星のひとかけ

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死があたかも一つの季節を…:漱石から芥川、そして堀辰雄

2023-04-10 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
前回、 芥川龍之介の晩年のエッセイ「彼 第二」に続いて…

龍之介の死後に発表された「或阿呆の一生」をつづけて読んでいて、、(この作品は 冒頭の久米正雄宛ての文からも判りますが芥川の遺書と言って良いものですね)

その中に 「先生」という語、つまり夏目漱石について書いた文が3つあります。 「十 先生
」、「十一 夜明け」、「十三 先生の死」です。 そのなかの「先生の死」にこうあります。

 彼は巻煙草に火もつけずに歓びに近い苦しみを感じてゐた。「センセイキトク」の電報を外套のポケツトへ押しこんだまま。

、、「歓びに近い苦しみ」、、 ってどういう意味だろう…

「或阿呆の一生」ははるか昔に読んだきりで 漱石作品に親しむよりも前のこと、、 この箇所については全く記憶にありませんでした。 先生の危篤の電報を受け取り、 「午前六時の上り列車」を待っている時の気持ち、、 それが 「歓びに近い苦しみ」…

どういう意味だろう… とふと思いつつも、 心のどこかではなんだか分かる気がしていたのです。。 何故かというと、、 その後 漱石作品をたくさん読み、 芥川と漱石との師弟関係のことなどもいろいろ知った今だったから。。

漱石の『こころ』で「私」が「先生」からの分厚い手紙(遺書)を受け取ったあと、 危篤の父親のもとを離れ列車に飛び乗ってしまいます。。 そういう想いの小説を芥川青年は読んでいたでしょうから。 『こころ』の「私」が「先生」に心酔したと同様に、 芥川も自分の作品を認めてくれた漱石を全面的に信頼したでしょうから。。

「或阿呆の一生」のこの二つ前の「夜明け」は、 「先生に会つた三月目」とあり、 「空には丁度彼の真上に星が一つ輝いてゐた」と、そんな輝かしい、喜びと希望に満ちた「二十五の年」だったのでしょう。。 でも年譜から想像するに 龍之介が漱石に作品を褒められてから漱石の死までは一年にも満たないはず、、 その間に龍之介は大学を卒業し(夏)、 冬に海軍機関学校に英語教官として就職する。 「先生の死」の一つ前の文章が「軍港」だから 多分その順番でいいのだろう。。 とすると「先生の死」で列車を待っている駅は横須賀のほうかと想像する…

この夏(8月)、 漱石は龍之介と久米正雄宛に 有名な 焦ってはいけません 牛のように押して行くのです という内容の手紙を送っている。 漱石の弟子への手紙はいつも丁寧だけれど、この手紙も実に心が籠っていて優しい。。

龍之介の 「歓びに近い苦しみ」という想い、、 想像するに たとえ危篤の報せとはいえ、 漱石のもとへ駆けつけることが出来るよろこび、 横須賀(たぶん)での仕事も放り出して漱石の枕元へ行ける嬉しさ、、 死がどれだけ間近かどうかなんてこの瞬間には問題ではないのだろう。。
そんな気持ちとして私はとらえたのだけど… どうだろう…

 ***

そして 芥川が漱石の弟子だったように、 芥川には自分を慕う「堀辰雄」という若者がいた。

芥川の25歳ごろの思い出(「彼 第二」や「先生の死」のころ)を読んだためか、 堀辰雄が芥川龍之介の思い出をつづった作品はどうだったろう、、 とあらためて堀辰雄の年譜などを見直して、 それで『聖家族』を読み直すことにした。 (堀辰雄が芥川龍之介と知り合うのが19歳頃の事)

 死があたかも一つの季節を開いたかのようだった。

という印象的な一文で始まる短篇。 私が『風立ちぬ』から堀辰雄を知った中学生の頃には 芥川と堀の関係など知らずに、 軽井沢や富士見のサナトリウムを描いた小説群はどこかヨーロッパの小説を読むようで不思議な浮遊感と、 死への甘やかな幻想を感じていた。

でも、、 あらためて「聖家族」を読むと、 もうこれはまさに芥川の死へのトリビュート作品なのだということがわかる。

「聖家族」は「九鬼」という男の葬儀から始まるけれど、 九鬼が作家だとか 九鬼とこの物語の青年「扁理」とどういう関係なのかはまるで書かれていない、、 けれど堀辰雄がこの作品を雑誌に発表した頃は 当然この「九鬼」の死は芥川の死として読まれていたんだろうと思う、、 オマージュとして…

