GW終わりましたね。
(じつは8日に書こうとしていたこの日記、UPできずにいました)
お天気も良く、愉しく出掛けられた半面、、心のなかにはものすごく複雑な苦しさの塊もある、、 そんな連休の日々でした。 私個人の出来事じゃありませんけど、、 分かってくれる人には分かってもらえる… かなと、、
このGWに出掛けた分を含めて、まだ書いていなかった美術展の感想を、、 まとめて…
***
GWには ふたつの美術展に行きました。
ジョルジュ・ブラック展絵画から立体への変容 ―メタモルフォーシス
パナソニック汐留ミュージアム(ウェブサイト>>) 会期6月24日まで
ピカソと並ぶキュビズムの画家、 ジョルジュ・ブラックが最晩年に ジュエリーなどの立体作品を創っていたということは 全然知りませんでした。 なので行くまで なかなかぴんと来なくて…
…でも 考えてみれば、 ピカソも年をとってから、陶芸などとても沢山のキュートな造形を創っていたし、、。
ピカソの事はよく知られているのに、 ジョルジュ・ブラックのジュエリーや陶器などの作品がまとめて紹介されるのは 日本では初めてだということです。 一緒に行った美術系出身の友も「知らなかった」と言ってました。。
ギリシャ神話をモチーフにした陶磁器や、 きらびやかなジュエリー作品。。 ジュエリーは美しい~女優さんでもなければ なかなか似合いそうもない豪華なものでしたが、 陶磁器はもし小ぶりだったら 使ったり飾ったりしてみたい、 そんなシックで気品のあるものが多かったです。
1963年に、パリ装飾美術館で「ブラック・ジュエリー展」が開催されたそうですが、 残念ながらブラック本人はもう会場まで足を運べる体調ではなかったそうです。 本当に人生の最晩年に、 絵画ではなく身に着け、触れて、生活空間に共に在ることの出来る美。 そんな美的生活を彩る立体造形を、求めていたんですね。。 晩年、枯れていくのではなく煌びやかに、 美しく… そのエネルギーというか美意識…
一番気に入ったのが、 ドーム工房がブラックの図案を基に創った ガラス作品や、 没後、ブラックの絵をもとに 「ゲマイユ」という、何層もガラスを重ねたり組み合わせたりして創ったステンドグラス、、 これがブラックの絵の雰囲気にもとても合っていて、 やはりキュビズムの線や形と色ガラスとか鉱物の形の組み合わせというのは似合うような気がします。 あのステンドグラスが装飾としてどこかカフェとか、 ギャラリーとか あったら素敵だなぁ、、 そんな家に住んでみたい。。
ブラックさんと写真を撮れる椅子のコーナー
***
Re 又造 ~又造が未来に夢見たアート展~ 5/5終了
ウェブサイト>>
会期終了直前に行けました。 加山又造展。
初めて行った EBiS303というイベントスペース。 1Fが自動車のショールームになっていて、 その屋外に又造コラボの車が展示されていました。
ボウイ展の時も、 イナズマをあしらった車が展示されていましたけど、 又造の代表的な意匠を存分に全面に配していて あれは塗装ではなくて 特殊な印刷技術なのでしょうね、、 すっごい美しかったです。
又造と言えば猫…
会場内の展示もまた凝ったものでした。 オフィシャルページにtrailer がありますね、 どうぞ見てみて。。 床から篝火のような灯りを照らして、 又造の絵のまわりにプロジェクションで桜の花びらがはらはらと舞う… 幻想的で美しい見せ方や、
絵の中に入れる仕掛けや… 皆さん楽しそうに写真を撮っていました。
加山又造の版画や屏風絵は 生前から見ていて大好きでした。。 琳派の日本画の伝統を受け継ぎつつ、 モダンで 洗練されたデザイン、 品の良さ、
