prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「テキサス・チェーンソー  ビギニング」

2006年11月16日 | 映画
前作で「フルメタル・ジャケット」のハートマン鬼軍曹こと、リー・E・アーメイが保安官に扮し、アメリカの草の根保守層の気色悪さを出していたのはいい工夫だと思ったら、今回はさらに出番が増え、レザーフェイスは口がきけないから、実質主演。

例によって四人の若い男女が出てきて殺されていくのだが、そのうち二人の男がベトナム帰りと徴兵拒否者という組み合わせの兄弟なので、実際にベトナム帰りであるアーメイの引きずるベトナムが生きることになる。

オリジナル第一作「悪魔のいけにえ」が作られた1974年はまだベトナム戦争が終わっておらず、アメリカ国内の殺伐とした空気をもろに映し出していたが、アーメイが、またイラクの第二のベトナム化が進んでまたまた一段と殺伐としている今のアメリカの空気を呼吸しているかのよう。

というか、今回アメリカの根本的な肉食体質を思い切りぶちまけたようで、これくらい遠慮会釈なくチェーンソーで人を切り刻むのを見せた映画はないのではないか。
グラン・ギニョールのごとく、台に乗せた人体を台ごと真っ二つなんてホントにやるもの。ヒドいものです。
人体切り刻みと人肉食を、流行りの激盛で見せてるみたい。

あと、牛が車に撥ね殺される場面なんてのもクイックショットで処理してはいるが、はっきり見せている。描写のあくどさに関しては、ちょっと閾を越えた観。

レザーフェイスがなぜ人間の皮をかぶるようになったのか、なぜチェーンソーを振り回すようなったのか、という経緯は、ただ手近にあったからという以上の意味がないのでがっくり。
(☆☆★★★)


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「トリスタンとイゾルデ」

2006年11月15日 | 映画
映画の宣伝は香具師の口上みたいなものだが、もともとの「トリスタンとイゾルデ」は「ロミオとジュリエット」とは関係ない。ウソつき。

「トリスタンとイゾルデ」はもともと宮廷詩人が語り伝えたケルトの説話、「ロミオとジュリエット」の出典は複雑だが、一応十五世紀イタリアでまとめられた長々しい物語をシェイクスピアが四日間の出来事に凝集して劇化したもの。
悲恋物語というだけでごっちゃにされてはたまらない。

ジョン・ブアマンの「エクスカリバー」で、王妃グィナヴィアと騎士ランスロットとの逢引シーンで、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を流していたが、このトリスタン映画の話はアーサー王物語の方に近い。
男女二人のドラマというより、王と王妃と家臣である騎士との三角関係のドラマなのだから。
イゾルデがそれほどの美女と思えないので、どうも気がいかない。

そして何より、媚薬が出てこない。代わりにフグの毒が使われる(ホント)。
普通、「トリスタン…」といったら、惚れ薬で結ばれて離れられなくなる男女の話として通っているはずなのに。
いったん死んで蘇えるところだけ「ロミオとジュリエット」。

製作プロダクションはリドリーとトニーのスコット兄弟のスコット・フリー社だが、監督は「ロビン・フッド」のケビン・レイノルズなのに、画調が二人の監督作みたいにやたらと凝っている。
凝り過ぎというか、凝ること自体が自己目的化している感じで、ロマンチックとも神秘的とも中世的ともつかず、何を狙っているのかはっきりしない。

アイルランドがイングランドを分割統治していたという、普通見るのと逆さまの設定。
アイルランドの雲の影が荒涼とした海岸を流れている光景は魅力的だが、この王様がまことにハリウッド的単細胞な悪役なのにがっくり。

遺体を乗せた小舟を海に流して火矢で射て火葬にする、カーク・ダグラスの「バイキング」ばりの勇壮な趣向が出てきたと思ったら火が消えてしまうのだからシケている。もっともそうでないと話が終わってしまうのだが。
(☆☆☆)


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「チャップリン 世紀を超える」

2006年11月14日 | 映画
NHKプレミアム10にて。ハイビジョンと衛星では放映済み。
新資料続出。

初期チャップリン作で撮影されながら使用されなかったテイクが大量に発見され、何度も実際にテイクを重ねながら場合によっては「霊泉」のように全体のストーリーすら変えてしまっていたこと。

「独裁者」の最初構想されていたラストが、独裁者配下の軍隊が武器を捨てて踊り出す、というもので、兄シドニー・チャップリンがプライベートに撮影したフィルム(カラー!)でその光景が見られる。ちらっと「ブリキの太鼓」を思わせ、また中国で日本軍が爆弾の代わりにおもちゃを降らせ、世界中ですべての人が武器を捨てるという黒澤明の「夢」でシナリオにはあったが完成作からは外された「素晴らしい夢」をも思わせる。

最後に書かれたシナリオが、「Freak」という翼がある少女(人間なのか、天使なのかわからない)が人々に恐れられて追われる物語だったというのも初公開。
少女のイラストはちらっと手塚治虫を思わせた。


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「特攻サンダーボルト作戦」

2006年11月13日 | 映画
パレスチナ・ゲリラがウガンダのエンテベ空港にとったイスラエル人の人質をイスラエルの特殊部隊が救出したエンテベ急襲作戦を描いた実話ダネテレビ映画。1977年製作。

事件が起きたときは、たった二名の犠牲で済んだ奇跡的な救出激、これぞ映画向きの題材などと言われてさっそくテレビ化された「エンテベの勝利」は興行的にも作品的にも大失敗、さらにやはりイスラエル特殊部隊とパレスチナ・ゲリラとの戦いを描いた「ブラック・サンデー」が劇場を爆破するという脅迫により日本公開中止といった調子でケチがつき、ごく限られた範囲でしか公開されなかった。
午後のロードショーでこーゆーのを放映とは、テレビ東京ならでは。

