5月になりました。
このところ急に初夏めいてきましたが、まだ蒸し暑いというほどではなく、 緊急事態宣言がでなければ 瑞々しい新緑のもと、明るい色のお洋服に着替えて出掛けたい季節ですのに…ね、、
まだ自宅に籠って 安静の日々、 入院・手術待機の日々がつづいています。
いつか
心身の自由を取り戻した時、 その喜びを深く 強く感じ 生きてることに感謝するために、 今をしずかに待とう… (今を纏う… でも良いかな)
本屋さんも 図書館もお休みの期間に、 自分の古い本棚を眺めまわして 「今にぴったりの本」と思い、ふたたび取り出した本。
『禅とオートバイ修理技術』 ロバート M.パーシグ 著 五十嵐 美克 翻訳、 兒玉 光弘 翻訳
(上記は めるくまーる社・1990年発行。 今はハヤカワ文庫で出ているそうです)
邦訳が出版された90年ごろ、、故郷の大きな書店に大量に平積みされていた光景をよく覚えています。 不思議なタイトルが眼を引いたことも、 当時(少し前) バイクに乗っていたことも この本に引き寄せられた要因。
同じ頃、 ブルース・チャトウィンの『どうして僕はこんなところに』も 平積みされていた光景を記憶していたので 検索したら、 チャトウィンの書も90年発行でした。 並んでいた理由も頷けます。
今、 新型コロナウイルスで 外出の自粛を余儀なくされていた日々のなかで、 いろいろ見えて来たものもあります。 各国や、各自治体の首長の能力とか リーダーシップとか。。 或は 自粛生活が苦痛な人 そうでない人、 前向きな人、 うんざりしている人、 世の中に怒っている人、、
なぜこの本が 今読み返すのにぴったり、と思ったかと言うと、 たとえば 毎日の外出を我慢して家にいなければならなくなったとして、、 その人にとって、 外出(ランニングでも釣りでもいいけど)することと、 家の中でなにかをすることが、 哲学的に同列上にある人にとっては おそらく外出せずに家で何日も過ごすことにそれほど違和感を覚えないのかもしれないな、、と。 だけど、 例えばランニングすることと家のなかで何かすることとが哲学的になにも繋がっていない人が ランニングを止められてしまった時、 なにか家の中ですることを考えようとしても何も代用にはならない、 なにをしても失ったものの苦痛のほうが大きくて耐えられない、、 そういうことってあるのでは…? と、そんなことを想ったわけです。
この本は、 60年代アメリカの ヒッピームーブメントやビートジェネレーションを経た 「新しい価値観」の生まれた時代(1974年出版)の、 オートバイツーリングの紀行&哲学書。 テクノロジーの合理性のみを追求して発展をつづけた社会のなかから、 ほんとうにそれが価値ある生き方なの? という疑問が生まれた後の思索の書。
最初にこの本を手にした90年には、 まだ私も子供みたいなものだったし、 あまりそういう時代的な精神について理解できていなかったけど、 今なら こういう文章にも納得して頷けるようになった⤵
オートバイに乗ることはロマン的であるけれども、 オートバイのメインテナンスはまったく古典的である。 (p136)
車のメカニックでも 楽器のメンテナンスでも同様に、 このことに うなずける人ってけっこう多いのではないかしら…?
確かにこういう《ロマン的》《古典的》の二分化は理解できるのだけど、 著者はこの二分化に疑問する。。 この少し前のほうでも書かれているけれど、 オートバイが全く同機種で同じ年代に乗っていても 乗り主が交代してみると、 不思議なことに二つのオートバイは全然違うものになっていることに気づく。 その人の「癖」みたいなものが機械を変えてしまっている。 そうなると バイクという機械に乗る事が 単に《ロマン的》で、 メカニックを操ることが《古典的》という二分化はあやうくなってくる、、
これも クルマでも、 エレキギターでも、 扱った人ならそう感じることでしょうね。。
***
著者は、 60年代に哲学的思索の果てに精神に異常をきたして 当時おこなわれていた脳に電流を流して記憶を消すという治療を受けた人です。 過去の自分を失ってしまった彼は、 クリスという息子とツーリングの旅に出る。 クリスは記憶を消される前のお父さんを覚えている。 でも 今の父親と昔の父親の変化にどう対応して良いかわからず、 幼い心で苦しんでいる。 一方で、 父もまた 自分はいったい何者なのか、 と苦しんでいる。
ルー・リードさんが 同じ60年代に 脳に電流を流して記憶を消されるという治療を受けていたと、 私はなにかで読んだはずだけど、、 いま ちょっと検索してもよくわかりません。。
この父と息子のたがいをみつめる苦しい旅路は心に迫ります。 その過程でずっとつづけていく哲学的思索の旅も、 ゆっくり ゆっくり 読んでいけば、 今ならもっと深く理解することが出来そうに思います。
夏目漱石の『三四郎』のなかに、 画家(美学者)の原口さんと、 科学者の野々宮さんと、 文学者(哲学者)の広田先生とが会話する場面があります。
広田先生が、こんな事を言う。
「どうも物理学者は自然派じゃだめのようだね」
物理学者と自然派の二字は少なからず満場の興味を刺激した。
「それはどういう意味ですか」と本人の野々宮さんが聞き出した。広田先生は説明しなければならなくなった。
