prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「太陽」

2006年09月02日 | 映画
ソクーロフの作品としては、最もとっつきやすいものになったのではないか。全編日本を舞台にして日本人を主役にした、ということもあるが、これだけ役者の技量をストレートに生かしたこと自体あまりなかった。
イッセー尾形の役作りは徹底して外側を作っていくところから入っていて(似てる、なんてものじゃないね)、演出も徹底して外側を写し取ることに専念し、心理主義的な解釈をまったくつけていない。
それでいて「あ、そ」という口癖などシチュイエーションに応じて全部ニュアンスが違えてある。

この映画公開での騒ぎもそうだが、天皇制の権威は、天皇が自分を神格化しようとするのではなく、周囲が懸命に取り繕うとする上に成り立っている。
当人は飄々としたもの。チャップリンと比べられるのもそのせいか。

製作にあたって岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」を最も参考にしたというが、終戦を描くのに「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び…」という詔が流れるところがまったくない。劇的な部分は完全に外してある。

戦時中(に限らないが)の日本人を描く時の紋切り型であるやたら力んでファナティックにふるまう姿は、わずかに御前会議の陸軍大臣に見られるくらいで、それもむしむしする地下壕で汗をびっしょりかいている、その汗のアップとして観察され、描写のタッチそのものは冷静。
このへん、日本人が見てあまり反感を覚えない大きな要因だろう。

廃墟の映像は、コンクリート作りの焼け残っていた部分が目立って、日本人のイメージする木造建築が見渡す限りほとんど焼けてしまった焼け跡とはやや趣が異なっている。

海洋生物学者である天皇が平家ガニを観察して、あまり深くない海に棲息し移動はしないと呟く場面、栄華を極めた平家がほろんで魂魄を未だ残しているのと対照的に、天皇制は「人間化」することでかえって生き延びたかと思わせる。
B29や爆弾がなんと魚としてイメージされる爆撃シーンも、生物学者としてというか、アニミズムの祭司としての天皇から出ていると考えられる。

研究所の庭に鶴が歩き回っているのは、日本的な光景のようでもあるが、ソクーロフの「ストーン」でも室内に鶴がいたりした。

余談になりますが。
この「銀座シネパトス」は、次の番組がウェズリー・スナイプス三部作「デトネーター」(ポスターのコピー「完全実行」「俺が守る」)、「7セカンズ」(「完全強奪」「俺が狙う」)、「ザ・マークスマン」(「完全爆破」「俺が戦う」)なんてのを組むとおり、普段はほとんど木曜洋画劇場のノリなのです。
昔は洋画ポルノをかけていて、さらに昔は映画の合間にストリップの実演がはさまり、渥美清が来ていたこともあったとか。
もともとこの三原橋の地下街は、地下街としては確か日本で二番目に古いはず(一番は銀座線神田駅)。
地下鉄の振動と轟音が前に比べたら小さくなったとはいえ、決して上映設備としては良いとは言えない。

そういう劇場だからこそ、この日本上映不可能と言われた「太陽」を敢然として(かどうかは知らないが)かけることになったのだろう。
(☆☆☆★★★)


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