版画作品の ブリューゲルっぽいちょっと淋しい感じの「カラス」とか、 「シマウマ」とか、、 今回は展示されていなかったけれど 又造のぼろぼろのカナリヤとか前から大好きなのです。。 20年以上前、 又造展に行って、 その頃はまだ存命中で確か百貨店のギャラリーだったと思うけれど、 「カラス」の版画が販売されていたんですよね、、 そんなに高額でなくて、、(でも東京に出て来たばかりの私にはちょっと躊躇する値段で、 そんな現金はもちろん無いし) 、、いいなぁ、、と思いつつ諦めて…
でも今つくづく思う、、 借金してでも買っておけば良かった、、カラス。。
…あ、 話がカラスになってしまいました。。
16歳の頃に描いた「狐」という作品があって、、 ちょっとクールベの「狐」を痩せさせたみたいな感じで、 すっごく上手でした。 やっぱり天才だなぁ、、と。。 (僕は天才じゃないから…)というような言葉が どこかに書かれていて だから自分に似た者として、 あの淋しそうなカラスや ぼろぼろのカナリヤへの親近感に繋がったそうなのですが、、 何だろう… ぼろぼろでも美しくて品があって可哀想に愛しい可愛さもあって、、 やっぱり天才なんだと思います。
雑誌『新潮』の表紙絵を何点も並べて、 本というか色紙本のように装丁してあったものが展示されていましたが、 一点一点がため息がでるほど素晴らしかった。。 ご実家が西陣織の図案を創るお仕事の家だったからか、 もう何を描いても構図が完璧に、 それが自然に出来てしまうのでしょうね。。
俵屋宗達と本阿弥光悦が組んで描いた「嵯峨本」(光悦本)というのがありますが、 あの美しさをいつも思い出すのです、、 新潮の表紙絵もそのこと想い出しました。
会場の最後は、 ふたつの龍の天井画が。。 天井画の実物は持って来られないので、 原寸大で天井に映し出されていて、 別のスクリーンではそれを描く又造さんの姿が。 長い長い映像が見られるようになっていて、、 スウェットの上下になんだかモコモコした緑のスリッパを履いて そんなかわいい姿で 巨大な龍の天井画に挑んでいる真剣な又造さんをずっとずっと見ていました。。
龍のまわりの雲とか空のおぼろげな部分は、 コンプレッサーを肩にかついでエアブラシでしゅーしゅーと、、。 琳派のたらしこみを巨大な天井画でやろうとして考えたそうで、、 大胆かつ繊細…
又造さんの龍は5本指でした。 また沢山の又造さんの絵、 見てみたいな、、 動物シリーズも。
又造さんのデザインが包装にあしらわれたお菓子
***
「没後40年 熊谷守一 生きるよろこび」東京国立近代美術館
東京国立近代美術館>>
モリカズ展に行ったのは2月の末でした。 だけどなかなか書くことが出来ませんでした。
熊谷守一の絵は何度か見ていましたし、 住まいだった「豊島区立熊谷守一美術館」へも行ったことがあったので、 良く知られている作品は概ね頭の中に入っていたのですが、、
今回、 明治時代の作品 (守一は明治13年生まれ。 明治33年東京美術学校入学、同期が青木繁、和田三造ら)、、 その若き日の、 よく知られた「モリカズ」の画風とは全然違う時期の作品を見て、 なかなかその事が書けずにいました。
明治41年の「轢死」という作品。
この制作年と、画題、そして絵を見たとき、 その場に固まってしまいました。。 すぐに脳裡に浮かんだのが 夏目漱石の『三四郎』(明治41年9月から連載)の中に書かれた「轢死」の描写、、
「三四郎は無言で灯の下を見た。下には死骸が半分ある。汽車は右の肩から乳の下を腰の上までみごとに引きちぎって、斜掛けの胴を置き去りにして行ったのである。顔は無傷である。若い女だ」
、、この漱石の文章を、そのまま画にしたような絵でした。 絵の表面の劣化等で、何が描かれているか殆んど分からないほど、色は暗く、全面塗り潰されたように見えるのですが、 『三四郎』のあの文章を記憶しているので、 守一の絵の中に三四郎とそっくりの女性の轢死の構図が見えました。。 あまりに驚いて、 小声でに「これ、三四郎の…」という話を耳打ちしていたら、、 「ここにも説明がある…」と。 見たら、絵の先に詳しい説明書きがありました。