「だって、光線の圧力を試験するために、目だけあけて、自然を観察していたって、だめだからさ。自然の献立のうちに、光線の圧力という事実は印刷されていないようじゃないか。だから人工的に、水晶の糸だの、真空だの、雲母だのという装置をして、その圧力が物理学者の目に見えるように仕掛けるのだろう。だから自然派じゃないよ」
「しかし浪漫派でもないだろう」と原口さんがまぜ返した。
「いや浪漫派だ」と広田先生がもったいらしく弁解した。「光線と、光線を受けるものとを、普通の自然界においては見出せないような位置関係に置くところがまったく浪漫派じゃないか」
「しかし、いったんそういう位置関係に置いた以上は、光線固有の圧力を観察するだけだから、それからあとは自然派でしょう」と野々宮さんが言った。
「すると、物理学者は浪漫的自然派ですね。文学のほうでいうと、イブセンのようなものじゃないか」と筋向こうの博士が比較を持ち出した。
(青空文庫より >>)
漱石は この《ロマン派的》な思考と、 《自然派的》(=当時の意味での自然派)な思考との対立をとても嫌っていた人ですが、 『禅とオートバイ修理技術』のなかで著者が思索していく「新しい価値の追求」にも通じるところがあって、、 西洋のモダニズムの行き着く先を見据えていた漱石先生、、 さすが凄いな… と思わざるを得ません。。
、、 もっとちゃんとした文章で書きたいのですが
今こうして PCに短時間向かっているだけでも けっこう疲れるので、 こんなとりとめない書き留めで今日はおしまい。。
代わりに 松岡正剛さんの千夜千冊のほうにリンクしておきます >>
***
都内の外出自粛期間はまだ続きます。 もう毎日 二カ月も前から 検査体制の充足を! と訴え続けていまだに出口は見えてきませんが、、 医療従事者や介護職員や、 そして必要な人全員への検査体制さえ整えば、 今すぐにでも緊急事態解除できるのに……
出口見えず…
、、 あと ひと月くらいかな……
つぎの月が満ちる頃には 光が見えて欲しいな…
このところ急に初夏めいてきましたが、まだ蒸し暑いというほどではなく、 緊急事態宣言がでなければ 瑞々しい新緑のもと、明るい色のお洋服に着替えて出掛けたい季節ですのに…ね、、
まだ自宅に籠って 安静の日々、 入院・手術待機の日々がつづいています。
いつか
心身の自由を取り戻した時、 その喜びを深く 強く感じ 生きてることに感謝するために、 今をしずかに待とう… (今を纏う… でも良いかな)
本屋さんも 図書館もお休みの期間に、 自分の古い本棚を眺めまわして 「今にぴったりの本」と思い、ふたたび取り出した本。
『禅とオートバイ修理技術』 ロバート M.パーシグ 著 五十嵐 美克 翻訳、 兒玉 光弘 翻訳
(上記は めるくまーる社・1990年発行。 今はハヤカワ文庫で出ているそうです)
邦訳が出版された90年ごろ、、故郷の大きな書店に大量に平積みされていた光景をよく覚えています。 不思議なタイトルが眼を引いたことも、 当時(少し前) バイクに乗っていたことも この本に引き寄せられた要因。
同じ頃、 ブルース・チャトウィンの『どうして僕はこんなところに』も 平積みされていた光景を記憶していたので 検索したら、 チャトウィンの書も90年発行でした。 並んでいた理由も頷けます。
今、 新型コロナウイルスで 外出の自粛を余儀なくされていた日々のなかで、 いろいろ見えて来たものもあります。 各国や、各自治体の首長の能力とか リーダーシップとか。。 或は 自粛生活が苦痛な人 そうでない人、 前向きな人、 うんざりしている人、 世の中に怒っている人、、
なぜこの本が 今読み返すのにぴったり、と思ったかと言うと、 たとえば 毎日の外出を我慢して家にいなければならなくなったとして、、 その人にとって、 外出(ランニングでも釣りでもいいけど)することと、 家の中でなにかをすることが、 哲学的に同列上にある人にとっては おそらく外出せずに家で何日も過ごすことにそれほど違和感を覚えないのかもしれないな、、と。 だけど、 例えばランニングすることと家のなかで何かすることとが哲学的になにも繋がっていない人が ランニングを止められてしまった時、 なにか家の中ですることを考えようとしても何も代用にはならない、 なにをしても失ったものの苦痛のほうが大きくて耐えられない、、 そういうことってあるのでは…? と、そんなことを想ったわけです。
この本は、 60年代アメリカの ヒッピームーブメントやビートジェネレーションを経た 「新しい価値観」の生まれた時代(1974年出版)の、 オートバイツーリングの紀行&哲学書。 テクノロジーの合理性のみを追求して発展をつづけた社会のなかから、 ほんとうにそれが価値ある生き方なの? という疑問が生まれた後の思索の書。
最初にこの本を手にした90年には、 まだ私も子供みたいなものだったし、 あまりそういう時代的な精神について理解できていなかったけど、 今なら こういう文章にも納得して頷けるようになった⤵
オートバイに乗ることはロマン的であるけれども、 オートバイのメインテナンスはまったく古典的である。 (p136)
車のメカニックでも 楽器のメンテナンスでも同様に、 このことに うなずける人ってけっこう多いのではないかしら…?
