「鏡のある部屋」
【登場人物】
森下加奈子(21)
友だちの山岡尚美(22)
三島里恵 (29)
T「その日」
コンビニ袋とちょっとした手荷物を持って街を歩いている加奈子。
加奈子のN「最近、友だちの山岡尚美が引っ越した。ご馳走するから遊びに来いというので行くことにしたが、何、片付けを手伝わせようというのだろう。その新しいアパートはどんなのか聞いてみて、値段を聞いてあまりにも安いのにびっくりしてしまった。何か問題があった物件じゃないと言ったのだが、『ちゃんとリフォームしてあるし、呪いだの幽霊だの、お告げだの予言だの、そんなものあるわけないじゃん』と、まるで取り合わない。私は呪いとも幽霊とも言っていないので、そんなことを勝手に言い出したところをみると、内心気にしているらしい。も呪いとか幽霊とか信じてはいないが、出てくるものなら見てみたいというくらいの気持ちだった」
とあるアパートに着く加奈子。
チャイムを押すが、答えはない。
加奈子「?」
ノブを引いてみるが、開かない。
加奈子「なによ、人を呼んでおいて」
かちゃり、と鍵が開くような音がする。
加奈子「尚美?」
答えはない。
加奈子「いるの?」
ノブを引いてみると、今度はドアが開く。
加奈子「あれ?」
そうっと中に入る。
加奈子「尚美?」
答えはない。
加奈子「上がるわよ」
声をかけて上がり、袋を置いてリビング周囲を見て回る。
中はまだ家具や調度品はほとんどない状態だ。
加奈子「尚美?」
部屋の隅には大きな鏡がある。
尚美が持ってきたものではなく、前から置いてあるものらしい。
加奈子、ちょっとその前でポーズをとる。
もちろん、鏡の中の加奈子もポーズをとる。
冷蔵庫の前に来る加奈子。
冷蔵庫を開ける。
缶ビール以外、ほとんど何も入っていない。
バスルームを覗いて見渡してみる。
加奈子「やっほー」
音が響く。
一通り見て回る。
すると、することがなくなってしまう。
加奈子「何よ、人呼んどいて」
加奈子、携帯をかけてみる。
発信音が続いたあと、
「この電話は、電源が切ってあるか、電波の届かないところにあるので、かかりません」
という案内が聞こえてくる。
加奈子のN「私はそれほど驚かなかった。尚美にはこういうルーズな目に、今まで何度もあっているからだ」
床に座る。
加奈子「買い物でもしているのだろう。私は、待つことにした」
ちらと大きなアナログ式の時計を見る。
具体的な数字や文字の入っていない、完全左右対称の時計だ。
今、6時ちょっと過ぎくらい。
加奈子、テレビをつけてみる。
チャンネルの番号だけ表示されて、何もつかない(いわゆる砂嵐は出ない)。
加奈子「まだテレビつながってないんだ」
と、携帯でゲームを始める。
時計は、午後7時を過ぎている。
加奈子「遅いな」
と、携帯をかける。
「(また)この電話は、電源が切ってあるか、電波の届かないところにあるので、かかりません」
加奈子「まったく」
と、落ち着かない。
加奈子「おなかすいたなあ。何よ、人呼んでおいて」
と、持ってきた袋を開ける 。
加奈子「これしかない」
と、二人分の缶ビールとポテトチップ、その他の乾き物を出す。
チラシをしいて、その上に並べる。
加奈子「(ビールを開けて)乾杯」
と、何もない空間に向かって缶を突き出す。
カン…、という小さな音が響く。
誰かが乾杯し返したように。
加奈子、ちょっと首をかしげる。
飲み食いしだす。
× ×
呼び出し音がする。
空き缶が数本転がっている。
うとうとしていた加奈子、携帯が鳴っているのに気づいて目を覚ます。
加奈子「(はっとして急いで出て)もしもし」
尚美の声「もしもし」
加奈子「あ、尚美、遅いよー、今どこにいるの」
尚美の声「今どこにいる」
加奈子「こっちが聞いてるのよ」
尚美の声「もう着いた」
加奈子「え、もう着いたの?」
尚美の声「帰りなさい」
加奈子「え? 何言ってるの?」
尚美の声「帰りなさい」
加奈子「なに言ってるの。あたしはとっくについてるよ。今どこ。スーパー?買出し?」
尚美の声「帰りなさい」
加奈子「だから、いまどこだって」
尚美の声「ここ」
その声は、携帯からではなく、すぐそばから生で聞こえる。
加奈子、思わずまわりを見回す。
だが、自分以外の誰もいない。
加奈子「(また携帯に向かい)もしもし、どうしたの、何かあった?」
尚美「いいから、帰って」
加奈子「?…ちょっと、尚美、どうしたの」
通信にノイズが入る。
加奈子「もしもし、尚美?」
答えなし。
加奈子「もしもし?」
答えなし。
加奈子「何よ、どうしたの」
尚美の声「真夜中に鏡を見ると、自分の運命が見える」
加奈子「えーっ?何言ってるの」
当惑する。
そのまま、尚美の声は黙っている。
加奈子「もしもし、どうかした? この部屋で何か怖い目にでもあった?」
尚美の声「…」
加奈子「もしもし、だからあたしが前にそういうことないか聞いたじゃない」
尚美の声「…(またノイズが入る)」
加奈子「どうしたの、何かあって、ここに帰ってこないわけ」
尚美の声「5年前の…」
加奈子「え? 5年前がどうしたって?」
尚美の声「5年前の…」
加奈子「5年前の、なに」
尚美の声「午前0時に」
加奈子「午前0時に」
尚美の声「(ノイズが大きくなる)…午後0時に」
加奈子「もしもし、5年前の、午前0時がどうしたの。何が起きたの」
ノイズが大きくなって、会話ができなくなる。
加奈子「もしもし、5年前の、午前0時がどうしたの」
一瞬、間をおいて、
加奈子、振り返る。
が、誰もいない。
また鏡を見る。
加奈子しか写っていない。
加奈子「(携帯に)もしもし」
答えがないので見ると、「通話終了」の表示。
加奈子「…(また、鏡を見る)」
誰も写っていない。
加奈子「?…(覗き込む)」
尚美一人が歩き回っているのが見える。
髪をまとめているところを見ると、これから風呂に入るような素振りだ。
尚美、鏡の中でバスルームに入っていく。
バスルームの明かりがつき、扉が閉じられる。
加奈子、また振り返る。
バスルームの扉は開けっ放しで、明かりはついていない。
ふっと時計が目に入る。
十一時過ぎ。
加奈子「えっ、もうこんな時間?」
びっくりして、自分の携帯で確かめても、11:32を示している。
加奈子「ビール飲んで、ちょっとうたたねしただけだと思ったのに」
ため息をつく。
加奈子「帰りの電車、あるかな」
…シャワーの水音が聞こえてくる。
加奈子、ゆっくりと見る。
バスルームのいつのまにか扉が閉まっている。
水音は続いている。
加奈子、いけないと思いながら、近づいていく。