守一の絵の構図と『三四郎』の轢死の構図が全く同じである為、 どちらかが参考にしたのでは…という話題は以前からあったそうです。 但し、守一の「轢死」のデッサンは『三四郎』掲載よりも以前からあり、、 また、この絵は文展への出品を拒否されているので、漱石がこの絵を見た可能性は無い、と。
では、、この同じ年に描かれ(書かれ)た「轢死」という共通は…
1908年(明治41年)出版の戸川秋骨先生の『時代私観』という本の中に、 「電車とイブセン」という文章があります。 「露西亜に勝った」とありますから、日露戦争後の文章でしょう。 この文章中にも「轢死」が出てきます。 急速に東京中に発達した鉄道網、、 そのことによって起る事故としての「轢死」と、 戦争後の不況や寡婦の増加、そのような時代に現われた列車への飛び込みという「轢死」、、 『三四郎』の女性の「轢死」の場面は自殺でした。 守一は実際に轢死の現場に遭遇したとのことです。 戸川秋骨が「電車とイブセン」で書いている「轢死」も、 テクノロジーの急速に変化した時代の、 事故、自殺、二重の意味で轢死という新しい死を扱っています。
国立国会図書館デジタルコレクションで読めます>>
漱石、守一、秋骨、、 三者が同じ時代に「轢死」について書いて(描いて)いる、というのはやはり「轢死」というものが、前時代には無かったこの時代を象徴する死の有様で、 そのことに対して、作家、芸術家が敏感に感受した顕れなのでしょう。 裏を返せば、漱石、守一、秋骨らが同種の危機感、 死への感受性を備えていた、、と私には思えるのです。
漱石は「死」に取り憑かれたように多くの死を作品に書いた人ですが、 今回、守一の絵の人生にも、これほどまで「死」が深く関係していたことをあらためて知りました。 その作品のひとつ、、 守一の次男の死を描いた 「陽の死んだ日」
大原美術館のサイトにこの絵の説明(と先の轢死の説明も)載っています>>
HP上で見るのと、実物で見るのとでは違い、、実際にはもっと衝撃が大きい作品でした。 横尾忠則さんが twitter でこう感想を書かれていました(>>)(>>)
守一には、 有名な「ヤキバノカエリ」という絵がありますが、、 それも含めて、画業の前半生にどれほど「死」が深く関わっていたか、 今回の展示で知らされました。。 タイトルは 「生きるよろこび」でしたが、 とてもそういうふうには思えなかった。。 晩年の、 自宅の庭の小さな生きものを描く、やさしい眼差しの絵をたくさん見ても、、 そこまで辿り着くまでの深いかなしみの方が 強く心に刺さってしまって、、、
「轢死」の横たわった女性の像を、 キャンバスの縦横を逆にすると女性が起き上がって「生きる」のだ、と、、 そういう構図の女性像もありました。 守一が、 モリカズになってからも、 ずっと考え続けていたテーマなのではと思います。
、、モリカズの絵は好きです。
昔、 ある高齢の画家さんとお友だちでした。 守一に似たところのある、 そしてご自身もきっと守一への憧れを持っていただろうその画家さんの思い出。。
そのかたが、 初めて東京で個展を開いたのが、 モリカズの自宅であるギャラリー「榧」でした。 そこでお話した頃に、もし初期の守一の絵のことを私が知っていたら、、 そしてもし今もその画家さんがご存命だったら、 今回の守一展のことや、「轢死」のことなども、 お話できたのに… と思いつつ、、 モリカズの便箋を記念に買って帰りました。。
モリカズのことを良く知る、 どなたかに宛ててそっと手紙を書いてみたいと…
5月、、 どうぞ健やかな日々を。。
