それも「北条流築城術」として有名な「障子掘」の跡でした。
なぜか興味津々で見に行った私(笑)。
それ以来、「山中城に一度行きたい!」と思っていました。
というのも、
「山中城」は本城を守る西の砦であり、石を使わずに「土」で築城された特徴を持つ城でもあるということ。
自然の地形を生かしながら、敵を近づけないための「堀」が造られているのですが、その堀を造るために出た「土」を使って「盛り土」とし「曲輪」や「見晴台」を造っていること。
その堀が「障子掘」なのです。
そして、山中城の「障子掘」がとてもよく保存されていると聞いていましたから、ぜひ一度見たい!と思っていたのです。
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障子掘や畝彫・・・野芝を張って崩れないように工夫しながらの保存です。
上がったり下がったり、かなりきつい散歩になりますが、広い「城址」を歩きながら、昔の人の知恵に関心しきりでした~~。
(山中城跡の写真はBlog=loveでUPします)
北條氏のお家元に住んでいる私。
「北條流築城術」の最たるものであり、小田原城の西を守る要である「山中城」を訪ねたことはありませんでした。
この「山中城」は、見事な「障子掘」が発掘され保存されていると聞いていましたので、いつかいつか・・・と思っていましたが、今日、爽やかな秋の空気に誘われてようやく行ってきました~~♪
『永禄年間(1558年 - 1570年)に北条氏康により築城される。北条氏の本拠地である小田原の西の防衛を担う最重要拠点で、城は東海道を取り込む形で造られていた。
北条氏政の代に豊臣秀吉との関係が悪化すると、山中城は改修し防備を固めることになるが、結局間に合わず未完成のまま豊臣軍を迎える。 1590年(天正18年)、小田原の役で豊臣秀次率いる7万の軍勢が山中城を攻撃、城将松田康長ら4千は奮戦し、豊臣方も部将の一柳直末など多くの戦死者を出すものの、猛烈な力攻めの結果わずか半日で落城し、松田以下城兵はほとんど討死した。戦後、城は廃止された。
1930年(昭和5年)に国の史跡に指定された。1973年(昭和48年)から三島市が公園として整備をはじめ、合わせて学術的な調査もなされた。』
(↑Wikipediaから貼り付けさせて頂きました)
山中城は、東海道(今は国道一号線)が間に走る地形を上手く利用して造られた城です。
→こちらは「岱先出丸」と呼ばれる曲輪跡地の入り口です。
この山中城は自然の山を生かしながら創られた城で、敵を近づけないために「北条流築城術」といわれる「堀」がたくさんあります。
この地は、赤土のローム層であるため重い甲冑を着けてこの堀を越えるのは多分難しかったと思われますが・・・
一日で落城したそうですから、かなりの「兵の数」の違いがあtったんでしょうね。
その堀を造る時の「土」を盛りながら「曲輪」や「見晴らし台」ができていますので、高低の多い城です。
この入り口も、かなり急な坂道階段であることが分かると思います。
→「岱先出丸・一の堀」・・・ここは「畝堀」よ呼ばれる工法です。
←今日は、見晴台からの富士山がとってもきれいでした~~♪