芥川の最晩年の著 『西方の人』のなかで、 龍之介は聖母マリアについてこう書いています。
マリアは唯の女人だつた。が、或夜聖霊に感じて忽(たちま)ちクリストを生み落した。我々はあらゆる女人の中に多少のマリアを感じるであらう。同時に又あらゆる男子の中にも――。いや、我々は炉に燃える火や畠の野菜や素焼きの瓶(かめ)や巌畳(がんじょう)に出来た腰かけの中にも多少のマリアを感じるであらう。マリアは「永遠に女性なるもの」ではない。唯「永遠に守らんとするもの」である。クリストの母、マリアの一生もやはり「涙の谷」の中に通つてゐた。が、マリアは忍耐を重ねてこの一生を歩いて行つた。世間智と愚と美徳とは彼女の一生の中に一つに住んでゐる。ニイチエの叛逆はクリストに対するよりもマリアに対する叛逆だつた。
(『西方の人』より 2、マリア 全文)
、、このなかの「炉に燃える火や畠の野菜や素焼きの瓶や巌畳に出来た腰かけの中にも」マリアを感じる、、という部分がとても好きです。 それは日本人だから感じうる、いわば《東方の人》としての感覚ならばこそ…だからです。。
また、 『西方の人』の終わりのほうでは 磔刑に処されたイエスを抱く母マリアについて こう書いています。
クリストの母、年をとつたマリアはクリストの死骸の前に歎いてゐる。――かう云ふ図の Pietà と呼ばれるのは必しも感傷主義的と言ふことは出来ない。唯ピエタを描かうとする画家たちはマリア一人だけを描かなければならぬ。
(『西方の人』より 33、ピエタ 全文)
、、龍之介はミケランジェロのピエタを見ても同じことを思ったかしら… それはわかりませんが 《母マリア》への龍之介の想いはよく窺うことができるような気がします。
なぜ こんなことを書いているのかというと、 「悲しみの聖母」を聴きに参るからなのです。。
龍之介の言う 「炉に燃える火や畠の野菜や素焼きの瓶や巌畳に出来た腰かけの中にも」存在するマリア… とは?
やすらぎ…
聖性…
慈愛…
生命(いのち)…
どう思われます…?
マリアは唯の女人だつた。が、或夜聖霊に感じて忽(たちま)ちクリストを生み落した。我々はあらゆる女人の中に多少のマリアを感じるであらう。同時に又あらゆる男子の中にも――。いや、我々は炉に燃える火や畠の野菜や素焼きの瓶(かめ)や巌畳(がんじょう)に出来た腰かけの中にも多少のマリアを感じるであらう。マリアは「永遠に女性なるもの」ではない。唯「永遠に守らんとするもの」である。クリストの母、マリアの一生もやはり「涙の谷」の中に通つてゐた。が、マリアは忍耐を重ねてこの一生を歩いて行つた。世間智と愚と美徳とは彼女の一生の中に一つに住んでゐる。ニイチエの叛逆はクリストに対するよりもマリアに対する叛逆だつた。
(『西方の人』より 2、マリア 全文)
、、このなかの「炉に燃える火や畠の野菜や素焼きの瓶や巌畳に出来た腰かけの中にも」マリアを感じる、、という部分がとても好きです。 それは日本人だから感じうる、いわば《東方の人》としての感覚ならばこそ…だからです。。
また、 『西方の人』の終わりのほうでは 磔刑に処されたイエスを抱く母マリアについて こう書いています。
クリストの母、年をとつたマリアはクリストの死骸の前に歎いてゐる。――かう云ふ図の Pietà と呼ばれるのは必しも感傷主義的と言ふことは出来ない。唯ピエタを描かうとする画家たちはマリア一人だけを描かなければならぬ。
(『西方の人』より 33、ピエタ 全文)
、、龍之介はミケランジェロのピエタを見ても同じことを思ったかしら… それはわかりませんが 《母マリア》への龍之介の想いはよく窺うことができるような気がします。
なぜ こんなことを書いているのかというと、 「悲しみの聖母」を聴きに参るからなのです。。
龍之介の言う 「炉に燃える火や畠の野菜や素焼きの瓶や巌畳に出来た腰かけの中にも」存在するマリア… とは?
やすらぎ…
聖性…
慈愛…
生命(いのち)…
どう思われます…?