扉に手をかけ、開く。
脱衣所に入る加奈子。
加奈子「尚美?…尚美?」
答えはない。
ふっ、と鏡の中を見る。
一瞬、尚美がいたような。
加奈子「尚美?」
誰かがシャワーを浴びている気配がする。
加奈子、バスルームに入っていく。
加奈子「尚美? あなたなの?」
シャワーの音が止まる。
尚美の声「加奈子?」
加奈子「いるの?」
尚美の声、突然悲鳴に変わる。
加奈子「尚美、尚美?」
内扉を開けて中に入る。
加奈子「!…(息を呑む)」
バスタブの湯が、真っ赤に染まっている。
人間の姿は見えない。
加奈子、立ちすくんでいる。
ごぼっ、と湯から泡があがる。
ごぼっ、ごぼっとさらに続く。
加奈子「…(近づく)」
ざばーっ、と湯の中からとても生きている人間とは思えない、尚美ではない女(里恵)が上がってくる。
服を着たまま風呂に入っていたもので、髪も服もべったり肌にくっついて、なんとも凄惨な雰囲気。
それとは別に額に大きな向こう傷がついている。
加奈子「(息が止まったようで、悲鳴も出ない)」
ぴたっ、と里恵と加奈子と目が合う。
加奈子、がたがた震えて動けない。
加奈子「(やっと)あんた、誰。尚美じゃない」
里恵、手を伸ばしてくる。
加奈子、動けない。
里恵の手が加奈子に届く。
加奈子、弾かれたように悲鳴をあげ、バスルームから逃げようとする。
がたっと、内扉がはずみで閉まり、閉じ込められる。
開けようとするが、あわてているので開かない。
里恵がバスタブから上がってきて追いすがってくる。
加奈子、絶叫して扉をがたつかせる。
やっと扉が開いて、飛び出す加奈子。
尚美の声「加奈子」
声のした方を見る加奈子。
見ると、鏡の中から尚美が見ている。
加奈子、すうっと意識が遠のく。
× ×
床の上に横になっている加奈子。
尚美「(見下ろしている)どうしたの、いったい」
と、何事もなかったかのよう。
加奈子、寝かされている。
尚美「ずいぶんうなされていたけど」
加奈子「どこに行ってたの」
尚美「どこって、ずっとここにいたけど」
加奈子「うそっ」
尚美「飲みすぎたでしょ」
加奈子「飲みすぎ…」
尚美「悪い夢でも見ていたみたい」
加奈子「夢…」
尚美「何があったの」
加奈子「帰る」
尚美「むりよ、もうこんな時間」
加奈子「時間?」
跳ね起きる。
目にとびこんできた時計の文字盤。
すでに0時1分をさしている。
加奈子「(安堵のためいきをつく)やれやれ」
尚美「どうかした?」
加奈子「いや、この部屋では午前0時になると、何か起こるとか…」
尚美「何それ。誰が言ったの」
加奈子「誰ってあんたじゃ…(いいかけてやめる)」
尚美「夢の中で?」
加奈子「そう夢の中…」
尚美「他に何だって?」
加奈子「夜遅くに鏡の中を覗くと運命が見えるとか、五年前の午前0時にこの部屋でどうしたとか」
尚美「そうあたしが言った?」
加奈子「そう」
尚美「ふーん」
加奈子「夢だったんだよね。バカみたい。もう午前0時過ぎたんだし」
尚美「気にするんだ」
加奈子「それはね」
尚美「呪いとか幽霊とか信じる?」
加奈子「信じちっゃいいけどさ」
尚美「信じない?」
加奈子「信じてないよ。だけどバカバカしいとは思っていても気味悪いってことあるでしょ」
尚美「そう」
加奈子「しかし、すごくリアルだったなあ」
尚美「どこが」
加奈子「そこの風呂から女が上がってくるの。見たこともない女。それが襲ってくるの」
尚美「それから」
加奈子「あ、そうだ。あんたの姿が鏡の中にだけ見えるの。こっちには誰もいないのに、鏡を覗くとあんたが写ってるの。チンプだよね。真夜中に未来の姿を映す鏡とか、どこにでもある話なのに」
尚美「未来とは限らないんじゃない」
加奈子「まあ、どうでもいいわ」
尚美「そう?」
加奈子「新しい部屋にケチつけるようなこと言ってごめんね」
尚美「気にしちゃいないわよ」
加奈子「ありがと。だってさ、仮にその呪いとかいうものがあったとして、もう午前0時を過ぎてるんだからね。だけど何も起こってないじゃない」
と、改めて時計を見る。
と、かたっといって針が左回りに回って、午前0時になる。
加奈子「えっ」
目を疑って、まじまじと見直す。
だが、時計は間違いなく0時を指している。
加奈子、改めてあたりを見渡す。
目に真っ先についたチラシの文句が鏡文字になっている。
加奈子「裏返し…」
仰天して立ち上がり、目につく限りの文字を確認してまわるが、全部鏡文字だ。
加奈子「これも、これも、これも」
携帯を出して、時計の文字盤を確かめる。
これまた左右逆になって午前0時過ぎを示している。
部屋全体を見渡してみる。
さっきまでとは、部屋全体の配置が左右裏返しになっている。
(たとえば、玄関に対してバスルームが向かって右にあったのが左になっている、といった具合)
加奈子「どう…なってるの」
尚美「わからない?」
加奈子「…」
尚美「わかってるでしょう」
加奈子「鏡の中…みたい」
尚美「みたい、じゃない。そう、ここは鏡の中の世界」
加奈子、部屋の一番大きな鏡に突進する。
自分の姿は写っていない。
尚美「この世ではない、過去に向かって時が流れる世界」
尚美が解説しなから傍らに立つ。
やはり、尚美の姿も鏡に写っていない。
現実の世界(鏡)から見ると、誰もいない部屋で、鏡の中にだけ加奈子と尚美の姿が写っていた。
加奈子「(悲鳴をあげる)」
× ×
時計の針が左回りに回る。
流しで、水滴が下から上へと上昇し、蛇口にすぽっと入る…水が滴る映像の逆回転版。
× ×
T「一日前」
加奈子と尚美が鏡の前で話している。
加奈子「なんで、こんなところに」
尚美「…だから、警告したのに」
加奈子「警告? どんな警告よ」
尚美「これからする」
加奈子「これから?」
尚美「前に電話したでしょ。覚えてない? 時計見て」
加奈子、見る。
午後5時…。
尚美「5時じゃないよ。7時だよ」
加奈子「…」
尚美「あんたがビールを飲んでた時間」
加奈子「見てたの」
尚美「見えるだろ」
鏡の向こう(現実世界)を示す。
× ×
現実のリビングでは午後7時。
ビールを飲んでいる加奈子。
× ×
尚美「あんたが警告を聞いて出て行ってくれればいいんだけど」
と、携帯を取ってかける。
× ×
現実のリビングにいる加奈子の携帯に着信がある。
加奈子「(出て)あ、尚美、遅いよー、今どこにいるの」
× ×
鏡の中からその様子を見ながら携帯をかけている尚美と、現実のリビングの加奈子の会話。
尚美「今どこにいる」
加奈子「こっちが聞いてるのよ」
尚美の声「もう着いた」
加奈子「え、もう着いたの?」
尚美の声「帰りなさい」