芥川に「蜃気楼」という作品がある。 鵠沼の浜辺で蜃気楼を見ようとする話。 これも晩年の作品だが この中に「大学生のK君」が出てくる。 この人物が堀辰雄かどうかはわからないけれど、 堀の「聖家族」では青年「扁理」が海岸の町をおとずれる場面がある、、 そこで扁理は 
「九鬼」の死が自分のなかにどれだけ深く刻み込まれ、 どれだけ自分が九鬼の存在から離れ難いかを認識する。。 そういう重要な場面…

 そうして扁理はようやく理解し出した、死んだ九鬼が自分の裏側にたえず生きていて、いまだに自分を力強く支配していることを …略…
 そうしてこんな風に、すべてのものから遠ざかりながら、そしてただ一つの死を自分の生の裏側にいきいきと、非常に近くしかも非常に遠く感じながら、この見知らない町の中を何の目的もなしに歩いていることが、扁理にはいつか何とも言えず快い休息のように思われ出した。

                 「聖家族」


、、九鬼の死をこうして 「非常に近くしかも非常に遠く感じながら」 扁理は「貝殻や海草や死んだ魚」などが打ち寄せられている浜を歩く。 この部分は芥川の「蜃気楼」で 夜の浜辺でマッチをすり、海藻や貝殻の散らばった浜が浮かび上がる というシーンを思い起こさせもするし、、

「聖家族」ではこの続きに、浜辺の漂流物の中に「犬の死骸」を見つける。

 その漂流物のなかには、一ぴきの小さな犬の死骸が混っていた。そうしてそれが意地のわるい波にときどき白い歯で噛まれたり、裏がえしにされたりするのを、扁理はじっと見入りながら、次第にいきいきと自分の心臓の鼓動するのを感じ出していた…… 「聖家族」

この場面は、 前回読んだ芥川の晩年のエッセイ「彼 第二」のなかで書かれた、 早世したアイルランド人の友人の思い出を反映させている気がする。 上海で再会した芥川と友人は、海岸を歩きながら犬の死骸を見る、、

 彼はちょっと歩みをとめ、顋で「見ろ」と云う合図をした。靄の中に仄めいた水には白い小犬の死骸が一匹、緩い波に絶えず揺すられていた。そのまた小犬は誰の仕業か、頸のまわりに花を持った一つづりの草をぶら下げていた。それは惨酷な気がすると同時に美しい気がするのにも違いなかった。 「彼 第二」

芥川が死骸に対して 「惨酷な気がすると同時に美しい気がする」と書いた感性を、 堀辰雄は敏感に読み取っていたのだろう、、 「九鬼」という男の「死を自分の生の裏側にいきいきと」 一心同体のように実感した扁理の眼には、 犬の死骸を発見したこともまた九鬼とつながるものであり、 「いきいきと自分の心臓の鼓動」を促す 魂の感応をもたらすものだったのだろう…


そうやって 芥川の晩年のエッセイから 堀辰雄の「聖家族」までつづけて読んできてみて、、 そうしたら 漱石の危篤の報を受け取った芥川の 「歓びに近い苦しみ」とは、、 (この文章が芥川がすでに遺書として書いている文章だということを考え合わせれば)、、 漱石のもとへ自分が行けること、 ふたたび先生に会えること、、 そのことのよろこびを示していると考えていいんじゃないかな… と。。 やはりそう思えてきた。

 ***


私は 自死を認める気持ちは無いし、 前回も書いたように芥川にピカソと同じくらい長生きして書いていて欲しかったと思うし、、 芸術家は作風が変わろうが、 批評家からあれこれ言われようが、 芸術家としての命が尽きるまで全うすることのほうを尊びたい。 

でも、 漱石の死が芥川に伝えたもの、、 芥川の死が堀辰雄に伝えたもの、、 その死がつぎの作家の生命のなかに宿ったもの、、


その命の連鎖は認めていいと思う。。




 死があたかも一つの季節を開いたかのようだった…



自分でこのことを認識して作品化できる 堀辰雄はすばらしい理知の人ですね…


 


読書はまだつづきます…






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