(じつは8日に書こうとしていたこの日記、UPできずにいました)
お天気も良く、愉しく出掛けられた半面、、心のなかにはものすごく複雑な苦しさの塊もある、、 そんな連休の日々でした。 私個人の出来事じゃありませんけど、、 分かってくれる人には分かってもらえる… かなと、、
このGWに出掛けた分を含めて、まだ書いていなかった美術展の感想を、、 まとめて…
***
GWには ふたつの美術展に行きました。
ジョルジュ・ブラック展絵画から立体への変容 ―メタモルフォーシス
パナソニック汐留ミュージアム(ウェブサイト>>) 会期6月24日まで
ピカソと並ぶキュビズムの画家、 ジョルジュ・ブラックが最晩年に ジュエリーなどの立体作品を創っていたということは 全然知りませんでした。 なので行くまで なかなかぴんと来なくて…
…でも 考えてみれば、 ピカソも年をとってから、陶芸などとても沢山のキュートな造形を創っていたし、、。
ピカソの事はよく知られているのに、 ジョルジュ・ブラックのジュエリーや陶器などの作品がまとめて紹介されるのは 日本では初めてだということです。 一緒に行った美術系出身の友も「知らなかった」と言ってました。。
ギリシャ神話をモチーフにした陶磁器や、 きらびやかなジュエリー作品。。 ジュエリーは美しい~女優さんでもなければ なかなか似合いそうもない豪華なものでしたが、 陶磁器はもし小ぶりだったら 使ったり飾ったりしてみたい、 そんなシックで気品のあるものが多かったです。
1963年に、パリ装飾美術館で「ブラック・ジュエリー展」が開催されたそうですが、 残念ながらブラック本人はもう会場まで足を運べる体調ではなかったそうです。 本当に人生の最晩年に、 絵画ではなく身に着け、触れて、生活空間に共に在ることの出来る美。 そんな美的生活を彩る立体造形を、求めていたんですね。。 晩年、枯れていくのではなく煌びやかに、 美しく… そのエネルギーというか美意識…
一番気に入ったのが、 ドーム工房がブラックの図案を基に創った ガラス作品や、 没後、ブラックの絵をもとに 「ゲマイユ」という、何層もガラスを重ねたり組み合わせたりして創ったステンドグラス、、 これがブラックの絵の雰囲気にもとても合っていて、 やはりキュビズムの線や形と色ガラスとか鉱物の形の組み合わせというのは似合うような気がします。 あのステンドグラスが装飾としてどこかカフェとか、 ギャラリーとか あったら素敵だなぁ、、 そんな家に住んでみたい。。
ブラックさんと写真を撮れる椅子のコーナー
***
Re 又造 ~又造が未来に夢見たアート展~ 5/5終了
ウェブサイト>>
会期終了直前に行けました。 加山又造展。
初めて行った EBiS303というイベントスペース。 1Fが自動車のショールームになっていて、 その屋外に又造コラボの車が展示されていました。
ボウイ展の時も、 イナズマをあしらった車が展示されていましたけど、 又造の代表的な意匠を存分に全面に配していて あれは塗装ではなくて 特殊な印刷技術なのでしょうね、、 すっごい美しかったです。
又造と言えば猫…
会場内の展示もまた凝ったものでした。 オフィシャルページにtrailer がありますね、 どうぞ見てみて。。 床から篝火のような灯りを照らして、 又造の絵のまわりにプロジェクションで桜の花びらがはらはらと舞う… 幻想的で美しい見せ方や、
絵の中に入れる仕掛けや… 皆さん楽しそうに写真を撮っていました。
加山又造の版画や屏風絵は 生前から見ていて大好きでした。。 琳派の日本画の伝統を受け継ぎつつ、 モダンで 洗練されたデザイン、 品の良さ、