加奈子「え? 何言ってるの?」
尚美の声「帰りなさい」
× ×
鏡の中から尚美がいつのまにかいなくなり、ゆっくりと現実の加奈子のそばを携帯を持って歩き回っている。
この世のものでなくなった加奈子、鏡の中でずっと立ち尽くしている。
× ×
現実のリビング。
以下、さっきの加奈子と尚美の携帯を使ったやりとりを、もう一度角度を変えて描く。
加奈子「なに言ってるの。あたしはとっくについてるよ。今どこ。スーパー?買出し?」
尚美「(周囲を巡りながら)帰りなさい」
相変わらず、尚美の存在に気づかない加奈子。
加奈子「だから、いまどこだって」
尚美「ここ」
と、加奈子の耳に口を寄せるようにして言う。
加奈子、思わずまわりを見回す。
だが、自分以外の誰も見えない。
加奈子「(また携帯に向かい)もしもし、どうしたの、何かあった?」
尚美「いいから、帰って」
加奈子「?(さすがにおかしいと思って)…ちょっと、尚美、どうしたの」
尚美、里恵が部屋の隅に立っているのに気づく。
通信にノイズが入る。
加奈子「もしもし、尚美?」
里恵が迫ってくる。
それとともに、通信にノイズが入る。
答えなし。
加奈子「もしもし?」
× ×
加奈子「何よ、どうしたの」
里恵がいるので、焦る尚美。
尚美「(力を入れて言う)真夜中に鏡を見ると、自分の運命が見える」
加奈子「えーっ?何言ってるの」
当惑する。
加奈子「もしもし、どうかした? この部屋で何か怖い目にでもあった?」
尚美「これからあんたが会うの」
と、言うが、里恵が立っているとノイズになって加奈子には聞こえない。
加奈子「もしもし、だからあたしが前にそういうことないか聞いたじゃない」
歩き回る里恵の亡霊。
尚美の声に、またノイズが入る。
加奈子「どうしたの、何かあって、ここに帰ってこないわけ」
尚美「5年前の…」
加奈子「え? 5年前がどうしたって?」
尚美「5年前の…」
加奈子「5年前の、なに」
尚美「午前0時に」
加奈子「午前0時に」
尚美「(ノイズが大きくなる)…午後0時に」
加奈子「もしもし、5年前の、午前0時がどうしたの。何が起こるの」
ノイズが大きくなって、会話ができなくなる。
加奈子「もしもし、5年前の、午前0時がどうしたの」
通話が切れる。
× ×
鏡の中の世界の尚美と加奈子。
尚美「やっぱり、伝えられなかった」
加奈子「もう一人うろついているあいつは、誰」
尚美「わからない。ずっといる。昨日もいた」
加奈子「きのう?」
時計を見る尚美。
午後11時46分。
尚美「おそらく五年前からいる」
× ×
現実。
尚美、立ち上がって髪をまとめて、部屋のあちこち歩き回って風呂支度を始める。
それを見ている加奈子(いつのまにか現実に介入してきている)。
ふっと、もう一人の、部屋の隅にいる女(里恵)の姿が自然に視界に入ってくる。
バスタブの中から姿を現した女だ。
加奈子「(里恵に)あんた、誰」
だが、里恵は加奈子を無視して立ったままでいる。
尚美は加奈子同様、里恵の姿にも気づかないでいる。
が、鏡の前に来た時、その姿を鏡の中に認めて、ぎょっとした顔をしている。
振り返るが、尚美の目には里恵も、加奈子も見えない。
里恵、歩き出す。
里恵が目の前を通り越しても、尚美は気づかない。
加奈子、里恵が歩いていくのを目を追う。
里恵、バスルームに入っていく。
尚美、また鏡を見るが、もちろんその時は里恵の姿は鏡の中に見えない。
加奈子が見守っている中、薄気味悪そうにして、バスルームに向かう尚美。
加奈子「(思わず声が出る)入っちゃいけない」
もちろん声は届かず、尚美はバスルームに入っていく。
後を追う加奈子、その目の前で扉が閉められる。
加奈子、習慣で立ち止まってしまう。
しばらく立ちすくんでしまう加奈子。
尚美の声「立ち止まることないのに。中に入れるよ」
加奈子、振り向く。
たったいまバスルームに入っていった尚美ではなく、加奈子同様に鏡の世界の住人になっている尚美が立っている。
尚美「まだ人間のときの習慣が抜けないみたい」
加奈子「あの女は誰」
尚美「風呂の中に沈んでいた?」
加奈子「そう。」
尚美「あたしじゃない方?」
加奈子「あたりまえでしょう」
尚美「そうでもない。昨日のあたしは今日のあたしじゃないから」
加奈子「その昨日と今日って、どっちが前で、どっちが後なの」
尚美「今日が前で、昨日が後」
加奈子「…逆か」
尚美「早く慣れるのね」
加奈子「で、さっきの誰」
尚美「知らない」
加奈子「知らなくていいの? あんたを殺した女なのに」
尚美「いいわけない」
バスルームの中。
シャワーを浴びて石鹸を落としている尚美。
ふと、視線を感じて、あたりを見渡す。
尚美「誰?」
当然だが、誰もいない。
バスタブに入ろうとすると、
「入ってはだめ」
声が聞こえるので、ぴたりと入る動作を途中で止まる。
しかし、それ以上声は聞こえないので、風呂に漬かる。
湯気で曇る鏡。
尚美「…?」
また変な声が聞こえてくる。
「出なさい、出ないと死ぬ」
鏡の中から聞こえてくるのだが、尚美ももちろんそんなことを思いもよらない。
湯をかきまわしている尚美の手に、黒髪がからみつく。
尚美「何これ」
気持ち悪そうに振り払う。
湯の中に手を伸ばして探ってみる。
尚美「?…」
湯の中から拾い上げたのは、カミソリだ。
尚美「何これ」
湯が突然、みるみる赤くなる。
尚美「(悲鳴をあげる)」
湯の中に引きずり込まれる。
暴れて、激しく水面が揺れるが、やがて静かになる。
湯が真っ赤で何も見えない。
ごぼっといって、湯が抜け始める。
どんどん湯が抜けていき…、誰もいない。
湯気で曇った鏡が、水滴が取れて晴れてくる。
尚美の声「やっぱり、運命は変えられない」
いつのまにか、加奈子と尚美が空のバスタブの傍らに立っている。
加奈子「誰、あんたを引きずり込んだのは」
尚美「わからない」
加奈子「わからないじゃないでしょう。あんたのせいよ、あたしまでこんなことになったのは」
尚美「人のせいにするつもり」
加奈子「事実、あなたのせいじゃない」
尚美「警告したのにのこのこやってきて」
加奈子「ここで引き返していればよかったのに」
尚美「あと、五年待たないと」
加奈子「五年?」
尚美「そう、五年」
加奈子、天を仰ぐ。
加奈子「長いなあ」
尚美「過ぎてしまえば、すぐよ」
加奈子「我慢できそうにない」
× ×
さらに時間を遡り…
まだ部屋に引っ越してきた間もない尚美が、携帯で加奈子を誘っている場面。
