prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「父親たちの星条旗」

2006年11月18日 | 映画
「プライベート・ライアン」以来、戦闘シーンの“リアリティ”は格段に向上したが、客席に銃弾が本当に飛んでくることは、当然ながら、ない。
この映画の全体にモノトーンで統一された画面では血や内臓の毒々しい色は目立たない。
代わりに最も赤が目をさすのは、宣伝で作られた兵士たちのケーキにストロベリー・ソースがかけられるカットという具合に、生理的な残虐さを強調することで戦争の悲惨さを描いたつもりでいる幼稚さは、この映画とは無縁だ。

また、どれほど戦争の悲惨さを言葉で表そうとしたところで、最大の被害者である死者たちには語る口はない。
戦争を、特にその悲惨さを映画で描こうとすると、必ずこの解けない難問が立ち塞がる。
兵士たちが口をつぐみがちなのと無関係ではないだろう。

体験していない人間には「わかったつもり」にしかなりようがないわけで、だからといって「わかるわけがありません」でうっちゃるわけにはいかない。
モラル上の心構え、という問題ではなく、近代戦が経済力・技術力・情報収集力・宣伝力ほか社会のすべての成員の能力を総動員して行われる以上、関係なしでいられる人間はありえないということだ。
それは、戦争に参加しなかった人間、戦後に生まれた人間も例外ではない。戦争を社会の中で位置づける能力もまた、問われているからだ。

だから前線である硫黄島が地獄ならば、銃後や戦後もまた自ずと地獄となる。

星条旗が立てられたのが勝利と征服のシンボルに見えるのとは裏腹に、戦いが終わったわけでもなんでもない、という皮肉に典型なように、ここでの戦場はゲーム的な構造や発展性のある陣取り合戦ではおよそない。
国債集めのための宣伝旅行に駆り出される三人の兵士たちの脳裏に閃くフラッシュバックとして描かれ(イーストウッド作品とすると「バード」の構成に近い)、「衛生兵はどこだ」という言葉が繰り返され、敵である日本軍は姿をおよそ見せないのも、悪夢のような不定形なニュアンスを強める。

インディアンの兵士に対する、あからさまに差別的か「政治的に正」しそうな態度との違いはあっても、不自然に接し方が一通り揃っている。

戦友とはどんな存在なのか、というのが今ひとつつかめないのが隔靴掻痒の観。
(☆☆☆★★)


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