)は、「車いすの天才学者」として知られ、多くの著作とともに世界で有名になった。21歳の頃、「筋萎縮性側索硬化症」(ALS)と診断されたが、研究を続けて32歳で史上最年少の英国学士院会員となった。若い時期のことは映画「博士と彼女のセオリー」になったが、うっかり見逃してしまった。相対性理論と量子力学を駆使して新しい分野を切り開いたというけど、もうそこまでの話はよく判らない。85年以後、常時看護が必要になり、一般向けの本を書き始めた。指が使えなくなると、顔の筋肉の動きをコンピュータが人工音声に変換して講演活動も続けた。博士も鉄人だった。

 文楽の人間国宝、7代目竹本住太夫(たけもと・すみだゆう、1924~2018.3.28、93歳)もまた「鉄人」である。2014年5月の引退まで、芸歴68年に及んだ。文楽は人形遣いと浄瑠璃語りと三味線伴奏がいるわけだが、住太夫は語りとして最高峰と言われた。人間国宝、文化勲章だけでなく、フランス芸術文化勲章なんかも受けている。稽古に厳しいことで知られ、自分にも厳しいが弟子にも厳しい。1日に浅草で桂吉坊と玉川奈々福の会を見たんだけど、上方落語の桂吉坊は葬儀のあとで東京に来たと語っていた。昔から住太夫を聞いていて、大阪の国立文楽劇場の公演を聞くと楽屋の行こうとすると、厳しい叱責の声が響いてきて近づけなかったと言っていた。多分、僕も一回ぐらいは聞いているんだと思う。

 能楽一噌流の笛方、一噌仙幸(いっそう・ひさゆき、4月24日没、77歳)、琉球古典音楽の島袋正雄(4月24日没、95歳)も人間国宝(重要無形文化財保持者)だった人。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

乃木坂散歩

2018年05月03日 23時05分11秒 | 東京関東散歩
 国立新美術館は地下鉄千代田線乃木坂駅に直結している。乃木坂駅は国立新美術館青山葬儀所の最寄り駅である。でも乃木坂そのものを知らない。名前の由来の旧乃木邸も知らない。乃木神社も知らない。明治神宮も靖国神社も行ったことがないんだから、乃木神社に行くわけない。でもまあ人生に一回ぐらい行ってもいいかなと思って、美術館に行くついでに寄ってみた。美術館と逆側の改札を出て、神社の鳥居のそばに坂の碑が立てられていた。
  
 乃木坂と言えば「乃木坂46」だという世代じゃない。乃木大将だという世代でもない。じゃあ何だと言われると、「別れても好きな人」である。ロス・インディオス&シルヴィアである。調べると、1979年発売で1980年にかけヒットした。「昭和のムード歌謡」の名曲で、この前も春風亭昇太がテレビで歌ってた。佐々木勉の作詞作曲で、この人は「3年目の浮気」も作っている。その曲の2番に「ちょっぴり寂しい乃木坂」とある。1番は渋谷、原宿、赤坂で、2番が高輪、乃木坂、(赤坂)一ツ木通り。この順番が何とも言えない。そうなんだ、ちょっぴり寂しいのかと印象付けられた。
      
 地下鉄出口1番を出て鳥居をくぐると、右奥に神社、左手の林を昇っていくと旧乃木邸乃木公園。坂上に入り口があって、旧乃木邸がある。普段は外部のみの見学だが、乃木将軍の命日の9月13日に内部も公開されているという。上の写真3枚目は公園から見た外壁で、4枚目はその外壁の隣にある厩舎(馬屋)。神社は空襲で焼けたとあるが、旧乃木邸は何も書かれてないから当時のままなんだと思う。1902年建造で、フランスで見た連隊本部を参考にして乃木が設計したという。那須にある別荘は和風建築だが、こっちはちょっと違う。
    
 中は見られないが周りに回廊があって、ガラス戸越しに中を見られる。下の写真最初が乃木将軍の部屋、次は夫人の部屋。外の風景がガラスに映ってよく判らない。明治天皇の死は1912年7月30日で、学習院院長だった乃木希典(まれすけ)が殉死したのは、9月13日の大葬の日。正直言って、僕は乃木将軍にほとんど関心がない。司馬遼太郎の「殉死」ぐらいは読んでるし、漱石の「こころ」を読めば当時の人が大きなショックを受けたことが判る。でも、近代になって「殉死」するのは間違いだ。妻を道連れにした(静子夫人は自ら懐剣で心臓を刺したとされる)のも良くない。
 