尚美「(携帯をかけている)あ、加奈子? あたし。尚美。きょう引っ越してきたんだ。あしたご馳走するから遊びに来ない? …片付けを手伝わせようなんてんじゃないよ。家賃?安いよ。相場のまあ半分。…え、何か問題があった物件じゃないかって? ちゃんとリフォームしてあるし、呪いだの幽霊だのそんなものあるわけないじゃん」
じいっと、この世のものでなくなった加奈子がそばにいて尚美を睨んでいる。
尚美「あたし?あたしもも呪いとか幽霊とか、信じちゃいないけどさ。出てくるものなら見てみたいというくらい。あとお告げとか予言とか占いとか、みんな信じてない」
と、笑いながら見えないが加奈子の気配を感じて不安になる尚美。
× ×
× ×
時計の針が左回りに回る。
横になった酒瓶から、中身が逆回転で戻っている。
× ×
T「5年前」
まだ生きていた里恵がビールを飲みながら歩き回っている。
思いつめた表情。
酔いがまわって、目の焦点が合っていない。
ばさばさの髪。
ビールを飲む。
さらに日本酒を飲む。
さらに焼酎を飲む。
手が止まらない感じ。
そこら中、ビールや酒類の空き缶空き瓶がごろごろしている。
携帯が鳴る。
里恵「(出て)もしもし」
「死んではダメ」
里恵「誰」
「死んだら地縛霊になってずうっとその部屋から出られなくなるよ。死んではいけない」
里恵「誰。なんであたしが死ぬことに決めたのを知ってるの」
「なんででも。とにかく死んだらいけない」
里恵「またあたしをからかってるんでしょう」
部屋の片隅に加奈子と尚美がぼうっと立っている。
誰のかはっきりしない女の声「死んだらどうなると思う」
里恵「あたしなんか、どうせすぐみんな忘れる」
加奈子と尚美の姿が消えている。
女の声「そんなことない。死んだら恨みつらみがずうっと残って無事にあの世に行けないよ」
里恵「大きなお世話。誰、あんた」
女の声「死んだらまわりに迷惑がかかる。ものすごく」
里恵「もうかけてるよ。あたしがアル中だって、みんな気づいている。陰で笑っている声が聞こえる」
女の声「そんなの、気にしなければいい」
里恵「気になんかしているか。あたしをなめてるんだ。死んで見せたら、少しは見直すだろ」
女の声「そんなこと言って、死んだら終わりよ」
里恵「終わりにしたいんだ。こんな世の中に未練なんかあるかっ、死んでやるさ、死んでやるとも」
女の声「酔ってますね。お酒を控えないと」
里恵「あたしはアル中だからね。控えるってことはできないんだよ。飲むか、完全にやめるか」
女の声「だったら本当にやめてください」
里恵「アル中はね、酒が切れたときの方が怖いんだよ。酒びたりで痺れていた頭が酒が切れると変に興奮して、悪夢をみるんだ。それはそれは恐ろしい悪夢をね。それに比べたらホラー映画なんて、ままごとみたいなものさ」
と、携帯を切る。
それでも、すぐに何をするでもなく、ぐずぐずしている里恵。
ビールが空になる。
さらにまた用意してあった日本酒を飲みだす。
飲みながら、鏡の前に立つ。
「(自分の顔を見て)ひどい顔」
鏡の中に自分とは別の人影を認めて、振り返る。
誰もいない。
また鏡の中の自分と向かい合う。
「(自分に向かって)おまえなんか死んでしまえおまえなんか死んでしまえおまえなんか死んでしまえ…」
ぶつぶつぶつ繰り返す。
言ってはまたもう一杯ひっかける。
また人影が鏡の中に見える。
里恵、今度は驚かない。
里恵「死神かい、いつでも連れて行ってよ」
けけけと笑う。
また飲む。
また鏡を見る。
人影が、里恵の耳元に口を近づけて何事かささやくのが鏡の中に見える。
だが何も聞こえない。
里恵「なに、なにを言ったの」
里恵「あんた、だれ」
へらへら言いながら、また一杯開ける。
鏡に向き直ると、人影は消えている。
里恵「死神のささやきかい」
また飲む。
里恵、ふらふらとおぼつかない足取りでバスルームに向かう。
時計の針は11時41分。
洗面台で改めて鏡に向き合う里恵。
また人影が鏡の中に見える。
里恵、さすがに顔色が変わる。
里恵「また出た」
鏡の中からじいっと睨んでいる目。
気づくと、その目は二人分、全部で四つある。
里恵、さすがに体が動かなくなる。
里恵「まったく、三年間この部屋に住んでいるのに、幽霊を見るのが今日が初めとはどういうこと。やっぱりお迎えが来たということか」
最後の一口を飲み干す。
がたがた震えがくる。
里恵「これだけ飲んだのに、まだ足りない」
産毛剃り用のカミソリを出して、手首に当ててみる。
それから風呂場に行き、バスタブにお湯を入れだす。
後戻りしようとして、誰かの手が里恵を突き飛ばす。
転倒する里恵。
時間が経つ…、蛇口から流れ落ちる湯。
それが床を流れ、倒れた里恵の顔に至る。
意識を取り戻す里恵。
里恵「いた…」
と、額に手をやる。
向こう傷のように傷がついている。
里恵、気味悪そうにあたりを見渡す。
里恵「誰か、あたしを突き飛ばした?」
酔いがまわって、頭がぐらぐらする。
吐き気がする。
里恵「そうだ、死なないと…」
と体中を探ってカミソリを探す。
里恵「カミソリ…、カミソリ…あった」
と、取り出す。
× ×
時計の針、11時50分。
× ×
里恵、服のままざぶっとバスタブに体を沈める。
そして、カミソリを手首に当てる。
酔いで感覚が麻痺しているのか、あまりためらうことなくざっくり切る。
切った瞬間は痛むが、湯に入ったもので酔いがまわってきてそのまま半ば眠り込む。
そのまま沈んでいきそうになる。
顔が半分沈んだところで、ぱっと意識を取り戻して反射的にはね起きる。
里恵「あぶないところだった」
と、その頭がつかまれ、湯の中に押し込まれる。
溺れる里恵。
その頭をバスタブに押し込んでいるのは、尚美。
尚美「そんなに死にたいのなら、死なせてあげようじゃないの」
里恵、暴れて、なんとか尚美の手を跳ね返して顔を水の外に出す。
すると、さらに加奈子も加わって里恵の頭を水の中に沈める。
加奈子「あんたのせいで、あたしたちはこんな目に合ってるんだ」
里恵「迷惑だって言ってるのに」
加奈子「人の言うこと聞かないで」
里恵「死ね」
加奈子「死ねえっ」
× ×
里恵が一人でバスタブの中で暴れている。
× ×
二人に水責めを受けている里恵。
やがて、抵抗をやめて動かなくなり、湯の中に沈んで姿が見えなくなる。
× ×
一見したところ、誰もいない風呂場。
ただ、なみなみと淵まで真っ赤な湯を湛えたバスタブがあるだけ。
× ×
リビングの鏡に映っている一人で里恵。
折から、時計は午前0時を指している。
かちっと午前0時1分になる。
(終)
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森下加奈子(21)