版画作品の ブリューゲルっぽいちょっと淋しい感じの「カラス」とか、 「シマウマ」とか、、 今回は展示されていなかったけれど 又造のぼろぼろのカナリヤとか前から大好きなのです。。 20年以上前、 又造展に行って、 その頃はまだ存命中で確か百貨店のギャラリーだったと思うけれど、 「カラス」の版画が販売されていたんですよね、、 そんなに高額でなくて、、(でも東京に出て来たばかりの私にはちょっと躊躇する値段で、 そんな現金はもちろん無いし) 、、いいなぁ、、と思いつつ諦めて…
でも今つくづく思う、、 借金してでも買っておけば良かった、、カラス。。
…あ、 話がカラスになってしまいました。。
16歳の頃に描いた「狐」という作品があって、、 ちょっとクールベの「狐」を痩せさせたみたいな感じで、 すっごく上手でした。 やっぱり天才だなぁ、、と。。 (僕は天才じゃないから…)というような言葉が どこかに書かれていて だから自分に似た者として、 あの淋しそうなカラスや ぼろぼろのカナリヤへの親近感に繋がったそうなのですが、、 何だろう… ぼろぼろでも美しくて品があって可哀想に愛しい可愛さもあって、、 やっぱり天才なんだと思います。
雑誌『新潮』の表紙絵を何点も並べて、 本というか色紙本のように装丁してあったものが展示されていましたが、 一点一点がため息がでるほど素晴らしかった。。 ご実家が西陣織の図案を創るお仕事の家だったからか、 もう何を描いても構図が完璧に、 それが自然に出来てしまうのでしょうね。。
俵屋宗達と本阿弥光悦が組んで描いた「嵯峨本」(光悦本)というのがありますが、 あの美しさをいつも思い出すのです、、 新潮の表紙絵もそのこと想い出しました。
会場の最後は、 ふたつの龍の天井画が。。 天井画の実物は持って来られないので、 原寸大で天井に映し出されていて、 別のスクリーンではそれを描く又造さんの姿が。 長い長い映像が見られるようになっていて、、 スウェットの上下になんだかモコモコした緑のスリッパを履いて そんなかわいい姿で 巨大な龍の天井画に挑んでいる真剣な又造さんをずっとずっと見ていました。。
龍のまわりの雲とか空のおぼろげな部分は、 コンプレッサーを肩にかついでエアブラシでしゅーしゅーと、、。 琳派のたらしこみを巨大な天井画でやろうとして考えたそうで、、 大胆かつ繊細…
又造さんの龍は5本指でした。 また沢山の又造さんの絵、 見てみたいな、、 動物シリーズも。
又造さんのデザインが包装にあしらわれたお菓子
***
「没後40年 熊谷守一 生きるよろこび」東京国立近代美術館
東京国立近代美術館>>
モリカズ展に行ったのは2月の末でした。 だけどなかなか書くことが出来ませんでした。
熊谷守一の絵は何度か見ていましたし、 住まいだった「豊島区立熊谷守一美術館」へも行ったことがあったので、 良く知られている作品は概ね頭の中に入っていたのですが、、
今回、 明治時代の作品 (守一は明治13年生まれ。 明治33年東京美術学校入学、同期が青木繁、和田三造ら)、、 その若き日の、 よく知られた「モリカズ」の画風とは全然違う時期の作品を見て、 なかなかその事が書けずにいました。
明治41年の「轢死」という作品。
この制作年と、画題、そして絵を見たとき、 その場に固まってしまいました。。 すぐに脳裡に浮かんだのが 夏目漱石の『三四郎』(明治41年9月から連載)の中に書かれた「轢死」の描写、、
「三四郎は無言で灯の下を見た。下には死骸が半分ある。汽車は右の肩から乳の下を腰の上までみごとに引きちぎって、斜掛けの胴を置き去りにして行ったのである。顔は無傷である。若い女だ」
、、この漱石の文章を、そのまま画にしたような絵でした。 絵の表面の劣化等で、何が描かれているか殆んど分からないほど、色は暗く、全面塗り潰されたように見えるのですが、 『三四郎』のあの文章を記憶しているので、 守一の絵の中に三四郎とそっくりの女性の轢死の構図が見えました。。 あまりに驚いて、 小声でに「これ、三四郎の…」という話を耳打ちしていたら、、 「ここにも説明がある…」と。 見たら、絵の先に詳しい説明書きがありました。
