prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「フェイブルマンズ」

2023年03月16日 | 映画
父親と母親がそれぞれ技術者と芸術家で、一見地に足をつけた生き方と夢を追う生き方、現実と夢の対立のようで、そうはなっていない。

この頃のコンピューター技術者っていうのはとにかくそれまでになかったものをどんどん作っていく時期でもあるし才能にもチャンスにも恵まれてたわけで、 それが結果として役に立つものになったとして、役に立つかどうかで仕事しているわけではない。
フェミニズム的な観点を強調しているわけではないが、この頃は女性は結婚したら家庭に入るもので、何らかの(たとえば芸術的な)才能を発揮して生きるのは難しかったことが大きいだろう。
一方良くも悪くも父親はキャリアが伸びていけばそれを追わないわけにはいかない、当人の意思というより伸び盛りの資本主義下の産業で活躍している人間にそれ以外の選択肢はまあありえない。
ただ映画はそういう構造を押さえてはいるが深入りはしない。

映画は機械、テクノロジーの影響がきわめて大きい芸術で(米アカデミー賞協会の正式名称は科学芸術アカデミーだ)、スピルバーグはキャリアの初期「ジョーズ」のあたりから機械力(あるいはその欠如)がどれだけ表現を左右するかを知り尽くしているのともつながってくる。

ジャド・ハーシュがやっている大伯父さん(母方の祖母の兄)は、最悪な人だと祖母に思われていたというフリがあって、やってきて帰ると、一見何事もなかったので母親は何で祖母があんなに怖がってたのか分からないなどと言う。
実は母親は気づかなくても非常に怖いものを息子にもたらしていた。
つまり芸術の才に恵まれるというのは一方で当人にとっても他人にとっても非常に危険なことになりうる、半ば呪いみたいなものでもあることを聞かせていたわけ。
ハーシュは出番は短いが、ぼくのおじさん的な(大伯父だが)他の価値観からの目を持ち込む存在として、圧倒的な説得力を出した。

スピルバーグが私生活では大きなトラブルを起こさずに70代半ば過ぎまでいられたのも何度か受けた戒めを守ってきたからかなと思ったりした。

サムをいじめる、いかにもスクールカーストのトップという感じの金髪イケメンマッチョがサムが撮影したフィルムで自分があまりに恰好よく撮られているのに逆に怖れあるいは畏れの色を見せるシーンが映像そのものの力が作者や被写体の意思を超えてしまう表現として秀逸。

写すつもりがなくてもフィルムに写ってしまったものを編集機でフィルムを進めたり戻したりしているうちに発見してしまうシーンは、ブライアン・デ・パルマの「ミッドナイトクロス」ばりで、実際キャリアの初期にはデ・パルマとスピルバーグとが私的にも親しかったことを思い出される。カメラがぐるぐる対象のまわりを回ったりするし。
フィルムの感覚が身体に染みこんでいる人たちというか。

冒頭で引用される実物の「地上最大のショー」の列車激突転覆シーンが、今の目で見ると(あるいは当時すでにか)はっきりミニチュアとわかるのだが、少年が本物の列車模型を使って激突転覆シーンを手作りしてしまうあたりの虚実の捻じれ方が何ともいえず面白い。

エンドタイトルにKODAK 35mm 16mm 8mmと全サイズがクレジットされていた。8mmなど新しく提供できたのだろうか。
考えてみるとスピルバーグみたいに8mmフィルムから最新デジタル技術まですべて使いこなしてきた映画作家というのは、その前もこれからもそうそういない。

後半、ユダヤ人であることで高校でいじめを受けるシーンは、それ自体も理不尽だし、いつも思うがキリストを殺したユダヤ人はけしからんなどと言うが、そのキリスト自身がユダヤ人ではないかとモヤモヤする。
話がとぶが、統一協会と安倍晋三とがズブズブであることが暴露されながら反韓感情に変わりなしでいられる連中の精神構造と似ているように思う。差別感情が先で理屈は後、ないしどうでもいい。

有名な既成曲がばんばん使われていて、スコット・ジョプリンのラグタイムや、エルマー・バーンスタインの「荒野の七人」など背景の映画がちらつく感じ。一方で母親が弾くピアノ曲はオーソドックスなクラシック音楽教育が見える。

なぜ「E.T.」でかなり唐突に「静かなる男」が引用されたのか、ちょっとわかった。