友だちの山岡尚美(22)
三島里恵 (29)
T「その日」
コンビニ袋とちょっとした手荷物を持って街を歩いている加奈子。
加奈子のN「最近、友だちの山岡尚美が引っ越した。ご馳走するから遊びに来いというので行くことにしたが、何、片付けを手伝わせようというのだろう。その新しいアパートはどんなのか聞いてみて、値段を聞いてあまりにも安いのにびっくりしてしまった。何か問題があった物件じゃないと言ったのだが、『ちゃんとリフォームしてあるし、呪いだの幽霊だの、お告げだの予言だの、そんなものあるわけないじゃん』と、まるで取り合わない。私は呪いとも幽霊とも言っていないので、そんなことを勝手に言い出したところをみると、内心気にしているらしい。も呪いとか幽霊とか信じてはいないが、出てくるものなら見てみたいというくらいの気持ちだった」
とあるアパートに着く加奈子。
チャイムを押すが、答えはない。
加奈子「?」
ノブを引いてみるが、開かない。
加奈子「なによ、人を呼んでおいて」
かちゃり、と鍵が開くような音がする。
加奈子「尚美?」
答えはない。
加奈子「いるの?」
ノブを引いてみると、今度はドアが開く。
加奈子「あれ?」
そうっと中に入る。
加奈子「尚美?」
答えはない。
加奈子「上がるわよ」
声をかけて上がり、袋を置いてリビング周囲を見て回る。
中はまだ家具や調度品はほとんどない状態だ。
加奈子「尚美?」
部屋の隅には大きな鏡がある。
尚美が持ってきたものではなく、前から置いてあるものらしい。
加奈子、ちょっとその前でポーズをとる。
もちろん、鏡の中の加奈子もポーズをとる。
冷蔵庫の前に来る加奈子。
冷蔵庫を開ける。
缶ビール以外、ほとんど何も入っていない。
バスルームを覗いて見渡してみる。
加奈子「やっほー」
音が響く。
一通り見て回る。
すると、することがなくなってしまう。
加奈子「何よ、人呼んどいて」
加奈子、携帯をかけてみる。
発信音が続いたあと、
「この電話は、電源が切ってあるか、電波の届かないところにあるので、かかりません」
という案内が聞こえてくる。
加奈子のN「私はそれほど驚かなかった。尚美にはこういうルーズな目に、今まで何度もあっているからだ」
床に座る。
加奈子「買い物でもしているのだろう。私は、待つことにした」
ちらと大きなアナログ式の時計を見る。
具体的な数字や文字の入っていない、完全左右対称の時計だ。
今、6時ちょっと過ぎくらい。
加奈子、テレビをつけてみる。
チャンネルの番号だけ表示されて、何もつかない(いわゆる砂嵐は出ない)。
加奈子「まだテレビつながってないんだ」
と、携帯でゲームを始める。
時計は、午後7時を過ぎている。
加奈子「遅いな」
と、携帯をかける。
「(また)この電話は、電源が切ってあるか、電波の届かないところにあるので、かかりません」
加奈子「まったく」
と、落ち着かない。
加奈子「おなかすいたなあ。何よ、人呼んでおいて」
と、持ってきた袋を開ける 。
加奈子「これしかない」
と、二人分の缶ビールとポテトチップ、その他の乾き物を出す。
チラシをしいて、その上に並べる。
加奈子「(ビールを開けて)乾杯」
と、何もない空間に向かって缶を突き出す。
カン…、という小さな音が響く。
誰かが乾杯し返したように。
加奈子、ちょっと首をかしげる。
飲み食いしだす。
× ×
呼び出し音がする。
空き缶が数本転がっている。
うとうとしていた加奈子、携帯が鳴っているのに気づいて目を覚ます。
加奈子「(はっとして急いで出て)もしもし」
尚美の声「もしもし」
加奈子「あ、尚美、遅いよー、今どこにいるの」
尚美の声「今どこにいる」
加奈子「こっちが聞いてるのよ」
尚美の声「もう着いた」
加奈子「え、もう着いたの?」
尚美の声「帰りなさい」
加奈子「え? 何言ってるの?」
尚美の声「帰りなさい」
加奈子「なに言ってるの。あたしはとっくについてるよ。今どこ。スーパー?買出し?」
尚美の声「帰りなさい」
加奈子「だから、いまどこだって」
尚美の声「ここ」
その声は、携帯からではなく、すぐそばから生で聞こえる。
加奈子、思わずまわりを見回す。
だが、自分以外の誰もいない。
加奈子「(また携帯に向かい)もしもし、どうしたの、何かあった?」
尚美「いいから、帰って」
加奈子「?…ちょっと、尚美、どうしたの」
通信にノイズが入る。
加奈子「もしもし、尚美?」
答えなし。
加奈子「もしもし?」
答えなし。
加奈子「何よ、どうしたの」
尚美の声「真夜中に鏡を見ると、自分の運命が見える」
加奈子「えーっ?何言ってるの」
当惑する。
そのまま、尚美の声は黙っている。
加奈子「もしもし、どうかした? この部屋で何か怖い目にでもあった?」
尚美の声「…」
加奈子「もしもし、だからあたしが前にそういうことないか聞いたじゃない」
尚美の声「…(またノイズが入る)」
加奈子「どうしたの、何かあって、ここに帰ってこないわけ」
尚美の声「5年前の…」
加奈子「え? 5年前がどうしたって?」
尚美の声「5年前の…」
加奈子「5年前の、なに」
尚美の声「午前0時に」
加奈子「午前0時に」
尚美の声「(ノイズが大きくなる)…午後0時に」
加奈子「もしもし、5年前の、午前0時がどうしたの。何が起きたの」
ノイズが大きくなって、会話ができなくなる。
加奈子「もしもし、5年前の、午前0時がどうしたの」
一瞬、間をおいて、
加奈子、振り返る。
が、誰もいない。
また鏡を見る。
加奈子しか写っていない。
加奈子「(携帯に)もしもし」
答えがないので見ると、「通話終了」の表示。
加奈子「…(また、鏡を見る)」
誰も写っていない。
加奈子「?…(覗き込む)」
尚美一人が歩き回っているのが見える。
髪をまとめているところを見ると、これから風呂に入るような素振りだ。
尚美、鏡の中でバスルームに入っていく。
バスルームの明かりがつき、扉が閉じられる。
加奈子、また振り返る。
バスルームの扉は開けっ放しで、明かりはついていない。
ふっと時計が目に入る。
十一時過ぎ。
加奈子「えっ、もうこんな時間?」
びっくりして、自分の携帯で確かめても、11:32を示している。
加奈子「ビール飲んで、ちょっとうたたねしただけだと思ったのに」
ため息をつく。
加奈子「帰りの電車、あるかな」
…シャワーの水音が聞こえてくる。
加奈子、ゆっくりと見る。
バスルームのいつのまにか扉が閉まっている。
水音は続いている。
加奈子、いけないと思いながら、近づいていく。
扉に手をかけ、開く。
脱衣所に入る加奈子。
加奈子「尚美?…尚美?」
答えはない。
ふっ、と鏡の中を見る。
一瞬、尚美がいたような。
加奈子「尚美?」
誰かがシャワーを浴びている気配がする。
加奈子、バスルームに入っていく。
加奈子「尚美? あなたなの?」
シャワーの音が止まる。
尚美の声「加奈子?」
加奈子「いるの?」
尚美の声、突然悲鳴に変わる。
加奈子「尚美、尚美?」
内扉を開けて中に入る。
加奈子「!…(息を呑む)」
バスタブの湯が、真っ赤に染まっている。
人間の姿は見えない。
加奈子、立ちすくんでいる。
ごぼっ、と湯から泡があがる。
ごぼっ、ごぼっとさらに続く。
加奈子「…(近づく)」
ざばーっ、と湯の中からとても生きている人間とは思えない、尚美ではない女(里恵)が上がってくる。
服を着たまま風呂に入っていたもので、髪も服もべったり肌にくっついて、なんとも凄惨な雰囲気。
それとは別に額に大きな向こう傷がついている。
加奈子「(息が止まったようで、悲鳴も出ない)」
ぴたっ、と里恵と加奈子と目が合う。
加奈子、がたがた震えて動けない。
加奈子「(やっと)あんた、誰。尚美じゃない」
里恵、手を伸ばしてくる。
加奈子、動けない。
里恵の手が加奈子に届く。
加奈子、弾かれたように悲鳴をあげ、バスルームから逃げようとする。
がたっと、内扉がはずみで閉まり、閉じ込められる。
開けようとするが、あわてているので開かない。
里恵がバスタブから上がってきて追いすがってくる。
加奈子、絶叫して扉をがたつかせる。
やっと扉が開いて、飛び出す加奈子。
尚美の声「加奈子」
声のした方を見る加奈子。
見ると、鏡の中から尚美が見ている。
加奈子、すうっと意識が遠のく。
× ×
床の上に横になっている加奈子。
尚美「(見下ろしている)どうしたの、いったい」
と、何事もなかったかのよう。
加奈子、寝かされている。
尚美「ずいぶんうなされていたけど」
加奈子「どこに行ってたの」
尚美「どこって、ずっとここにいたけど」
加奈子「うそっ」
尚美「飲みすぎたでしょ」
加奈子「飲みすぎ…」
尚美「悪い夢でも見ていたみたい」
加奈子「夢…」
尚美「何があったの」
加奈子「帰る」
尚美「むりよ、もうこんな時間」
加奈子「時間?」
跳ね起きる。
目にとびこんできた時計の文字盤。
すでに0時1分をさしている。
加奈子「(安堵のためいきをつく)やれやれ」
尚美「どうかした?」
加奈子「いや、この部屋では午前0時になると、何か起こるとか…」
尚美「何それ。誰が言ったの」
加奈子「誰ってあんたじゃ…(いいかけてやめる)」
尚美「夢の中で?」
加奈子「そう夢の中…」
尚美「他に何だって?」
加奈子「夜遅くに鏡の中を覗くと運命が見えるとか、五年前の午前0時にこの部屋でどうしたとか」
尚美「そうあたしが言った?」
加奈子「そう」
尚美「ふーん」
加奈子「夢だったんだよね。バカみたい。もう午前0時過ぎたんだし」
尚美「気にするんだ」
加奈子「それはね」
尚美「呪いとか幽霊とか信じる?」
加奈子「信じちっゃいいけどさ」
尚美「信じない?」
加奈子「信じてないよ。だけどバカバカしいとは思っていても気味悪いってことあるでしょ」
尚美「そう」
加奈子「しかし、すごくリアルだったなあ」
尚美「どこが」
加奈子「そこの風呂から女が上がってくるの。見たこともない女。それが襲ってくるの」
尚美「それから」
加奈子「あ、そうだ。あんたの姿が鏡の中にだけ見えるの。こっちには誰もいないのに、鏡を覗くとあんたが写ってるの。チンプだよね。真夜中に未来の姿を映す鏡とか、どこにでもある話なのに」
尚美「未来とは限らないんじゃない」
加奈子「まあ、どうでもいいわ」
尚美「そう?」
加奈子「新しい部屋にケチつけるようなこと言ってごめんね」
尚美「気にしちゃいないわよ」
加奈子「ありがと。だってさ、仮にその呪いとかいうものがあったとして、もう午前0時を過ぎてるんだからね。だけど何も起こってないじゃない」
と、改めて時計を見る。
と、かたっといって針が左回りに回って、午前0時になる。
加奈子「えっ」
目を疑って、まじまじと見直す。
だが、時計は間違いなく0時を指している。
加奈子、改めてあたりを見渡す。
目に真っ先についたチラシの文句が鏡文字になっている。
加奈子「裏返し…」
仰天して立ち上がり、目につく限りの文字を確認してまわるが、全部鏡文字だ。
加奈子「これも、これも、これも」
携帯を出して、時計の文字盤を確かめる。
これまた左右逆になって午前0時過ぎを示している。
部屋全体を見渡してみる。
さっきまでとは、部屋全体の配置が左右裏返しになっている。
(たとえば、玄関に対してバスルームが向かって右にあったのが左になっている、といった具合)
加奈子「どう…なってるの」
尚美「わからない?」
加奈子「…」
尚美「わかってるでしょう」
加奈子「鏡の中…みたい」
尚美「みたい、じゃない。そう、ここは鏡の中の世界」
加奈子、部屋の一番大きな鏡に突進する。
自分の姿は写っていない。
尚美「この世ではない、過去に向かって時が流れる世界」
尚美が解説しなから傍らに立つ。
やはり、尚美の姿も鏡に写っていない。
現実の世界(鏡)から見ると、誰もいない部屋で、鏡の中にだけ加奈子と尚美の姿が写っていた。
加奈子「(悲鳴をあげる)」
× ×
時計の針が左回りに回る。
流しで、水滴が下から上へと上昇し、蛇口にすぽっと入る…水が滴る映像の逆回転版。
× ×
T「一日前」
加奈子と尚美が鏡の前で話している。
加奈子「なんで、こんなところに」
尚美「…だから、警告したのに」
加奈子「警告? どんな警告よ」
尚美「これからする」
加奈子「これから?」
尚美「前に電話したでしょ。覚えてない? 時計見て」
加奈子、見る。
午後5時…。
尚美「5時じゃないよ。7時だよ」
加奈子「…」
尚美「あんたがビールを飲んでた時間」
加奈子「見てたの」
尚美「見えるだろ」
鏡の向こう(現実世界)を示す。
× ×
現実のリビングでは午後7時。
ビールを飲んでいる加奈子。
× ×
尚美「あんたが警告を聞いて出て行ってくれればいいんだけど」
と、携帯を取ってかける。
× ×
現実のリビングにいる加奈子の携帯に着信がある。
加奈子「(出て)あ、尚美、遅いよー、今どこにいるの」
× ×
鏡の中からその様子を見ながら携帯をかけている尚美と、現実のリビングの加奈子の会話。
尚美「今どこにいる」
加奈子「こっちが聞いてるのよ」
尚美の声「もう着いた」
加奈子「え、もう着いたの?」
尚美の声「帰りなさい」