 乃木坂は「幽霊坂」と呼ばれたが、1913年に当時の赤坂区議会が改名を議決した。乃木神社は震災直後の1923年11月1日に鎮座祭が行われた。有名ではあるが、ただの軍人である乃木や東郷平八郎でも死ねば神社になる。フシギだなあ。乃木坂という地名はない。赤坂、青山、六本木のそれぞれ外れの方にあり、1972年に地下鉄千代田線の駅名に採用されて定着したと思う。「乃木坂46」はSME乃木坂ビルでオーディションがあったため。今は乃木坂駅の発着メロディも乃木坂46の「君の名は希望」が採用されている。乃木坂トンネルの向こうが美術館などがあるところ。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」を見る

2018年05月02日 21時17分30秒 | アート
 国立新美術館で7日まで開かれている「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」の終わりが近くなってきたから、ちょっと前に見に行った。半数が日本初公開だと言うし、「絵画史上、最強の美少女(センター)。」とか「セザンヌ、奇跡の少年(ギャルソン)。」とか大宣伝してるからやっぱり見ておきたい。前者はルノワール「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢(可愛いイレーヌ)」で、後者は「赤いチョッキの少年)」。「美少女」に「センター」なんてルビを振るのはどうなんだと思うが。

 「ビュールレ・コレクション」は、スイスの大実業家エミール・ゲオルク・ビュールレ(1890-1956年)のコレクションで、「主に17世紀のオランダ絵画から20世紀の近代絵画に至る作品、中でも印象派・ポスト印象派の作品は傑作中の傑作が揃い」と解説に出ている。チューリヒの個人美術館で公開していたが、2008年に国際盗賊団の襲撃を受け、セザンヌ、ドガ、モネ、ゴッホの4点(被害額総計175億円)が盗まれた。チラシにある「赤いチョッキの少年」も盗まれ、2014年にセルビアの首都ベオグラードで発見された。個人美術館では警備費の負担が大きいため、コレクションはチューリヒ美術館に移管されることになり、その間に日本公開が実現したわけである。

 そういう事情を考えると奇跡的な展覧会で、印象派を中心とするたくさんの有名画家の素晴らしい絵が並んでいる。だけど、まあセザンヌやゴッホやモネやマネやドガやルノワールや…の印象がガラッと変わってしまうわけではない。僕らが今まで知っている既知の絵画観に沿った美しさで、絵に浸ることはできるけど衝撃を受けるわけではない。ヴェネツィアの風景画なんかを見て、まさしくヨーロッパの美意識に触れているなあと思う喜びをただ感じていればいいのかなあと思って見て回る。混んではいるけど、連休中は夜8時までやってるから夕方に行けばそこそこだった。

 ルノワールの美少女もいいけど、他の絵を先に挙げておくと、アントーニオ・カナール(カナレット)《サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂、ヴェネツィア》という18世紀前半に書かれた風景画。まるで早く書かれた印象派のような素晴らしさ。カミーユ・ピサロ《ルーヴシエンヌの雪道》は普仏戦争で自宅がプロイセン軍に占拠される直前に描かれたパリ郊外。ゴッホは盗難作品も出ているけど、僕は《日没を背に種まく人》が構図的にも面白かった。モネの睡蓮はいろんな絵を見てるわけだが、4メートルにもなる長い絵が出ている。これは写真が撮れるので僕が撮ったもの。
   
 ピエール=オーギュスト・ルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」は1880年に描かれた。モデルは当時8歳で、ベルギー出身の銀行家ダンヴェール伯爵の長女イレーヌ。1872年に生まれ、1963年に亡くなったイレーヌの生涯は悲しみの多いものだった。ユダヤ系のイレーヌは、娘と二人の孫をアウシュヴィッツで失った。この絵もナチスに接収されベルリンに移されたが、戦後になってイレーヌに返還された。その後、コレクターのビュールレが競売で入手したが、展覧会の説明では「大実業家」となってるビュールレは、実は武器商人でナチスにも売って儲けたんだという。イレーヌ本人は小さい時からこの絵が好きじゃなかったというが、僕も見ていると何だか世の中の無常を予言しているかのような憂愁の美少女という感じがしてくるのだった。
(「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする