俳優を使ってはいても大勢の人物の証言や戦争の絵、資料などのコラージュあるいは綴れ織りといった形式をとることで半ばフィクション半ばドキュメンタリー(というか取材もの)のように見せているのは大林宣彦作品としてはWOWOWでやった宮部みゆき原作の「理由」を思わせたりする。
爆撃いうのはたとえリアリズムで再現したとしても最も肝腎の炎の熱さ、生きながら焼かれる苦痛は伝わらない、というのは映像の限界としてある。その限界を書き割り的に再現した演劇の情景をさらに合成を多用して描き(「転校生」以前の初期作品への先祖がえり)、むしろ限界を明らかにしているのはウソであることをはっきりさせてヘタなウソはつかない、といった態度に思える。
「北京の西瓜」で天安門事件で撮れなくなった場面をヘタに取り繕わずに黒味としてしまったのに通じる。
ただアラン・レネが「夜と霧」や「ヒロシマ・モン・アムール」(二十四時間の情事)で過去の戦争体験をいかに「再現」するのではなく、むしろいかに忘れていくのかを描いて忘れていくものは同時に記憶として蘇ってくるものでもある、といった生々しさを出していたのに比べて、この場合直接的な描写方をとらない分どうも肉感というか実感が薄く、どうにも隔靴掻痒というか、まわりくどい。
花火と爆弾は確か同じ火薬でできているわけだけれど、それをくっつけた作劇はどうも頭で作った感じ。
(☆☆☆)
本ホームページ
言霊大戦
この空の花 長岡花火物語 - goo 映画
爆撃いうのはたとえリアリズムで再現したとしても最も肝腎の炎の熱さ、生きながら焼かれる苦痛は伝わらない、というのは映像の限界としてある。その限界を書き割り的に再現した演劇の情景をさらに合成を多用して描き(「転校生」以前の初期作品への先祖がえり)、むしろ限界を明らかにしているのはウソであることをはっきりさせてヘタなウソはつかない、といった態度に思える。
「北京の西瓜」で天安門事件で撮れなくなった場面をヘタに取り繕わずに黒味としてしまったのに通じる。
ただアラン・レネが「夜と霧」や「ヒロシマ・モン・アムール」(二十四時間の情事)で過去の戦争体験をいかに「再現」するのではなく、むしろいかに忘れていくのかを描いて忘れていくものは同時に記憶として蘇ってくるものでもある、といった生々しさを出していたのに比べて、この場合直接的な描写方をとらない分どうも肉感というか実感が薄く、どうにも隔靴掻痒というか、まわりくどい。
花火と爆弾は確か同じ火薬でできているわけだけれど、それをくっつけた作劇はどうも頭で作った感じ。
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