加奈子「え? 何言ってるの?」
尚美の声「帰りなさい」
× ×
鏡の中から尚美がいつのまにかいなくなり、ゆっくりと現実の加奈子のそばを携帯を持って歩き回っている。
この世のものでなくなった加奈子、鏡の中でずっと立ち尽くしている。
× ×
現実のリビング。
以下、さっきの加奈子と尚美の携帯を使ったやりとりを、もう一度角度を変えて描く。
加奈子「なに言ってるの。あたしはとっくについてるよ。今どこ。スーパー?買出し?」
尚美「(周囲を巡りながら)帰りなさい」
相変わらず、尚美の存在に気づかない加奈子。
加奈子「だから、いまどこだって」
尚美「ここ」
と、加奈子の耳に口を寄せるようにして言う。
加奈子、思わずまわりを見回す。
だが、自分以外の誰も見えない。
加奈子「(また携帯に向かい)もしもし、どうしたの、何かあった?」
尚美「いいから、帰って」
加奈子「?(さすがにおかしいと思って)…ちょっと、尚美、どうしたの」
尚美、里恵が部屋の隅に立っているのに気づく。
通信にノイズが入る。
加奈子「もしもし、尚美?」
里恵が迫ってくる。
それとともに、通信にノイズが入る。
答えなし。
加奈子「もしもし?」
× ×
加奈子「何よ、どうしたの」
里恵がいるので、焦る尚美。
尚美「(力を入れて言う)真夜中に鏡を見ると、自分の運命が見える」
加奈子「えーっ?何言ってるの」
当惑する。
加奈子「もしもし、どうかした? この部屋で何か怖い目にでもあった?」
尚美「これからあんたが会うの」
と、言うが、里恵が立っているとノイズになって加奈子には聞こえない。
加奈子「もしもし、だからあたしが前にそういうことないか聞いたじゃない」
歩き回る里恵の亡霊。
尚美の声に、またノイズが入る。
加奈子「どうしたの、何かあって、ここに帰ってこないわけ」
尚美「5年前の…」
加奈子「え? 5年前がどうしたって?」
尚美「5年前の…」
加奈子「5年前の、なに」
尚美「午前0時に」
加奈子「午前0時に」
尚美「(ノイズが大きくなる)…午後0時に」
加奈子「もしもし、5年前の、午前0時がどうしたの。何が起こるの」
ノイズが大きくなって、会話ができなくなる。
加奈子「もしもし、5年前の、午前0時がどうしたの」
通話が切れる。
× ×
鏡の中の世界の尚美と加奈子。
尚美「やっぱり、伝えられなかった」
加奈子「もう一人うろついているあいつは、誰」
尚美「わからない。ずっといる。昨日もいた」
加奈子「きのう?」
時計を見る尚美。
午後11時46分。
尚美「おそらく五年前からいる」
× ×
現実。
尚美、立ち上がって髪をまとめて、部屋のあちこち歩き回って風呂支度を始める。
それを見ている加奈子(いつのまにか現実に介入してきている)。
ふっと、もう一人の、部屋の隅にいる女(里恵)の姿が自然に視界に入ってくる。
バスタブの中から姿を現した女だ。
加奈子「(里恵に)あんた、誰」
だが、里恵は加奈子を無視して立ったままでいる。
尚美は加奈子同様、里恵の姿にも気づかないでいる。
が、鏡の前に来た時、その姿を鏡の中に認めて、ぎょっとした顔をしている。
振り返るが、尚美の目には里恵も、加奈子も見えない。
里恵、歩き出す。
里恵が目の前を通り越しても、尚美は気づかない。
加奈子、里恵が歩いていくのを目を追う。
里恵、バスルームに入っていく。
尚美、また鏡を見るが、もちろんその時は里恵の姿は鏡の中に見えない。
加奈子が見守っている中、薄気味悪そうにして、バスルームに向かう尚美。
加奈子「(思わず声が出る)入っちゃいけない」
もちろん声は届かず、尚美はバスルームに入っていく。
後を追う加奈子、その目の前で扉が閉められる。
加奈子、習慣で立ち止まってしまう。
しばらく立ちすくんでしまう加奈子。
尚美の声「立ち止まることないのに。中に入れるよ」
加奈子、振り向く。
たったいまバスルームに入っていった尚美ではなく、加奈子同様に鏡の世界の住人になっている尚美が立っている。
尚美「まだ人間のときの習慣が抜けないみたい」
加奈子「あの女は誰」
尚美「風呂の中に沈んでいた?」
加奈子「そう。」
尚美「あたしじゃない方?」
加奈子「あたりまえでしょう」
尚美「そうでもない。昨日のあたしは今日のあたしじゃないから」
加奈子「その昨日と今日って、どっちが前で、どっちが後なの」
尚美「今日が前で、昨日が後」
加奈子「…逆か」
尚美「早く慣れるのね」
加奈子「で、さっきの誰」
尚美「知らない」
加奈子「知らなくていいの? あんたを殺した女なのに」
尚美「いいわけない」
バスルームの中。
シャワーを浴びて石鹸を落としている尚美。
ふと、視線を感じて、あたりを見渡す。
尚美「誰?」
当然だが、誰もいない。
バスタブに入ろうとすると、
「入ってはだめ」
声が聞こえるので、ぴたりと入る動作を途中で止まる。
しかし、それ以上声は聞こえないので、風呂に漬かる。
湯気で曇る鏡。
尚美「…?」
また変な声が聞こえてくる。
「出なさい、出ないと死ぬ」
鏡の中から聞こえてくるのだが、尚美ももちろんそんなことを思いもよらない。
湯をかきまわしている尚美の手に、黒髪がからみつく。
尚美「何これ」
気持ち悪そうに振り払う。
湯の中に手を伸ばして探ってみる。
尚美「?…」
湯の中から拾い上げたのは、カミソリだ。
尚美「何これ」
湯が突然、みるみる赤くなる。
尚美「(悲鳴をあげる)」
湯の中に引きずり込まれる。
暴れて、激しく水面が揺れるが、やがて静かになる。
湯が真っ赤で何も見えない。
ごぼっといって、湯が抜け始める。
どんどん湯が抜けていき…、誰もいない。
湯気で曇った鏡が、水滴が取れて晴れてくる。
尚美の声「やっぱり、運命は変えられない」
いつのまにか、加奈子と尚美が空のバスタブの傍らに立っている。
加奈子「誰、あんたを引きずり込んだのは」
尚美「わからない」
加奈子「わからないじゃないでしょう。あんたのせいよ、あたしまでこんなことになったのは」
尚美「人のせいにするつもり」
加奈子「事実、あなたのせいじゃない」
尚美「警告したのにのこのこやってきて」
加奈子「ここで引き返していればよかったのに」
尚美「あと、五年待たないと」
加奈子「五年?」
尚美「そう、五年」
加奈子、天を仰ぐ。
加奈子「長いなあ」
尚美「過ぎてしまえば、すぐよ」
加奈子「我慢できそうにない」
× ×
さらに時間を遡り…
まだ部屋に引っ越してきた間もない尚美が、携帯で加奈子を誘っている場面。