守一の絵の構図と『三四郎』の轢死の構図が全く同じである為、 どちらかが参考にしたのでは…という話題は以前からあったそうです。 但し、守一の「轢死」のデッサンは『三四郎』掲載よりも以前からあり、、 また、この絵は文展への出品を拒否されているので、漱石がこの絵を見た可能性は無い、と。
では、、この同じ年に描かれ(書かれ)た「轢死」という共通は…
1908年(明治41年)出版の戸川秋骨先生の『時代私観』という本の中に、 「電車とイブセン」という文章があります。 「露西亜に勝った」とありますから、日露戦争後の文章でしょう。 この文章中にも「轢死」が出てきます。 急速に東京中に発達した鉄道網、、 そのことによって起る事故としての「轢死」と、 戦争後の不況や寡婦の増加、そのような時代に現われた列車への飛び込みという「轢死」、、 『三四郎』の女性の「轢死」の場面は自殺でした。 守一は実際に轢死の現場に遭遇したとのことです。 戸川秋骨が「電車とイブセン」で書いている「轢死」も、 テクノロジーの急速に変化した時代の、 事故、自殺、二重の意味で轢死という新しい死を扱っています。
国立国会図書館デジタルコレクションで読めます>>
漱石、守一、秋骨、、 三者が同じ時代に「轢死」について書いて(描いて)いる、というのはやはり「轢死」というものが、前時代には無かったこの時代を象徴する死の有様で、 そのことに対して、作家、芸術家が敏感に感受した顕れなのでしょう。 裏を返せば、漱石、守一、秋骨らが同種の危機感、 死への感受性を備えていた、、と私には思えるのです。
漱石は「死」に取り憑かれたように多くの死を作品に書いた人ですが、 今回、守一の絵の人生にも、これほどまで「死」が深く関係していたことをあらためて知りました。 その作品のひとつ、、 守一の次男の死を描いた 「陽の死んだ日」
大原美術館のサイトにこの絵の説明(と先の轢死の説明も)載っています>>
HP上で見るのと、実物で見るのとでは違い、、実際にはもっと衝撃が大きい作品でした。 横尾忠則さんが twitter でこう感想を書かれていました(>>)(>>)
守一には、 有名な「ヤキバノカエリ」という絵がありますが、、 それも含めて、画業の前半生にどれほど「死」が深く関わっていたか、 今回の展示で知らされました。。 タイトルは 「生きるよろこび」でしたが、 とてもそういうふうには思えなかった。。 晩年の、 自宅の庭の小さな生きものを描く、やさしい眼差しの絵をたくさん見ても、、 そこまで辿り着くまでの深いかなしみの方が 強く心に刺さってしまって、、、
「轢死」の横たわった女性の像を、 キャンバスの縦横を逆にすると女性が起き上がって「生きる」のだ、と、、 そういう構図の女性像もありました。 守一が、 モリカズになってからも、 ずっと考え続けていたテーマなのではと思います。
、、モリカズの絵は好きです。
昔、 ある高齢の画家さんとお友だちでした。 守一に似たところのある、 そしてご自身もきっと守一への憧れを持っていただろうその画家さんの思い出。。
そのかたが、 初めて東京で個展を開いたのが、 モリカズの自宅であるギャラリー「榧」でした。 そこでお話した頃に、もし初期の守一の絵のことを私が知っていたら、、 そしてもし今もその画家さんがご存命だったら、 今回の守一展のことや、「轢死」のことなども、 お話できたのに… と思いつつ、、 モリカズの便箋を記念に買って帰りました。。
モリカズのことを良く知る、 どなたかに宛ててそっと手紙を書いてみたいと…
5月、、 どうぞ健やかな日々を。。