星のひとかけ

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私とは… 貴方の面影の総体

2018-07-10 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)
5月に読んでいたミステリ(>>)の中の

ロバート・ゴダード著 『欺きの家』の中で 印象的な警句があり、 ツイートに残してありました。

 「思い出とは、ただの記憶に残った経験のことではない。思い出とは、わたしたちに時空を飛び越えさせるものだ。歳を重ねたわたしたちは、若かりしおのれが見たりかかわったりした出来事を思い起こし、あのころの自分といまの自分はほんとうに同じ人間なのかとしばしば心に問う…
 …思い出とは、かつて知っていた人々の幻影だ。そして、困ったことに、わたしたち自身もそのうちのひとりなのだ」
             (北田絵里子・訳)



 ***

 自分がかつてかかわったり出会ったりした人々や出来事、、 それらが現在の私をかたちづくっている、、 

そんな当たり前ともいえる事が、 しばらく前… 昨年、 一昨年?、、 ずっと私の頭を占めています。。 当たり前のように思えるけれど、、 じつはかつての私は 余り過去を振り返る人間ではありませんでした。 過去をどんどん切り捨てて、 決別を重ねて、 自分は前へ進んでいくしかないと思って生きていました。 だから、 自分を創り上げていくのは自分、、 単純にそう思っていたのかも知れない…

…じゃあ、、 自分は自分で (自分だけで)いったい自分をどう創り上げてきたのか、、

そう思った時、、 自分がとてもたいせつ想う思い出、、 自分を支えてくれたもの、、 自分を動かしてくれた転換点、、 そこには必ず「誰か」がいて、 その誰かと話した事、 共にした事、、 その思い出が絵具を重ねるように重なって、 混ざって、 溶け合って、、 それが今の自分の肉体かつ精神そのものなんだと気づく。。

最初のゴダードの言葉に 「幻影」とあるように、 その「思い出」というのは実際にあった「事実」のことではない。 事実はその時間にそっくり遡って見て解る事で、 今やそれは不可能。。 私が覚えていること、 時間の中で記憶がやはり絵具のように重なって溶け合って、、 おそらく当初の事実とはまったく同じではない、 私が蘇らせている「幻影」としての思い出。。 私しか知らない、、 誰にも「これ」と言って手のひらに取って差し出して見せることの出来ない 私にとっての「誰か」や「誰か」の幻影…

でも、 その「誰か」や「誰か」の影=面影が、 じつは今の私自身になっているんだ、、 と。。

 「現在の私を形づくっているのは自分自身が為した物事よりも、出会った人々が今の私を作ったように思う。その人たちの実体に依ってではなく、私の中に残された私だけが感じたその人々の面影が。私は私単体ではなく、ジャコメッティの線のような貴方の面影の総体なのだと…」 と、5月のツイートに思いを書き残している。。

ずっと前に(>>)、 マイケル・カニンガムさんの著書『星々の生まれるところ』に出て来た、 ウォルト・ホイットマンの「ぼく自身の歌」という詩から次の言葉を引用しました

 「ほくである原子は一つ残らず君のものでもあるからだ」

、、あのときのブログは「わたし自身の歌。」というタイトルだったけれど、、 そう 確かにわたし自身のことであるけれども、 でもまだ本当にはわかっていなかった。 わたし自身が 貴方や貴方の面影の総体であるということを。。

 ***

前回の ブルース・チャトウィンの『ソングライン』は読み終えました。 付け加えるべきことはそんなにありません。 チャトウィンはやはり ラストの部分で、 アボリジニの人々が年老いて、 旅の最後に〈大地〉〈祖先〉〈自分自身〉それらが一体となるための場面を描いて終わります、、 それに対する自分自身の思いとかは特に記していませんが 象徴的な場面での結末でした。

『ソングライン』も〈わたし自身〉を形づくっているものについての示唆を与えてくれました。。 5月に読んでいたたくさんのミステリも。。 そのまえに読んでいたカズオ・イシグロも。。

、、当然 読書ばかりではなく、 6月に聴いていた音楽もまた。。

 ***


日曜日の晩、、 文学の先輩にお目にかかった街にて。


、、 まだまだ たりません… 自分。


修養も、 勉強も、、


体力はもとから足りないけれど、、 心の光源としての力が…


、、 夏バテにはまだ早いぞ~~。。

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