尚美「(携帯をかけている)あ、加奈子? あたし。尚美。きょう引っ越してきたんだ。あしたご馳走するから遊びに来ない? …片付けを手伝わせようなんてんじゃないよ。家賃?安いよ。相場のまあ半分。…え、何か問題があった物件じゃないかって? ちゃんとリフォームしてあるし、呪いだの幽霊だのそんなものあるわけないじゃん」
じいっと、この世のものでなくなった加奈子がそばにいて尚美を睨んでいる。
尚美「あたし?あたしもも呪いとか幽霊とか、信じちゃいないけどさ。出てくるものなら見てみたいというくらい。あとお告げとか予言とか占いとか、みんな信じてない」
と、笑いながら見えないが加奈子の気配を感じて不安になる尚美。
× ×
× ×
時計の針が左回りに回る。
横になった酒瓶から、中身が逆回転で戻っている。
× ×
T「5年前」
まだ生きていた里恵がビールを飲みながら歩き回っている。
思いつめた表情。
酔いがまわって、目の焦点が合っていない。
ばさばさの髪。
ビールを飲む。
さらに日本酒を飲む。
さらに焼酎を飲む。
手が止まらない感じ。
そこら中、ビールや酒類の空き缶空き瓶がごろごろしている。
携帯が鳴る。
里恵「(出て)もしもし」
「死んではダメ」
里恵「誰」
「死んだら地縛霊になってずうっとその部屋から出られなくなるよ。死んではいけない」
里恵「誰。なんであたしが死ぬことに決めたのを知ってるの」
「なんででも。とにかく死んだらいけない」
里恵「またあたしをからかってるんでしょう」
部屋の片隅に加奈子と尚美がぼうっと立っている。
誰のかはっきりしない女の声「死んだらどうなると思う」
里恵「あたしなんか、どうせすぐみんな忘れる」
加奈子と尚美の姿が消えている。
女の声「そんなことない。死んだら恨みつらみがずうっと残って無事にあの世に行けないよ」
里恵「大きなお世話。誰、あんた」
女の声「死んだらまわりに迷惑がかかる。ものすごく」
里恵「もうかけてるよ。あたしがアル中だって、みんな気づいている。陰で笑っている声が聞こえる」
女の声「そんなの、気にしなければいい」
里恵「気になんかしているか。あたしをなめてるんだ。死んで見せたら、少しは見直すだろ」
女の声「そんなこと言って、死んだら終わりよ」
里恵「終わりにしたいんだ。こんな世の中に未練なんかあるかっ、死んでやるさ、死んでやるとも」
女の声「酔ってますね。お酒を控えないと」
里恵「あたしはアル中だからね。控えるってことはできないんだよ。飲むか、完全にやめるか」
女の声「だったら本当にやめてください」
里恵「アル中はね、酒が切れたときの方が怖いんだよ。酒びたりで痺れていた頭が酒が切れると変に興奮して、悪夢をみるんだ。それはそれは恐ろしい悪夢をね。それに比べたらホラー映画なんて、ままごとみたいなものさ」
と、携帯を切る。
それでも、すぐに何をするでもなく、ぐずぐずしている里恵。
ビールが空になる。
さらにまた用意してあった日本酒を飲みだす。
飲みながら、鏡の前に立つ。
「(自分の顔を見て)ひどい顔」
鏡の中に自分とは別の人影を認めて、振り返る。
誰もいない。
また鏡の中の自分と向かい合う。
「(自分に向かって)おまえなんか死んでしまえおまえなんか死んでしまえおまえなんか死んでしまえ…」
ぶつぶつぶつ繰り返す。
言ってはまたもう一杯ひっかける。
また人影が鏡の中に見える。
里恵、今度は驚かない。
里恵「死神かい、いつでも連れて行ってよ」
けけけと笑う。
また飲む。
また鏡を見る。
人影が、里恵の耳元に口を近づけて何事かささやくのが鏡の中に見える。
だが何も聞こえない。
里恵「なに、なにを言ったの」
里恵「あんた、だれ」
へらへら言いながら、また一杯開ける。
鏡に向き直ると、人影は消えている。
里恵「死神のささやきかい」
また飲む。
里恵、ふらふらとおぼつかない足取りでバスルームに向かう。
時計の針は11時41分。
洗面台で改めて鏡に向き合う里恵。
また人影が鏡の中に見える。
里恵、さすがに顔色が変わる。
里恵「また出た」
鏡の中からじいっと睨んでいる目。
気づくと、その目は二人分、全部で四つある。
里恵、さすがに体が動かなくなる。
里恵「まったく、三年間この部屋に住んでいるのに、幽霊を見るのが今日が初めとはどういうこと。やっぱりお迎えが来たということか」
最後の一口を飲み干す。
がたがた震えがくる。
里恵「これだけ飲んだのに、まだ足りない」
産毛剃り用のカミソリを出して、手首に当ててみる。
それから風呂場に行き、バスタブにお湯を入れだす。
後戻りしようとして、誰かの手が里恵を突き飛ばす。
転倒する里恵。
時間が経つ…、蛇口から流れ落ちる湯。
それが床を流れ、倒れた里恵の顔に至る。
意識を取り戻す里恵。
里恵「いた…」
と、額に手をやる。
向こう傷のように傷がついている。
里恵、気味悪そうにあたりを見渡す。
里恵「誰か、あたしを突き飛ばした?」
酔いがまわって、頭がぐらぐらする。
吐き気がする。
里恵「そうだ、死なないと…」
と体中を探ってカミソリを探す。
里恵「カミソリ…、カミソリ…あった」
と、取り出す。
× ×
時計の針、11時50分。
× ×
里恵、服のままざぶっとバスタブに体を沈める。
そして、カミソリを手首に当てる。
酔いで感覚が麻痺しているのか、あまりためらうことなくざっくり切る。
切った瞬間は痛むが、湯に入ったもので酔いがまわってきてそのまま半ば眠り込む。
そのまま沈んでいきそうになる。
顔が半分沈んだところで、ぱっと意識を取り戻して反射的にはね起きる。
里恵「あぶないところだった」
と、その頭がつかまれ、湯の中に押し込まれる。
溺れる里恵。
その頭をバスタブに押し込んでいるのは、尚美。
尚美「そんなに死にたいのなら、死なせてあげようじゃないの」
里恵、暴れて、なんとか尚美の手を跳ね返して顔を水の外に出す。
すると、さらに加奈子も加わって里恵の頭を水の中に沈める。
加奈子「あんたのせいで、あたしたちはこんな目に合ってるんだ」
里恵「迷惑だって言ってるのに」
加奈子「人の言うこと聞かないで」
里恵「死ね」
加奈子「死ねえっ」
× ×
里恵が一人でバスタブの中で暴れている。
× ×
二人に水責めを受けている里恵。
やがて、抵抗をやめて動かなくなり、湯の中に沈んで姿が見えなくなる。
× ×
一見したところ、誰もいない風呂場。
ただ、なみなみと淵まで真っ赤な湯を湛えたバスタブがあるだけ。
× ×
リビングの鏡に映っている一人で里恵。
折から、時計は午前0時を指している。
かちっと午前0時1分になる。
(終)
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