ここまで聴いてきたなかで、 この第11曲ほど 曲調と速さの浮き沈みの変化が激しい曲はなかったように思います。。
旅人は 炭焼き小屋で眠りにつき 《春の夢》を見ます。 それは言うまでもなく あの女性と過ごした5月の日々のこと、、 夢から覚めた瞬間の高揚した気分は… まるでお花畑で飛び跳ねているかのような、、
そのあと 雄鶏の声に覚まさせられ 自分が寒い小屋にいることに気づく混乱…
凍った窓には 氷の結晶がまるで葉のようにひろがっているのを見つけ、 そんな氷の絵を描いた者らは、 暖かな春の夢を見ていた自分を嗤うだろう、、と 自嘲する時の 深い落ち込み、、
、、《春の夢》を想う躁状態から、 現実に引き戻される急転、、 さらに今の自分を嗤うかのような嘆き、、 詩の一連ごとに気持ちのアップ&ダウンが表現され、 それが一度ならず、、 もう一回《春の夢》に立ち返って心が浮き立ち、 再び雄鶏の声に引き戻され… 最後は、、
窓の氷の葉模様はいつになったら緑になるのか… 私はいつ愛する人を腕に抱けるのか… (と、叶わぬ願いを口ずさみ) 、、ピアノはずーーん、、と 絶望的な嘆きの音色で終わる。。
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寒い寒い朝に 窓ガラスに霜の花が咲いたように模様を描くのを見たのは もうずっと昔の子供の頃だけですが とても美しく不思議な現象でした。
夢で暖かな花園を見た旅人が、 目覚めて窓に凍った白い結晶の葉模様を見て、 まるで氷の精かなにかが 寝ている自分を覗きながら窓に描いたように思う、、 少し悲しいけれどとても詩情あふれる美しい光景です。 目覚めた旅人の嬉しさも混乱も孤独も、、 痛々しく感じられ そっと見守ってあげたいような気持ちになります。
けれども、 ここでのボストリッジさんはその旅人の心に寄り添うのではなく、 窓に氷の葉模様を見て そこに精霊や神の働きを感じるような浪漫的イマジネーションと、 氷の現象にはなんら神秘の手が働いていないことを解明する科学の歴史との 文学と科学のせめぎ合いを多数の例を挙げて (いささかアイロニカルに)語ります。
、、最初にこの章を読んだとき、、(もう これだから英国知識階級には浪漫の欠片も無いのよね…) と苦笑してしまいました。。 まるで人知の及ばない不可思議などこの現実世界には存在しない とでも…?
(もちろんちゃんと読むとボストリッジさんの意図はそんなことでは無いと分りますが)
そのことを理解するためには ボストリッジさんの言葉…
「…この連作歌曲集では、自然界における人間の立場にかんする問題 …(略)…が大きな関心の対象となっている」
、、の箇所をよく考えてみなければいけません。。 (え、そうなのですか? …この冬の旅とは失恋の青年の旅立ちではないのですか…? 或は 前に読んだように 当時の政治的背景にもとづく思想・行動を暗示する旅とか…) 、、更に、 自然界における人間の立場、ですか……? 、、むずかしくなってきました。。
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天から降る氷の粒が あの美しく複雑な雪の結晶のかたちであるのも、 窓ガラスが凍って葉模様の絵が描かれるのも、、 自然界のおどろくべき奇跡としか言いようがないし、 なぜそんな不思議で美しい現象が起こるのか まるで精霊か何者かの魔法と感じるのも当然だし、、 そのような自然の不可思議のなかで 人間はただ魅了され、、 ただ驚くだけの無力な存在でいなければなりません。。 でも無力だからこそ、 自然は無数の奇跡をわたしたちに見せてくれているような気がします…
… ここまで書いていて なんとなく思いました。。 人の心もいろんな事に対してじつに無力です、、 例えば恋についても。。 無力ゆえに旅人は思い出さずにはいられないのですし、 美しい《春の夢》を見てしまうのですね。
、、この旅人(シューベルトやミュラーの表現する)は近代の人間です。 ボストリッジさんもまた、主に近代以降の文学や思想を引き合いに出して語っています。。 もう少し、 いえもっともっと古代の人の目で《ガラスの葉模様》や《春の夢》を見たらば、、 この旅人の苦しみはもっとちいさなものになるはずでは…?
プリミティヴな人々や万葉の時代であれば、 夢も雪の結晶も霜の絵も ここにいない誰かの魂や幻の手が為した事と、自然とそう考えることでしょう。。 そして純粋な喜びにつつまれることでしょう。。
夕さらば屋戸開け設けて我れ待たむ夢に相見に来むといふ人を
―― 大伴家持
万葉の時代にガラス窓はありませんでしたけど、 もしもこの歌のように夢に想いの人が訪れてくれるのを待つ男ならば、 窓に霜の葉模様が描かれていたら きっとすばらしい恋文を送ってもらえたと思い、 魂が訪れてくれたことを喜ぶことでしょう、、
霜の葉は決して緑に変わることはない… と、 近代に生きる旅人には 夢と現実の境界が明らかであるがゆえに 突きつけられる現実は冷酷で、 だから夢想を切り捨てて 新たな現実世界の旅へ戻っていく自分にまた向き合わなければならない。。 そういう現実的・現代的な苦しみなのですね。。
ボストリッジさんのアイロニーは そこのところを踏まえてのことなのかもしれません…
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、、『嵐が丘』の 枯れ枝が窓を引っ掻く音に、 幽霊になって入ってこい! と叫んでいたヒースクリフ。
あの激情が むしろ羨むべき真情に思えます……