劇作家フロリアン・ゼレールが、自作戯曲を初映画監督作として映画化した「ファーザー」に続く第二作。父に対する息子だから対になっている格好で、「ファーザー」でアカデミー賞を受賞したアンソニー・ホプキンスがここでもヒュー・ジャックマンの父親役で出ているけれど、傲慢でわがままな成功者というところは共通している。
今回は同じ戯曲原作でも舞台劇的な所はほとんど無く、場面は数か所に限られてるけども 自由 に映画的に行き来する。
息子役のゼン・マクグラスが、ヒュー・ジャックマンとローラ・ダーンの間の子供にしては随分身体が小さい。それが委縮している精神を文字通り体現している。
終盤の展開がわざとなのだろうけれども「ファーザー」同様どこから幻想になってるのか微妙に曖昧にしている。幻想だと思いたくなるような展開ということでもある。
ジャックマンが上院議員の選挙参謀の依頼を受けるなど勤め先ではごく外面が良い一方で、父親に言われたりやられたりしたことを息子に繰り返してしまう、という連鎖に気づく話なのだが、ありがちな虐待が連鎖するという単純な図式ではない。
ジャックマンが上院議員の選挙参謀の依頼を受けるなど勤め先ではごく外面が良い一方で、父親に言われたりやられたりしたことを息子に繰り返してしまう、という連鎖に気づく話なのだが、ありがちな虐待が連鎖するという単純な図式ではない。
前妻ダーンを結果として捨てて新しい若い妻バネッサ・カービーと再婚してまだ小さい息子もいる、というのは不実には違いないが、ともかくも息子に要求するのが社会人になるには乗り越えなくてはいけない常識的な範疇のハードルなのがまたキツい。父親自身もそこから逃げようがない桎梏なのだ。
ジャックマンがこれまでヒーロー役を多く演じてきたのからリアルな役柄を演じることろもできるところを見せる役者としての挑戦と共に、ヒーロー役としての正のイメージがこの役を必ずしも否定的に見せない効果も考えたのではないか。