私は、、余り自分の身の振り方を人に相談しない人間ですが、、
人から相談を受ける時、、しばしば困惑することがあります。
例えば、自分に無い知識や情報を頼りに相談をするとか、相手の都合との折衝が必要だとか、そういう意味の相談ならきちんとしたいと思うけれど、生き方の問題であるとか、好悪の問題であるとか、、、そういうものに対して私は意見を曲げない人間であって、そういう相手に相談をするというのは、初めから答えが判っているはずじゃないか、、とそう思うのです。もし私をよく解ってくれているのであれば、どう私が答えるか判る筈じゃないかと、そう思う。それがわからないのなら、そんな相手に相談をするのは却って不安ではないの、、?
つまり、、不安な相手にさえ話を持ちかけるというのは、おのずから回答はその人の胸の内にあって、ただ自分の思いを誰かに保証してもらいたい、「そうだね、私もそう思う」という言葉で安心したい為にするのだと、、。たまに、私は、、相手の人が求めている答えが見えていながら、でも肯定はしてあげられないんだけど、、、と困ってしまうことがあります。。結局、自分と同じ答えを求めているだけなのだから、、。
清志郎とチャボさんの掛け合いの歌、、「ワカっていてくれる~」というのが昔から大好きだった。
ワカっていてくれるなら、相談なんて、必要ないのだ。事実を伝えるだけで、それで伝わる。
***
ホレーシオが言うように、理智は何事をも知りはしない。理智はすべてを常識化し、
神話に通俗の解説をする。しかも宇宙の隠れた意味は、常に通俗以上である。だから
すべての哲学者は、彼等の窮理の最後に来て、いつも詩人の前に兜を脱いでる。詩人
の直覚する超常識の宇宙だけが、真のメタフィジックの実在なのだ。
(萩原朔太郎「猫町」昭和10年)
このくだりを読んで、そっと微笑を洩らしてしまいました。朔太郎の詩人に対する信奉の糸が、まだきらりと光るのが見えるようで、、。最近では、宇宙はモバイル機器の電波だらけで、詩人の直覚も少々混乱気味かもしれませんけれど。
このところ、赤い月が夜半の街にかかっています。「猫町」に似合いそうな、真夏の夜の月。
人から相談を受ける時、、しばしば困惑することがあります。
例えば、自分に無い知識や情報を頼りに相談をするとか、相手の都合との折衝が必要だとか、そういう意味の相談ならきちんとしたいと思うけれど、生き方の問題であるとか、好悪の問題であるとか、、、そういうものに対して私は意見を曲げない人間であって、そういう相手に相談をするというのは、初めから答えが判っているはずじゃないか、、とそう思うのです。もし私をよく解ってくれているのであれば、どう私が答えるか判る筈じゃないかと、そう思う。それがわからないのなら、そんな相手に相談をするのは却って不安ではないの、、?
つまり、、不安な相手にさえ話を持ちかけるというのは、おのずから回答はその人の胸の内にあって、ただ自分の思いを誰かに保証してもらいたい、「そうだね、私もそう思う」という言葉で安心したい為にするのだと、、。たまに、私は、、相手の人が求めている答えが見えていながら、でも肯定はしてあげられないんだけど、、、と困ってしまうことがあります。。結局、自分と同じ答えを求めているだけなのだから、、。
清志郎とチャボさんの掛け合いの歌、、「ワカっていてくれる~」というのが昔から大好きだった。
ワカっていてくれるなら、相談なんて、必要ないのだ。事実を伝えるだけで、それで伝わる。
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ホレーシオが言うように、理智は何事をも知りはしない。理智はすべてを常識化し、
神話に通俗の解説をする。しかも宇宙の隠れた意味は、常に通俗以上である。だから
すべての哲学者は、彼等の窮理の最後に来て、いつも詩人の前に兜を脱いでる。詩人
の直覚する超常識の宇宙だけが、真のメタフィジックの実在なのだ。
(萩原朔太郎「猫町」昭和10年)
このくだりを読んで、そっと微笑を洩らしてしまいました。朔太郎の詩人に対する信奉の糸が、まだきらりと光るのが見えるようで、、。最近では、宇宙はモバイル機器の電波だらけで、詩人の直覚も少々混乱気味かもしれませんけれど。
このところ、赤い月が夜半の街にかかっています。「猫町」に似合いそうな、真夏の夜の月。