確かにこういう《ロマン的》《古典的》の二分化は理解できるのだけど、 著者はこの二分化に疑問する。。 この少し前のほうでも書かれているけれど、 オートバイが全く同機種で同じ年代に乗っていても 乗り主が交代してみると、 不思議なことに二つのオートバイは全然違うものになっていることに気づく。 その人の「癖」みたいなものが機械を変えてしまっている。 そうなると バイクという機械に乗る事が 単に《ロマン的》で、 メカニックを操ることが《古典的》という二分化はあやうくなってくる、、
これも クルマでも、 エレキギターでも、 扱った人ならそう感じることでしょうね。。
***
著者は、 60年代に哲学的思索の果てに精神に異常をきたして 当時おこなわれていた脳に電流を流して記憶を消すという治療を受けた人です。 過去の自分を失ってしまった彼は、 クリスという息子とツーリングの旅に出る。 クリスは記憶を消される前のお父さんを覚えている。 でも 今の父親と昔の父親の変化にどう対応して良いかわからず、 幼い心で苦しんでいる。 一方で、 父もまた 自分はいったい何者なのか、 と苦しんでいる。
ルー・リードさんが 同じ60年代に 脳に電流を流して記憶を消されるという治療を受けていたと、 私はなにかで読んだはずだけど、、 いま ちょっと検索してもよくわかりません。。
この父と息子のたがいをみつめる苦しい旅路は心に迫ります。 その過程でずっとつづけていく哲学的思索の旅も、 ゆっくり ゆっくり 読んでいけば、 今ならもっと深く理解することが出来そうに思います。
夏目漱石の『三四郎』のなかに、 画家(美学者)の原口さんと、 科学者の野々宮さんと、 文学者(哲学者)の広田先生とが会話する場面があります。
広田先生が、こんな事を言う。
「どうも物理学者は自然派じゃだめのようだね」
物理学者と自然派の二字は少なからず満場の興味を刺激した。
「それはどういう意味ですか」と本人の野々宮さんが聞き出した。広田先生は説明しなければならなくなった。
「だって、光線の圧力を試験するために、目だけあけて、自然を観察していたって、だめだからさ。自然の献立のうちに、光線の圧力という事実は印刷されていないようじゃないか。だから人工的に、水晶の糸だの、真空だの、雲母だのという装置をして、その圧力が物理学者の目に見えるように仕掛けるのだろう。だから自然派じゃないよ」
「しかし浪漫派でもないだろう」と原口さんがまぜ返した。
「いや浪漫派だ」と広田先生がもったいらしく弁解した。「光線と、光線を受けるものとを、普通の自然界においては見出せないような位置関係に置くところがまったく浪漫派じゃないか」
「しかし、いったんそういう位置関係に置いた以上は、光線固有の圧力を観察するだけだから、それからあとは自然派でしょう」と野々宮さんが言った。
「すると、物理学者は浪漫的自然派ですね。文学のほうでいうと、イブセンのようなものじゃないか」と筋向こうの博士が比較を持ち出した。
(青空文庫より >>)
漱石は この《ロマン派的》な思考と、 《自然派的》(=当時の意味での自然派)な思考との対立をとても嫌っていた人ですが、 『禅とオートバイ修理技術』のなかで著者が思索していく「新しい価値の追求」にも通じるところがあって、、 西洋のモダニズムの行き着く先を見据えていた漱石先生、、 さすが凄いな… と思わざるを得ません。。
、、 もっとちゃんとした文章で書きたいのですが
今こうして PCに短時間向かっているだけでも けっこう疲れるので、 こんなとりとめない書き留めで今日はおしまい。。
代わりに 松岡正剛さんの千夜千冊のほうにリンクしておきます >>
***
都内の外出自粛期間はまだ続きます。 もう毎日 二カ月も前から 検査体制の充足を! と訴え続けていまだに出口は見えてきませんが、、 医療従事者や介護職員や、 そして必要な人全員への検査体制さえ整えば、 今すぐにでも緊急事態解除できるのに……
出口見えず…
、、 あと ひと月くらいかな……
つぎの月が満ちる頃には 光が見えて欲しいな…