ただし、日本語吹き替えではたしかエンテベではなくアンサベ、アミンではなくアモン、ウガンダではなくダウガンとなっていた。

アメリカ映画なのだが、イスラエ寄りなんてものではなく、立場としてはイスラエルそのもの。
もう一本、クラウス・キンスキー主演、メナハム・ゴーラン監督でイスラエル製エンテベ映画があるらしい。

9.11から後では、こういう映画はちょっと作れないだろう。ゲリラがまだ自分の命を守ろうとしているのが、今の目で見ると人間的にすら見える。


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「フラガール」

2006年11月11日 | 映画
フラダンスの映画かと思ったら、どっちかというと炭鉱の映画でした。
意地の悪い見方をするが、仮にあのフラダンスのショーを生で見て、感心するかといったらそれほどでもないだろう。
欲をいうと、プロなのだから、ダンスそのもので感心させるのがスジではないか。
ややダンスのプロを甘い仕事、と炭鉱の人間に思い込まれているのをきっちり否定していないのがひっかかる。

最近の日本映画、ビンボー生活の描写がまた巧くなってきた気がする。長屋の襖などの煤けた質感は出色。
ただ一方で、解雇や労働闘争でここで描かれていない凄絶な場面はいくらでもあっただろうとは思う。
格差社会の影響とかもっともらしいことを言おうとは思わない。格差はずっーと、ここで描かれた高度成長期からあったぞ。
(☆☆☆★★)


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「スネーク・フライト」

2006年11月10日 | 映画
まあ、なんつーか、バカにされるのをちーっとも恐れてない人の作った映画です。
毒蛇を密室と化したジャンボジェットにまき散らす、というワン・アイデアだけで押し切っていて、そんな手のこんだ真似するのだったら、爆破した方が早くないか、と思うのですが、とにかくぱっくんぱっくん毒蛇がよく人を噛みまくること。
ついでにパニックになった乗客の描写も、倒れた頭にハイヒールの踵が食い込むとか、ヘビに襲われそうになって犬を投げつけるとか、えげつないシーンだらけ。
笑ってしまうところも多いけれど、呆れるところの方が多い。
(☆☆★★★)


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「ダーティハリー」

2006年11月09日 | 映画
昔は「アメリカの」話だったのだが、今ではこういうブチ殺す以外の処理のしようのない凶悪犯、それをしたり顔でかばう人権屋などムカムカする連中が日本中跋扈していて、見ていてわかりすぎて困るくらい。
それほどドンパチはないのだが、編集のうまさ、音響効果で大いに見せ場のパンチを効かせている。

衛星放送をワイドテレビで見ると、ワイドサイズにすると字幕が見えなくなるのでセリフ中心のシーンはノーマル、アクション主体のシーンはワイドで見る。そうするとはっきりシーンがセリフ中心かアクション中心かと分かれているのに気づく。

演出はごく古典的で今のガチャガチャしたアクション演出に比べて優雅にすら見える。


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「ブラック・ダリア」

2006年11月04日 | 映画
撮影ヴィルモス・ジグモンド。これを撮った時、75歳。
ダンテ・フィレッティの美術、マーク・アイシャムの音楽とともに、ハードボイルドな空気をよく出した。

もっとも、話がわかりずらいのもハードボイルド風で、原作を読んでいない人間にはなんか見ていて腑に落ちない。

ネクロフィリア志向という点では、「めまい」(それからデパルマの「愛のメモリー」)につながるもの。ヒラリー・スワンクの役名が「めまい」のヒロインと同じマデリンだし。
(☆☆☆)


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「サラバンド」

2006年11月03日 | 映画
ベルイマンはいつも同じモチーフを繰り返し変奏しているようなものだが、今回も「ある結婚の風景」の続編というだけでなく、これまでの作品の集大成的な面がある。

テーマ曲になっているバッハの無伴奏チェロ第五番の「サラバンド」は、「叫びとささやき」でも使われていた。
導入部のリヴ・ウルマンが無人の部屋を歩き回るあたりで扉が自然と閉まり、鳩時計が鳴くのは舞台での序景にあたるとともに、命が残り少ない人間の感覚を端的に示した点でやはり「叫びとささやき」を思わせ、遠く「野いちご」のモチーフとも結びつく。

音楽を介した親子の対立は「秋のソナタ」、神は沈黙しているのにも関わらず人間はすがらなくてはいられず、救いがあるのかないのかわからないまま教会の窓から光だけさしてくるのは「冬の光」、など。

同じことが繰り返される中で、若いユーリア・ダフヴェニウスの存在が目を引く。ぽってりと厚みのある下唇がいかにもベルイマン好み。
一方で、冒頭に「イングリッドへ」と献辞が出るが、故イングリッド・チューリンがユーリアの母親役で写真だけの出演を果たす。何十年も一緒に仕事(時にはそれ以上の)してきたパートナーがいる者にだけ許される、随筆的な描き方。
(後註・ベルイマンの死別した今のところ最後の夫人の名前も、イングリッドなのね)

今年の9月20日に亡くなった、これまた長年撮影を担当してきたスヴェン・ニクヴィストの不在も、いないこと自体がほとんど作品のモチーフと結びついてくる。
デジタル映像には、ニクヴィストが作り出した息を呑ませるような映像美は求めようがないが、「顔」に迫る生々しさは健在。

主人公二人、マリアンもヨハンも現在結婚相手はいないのだが、薬指に指輪をはめている。

相変わらずというか、出演者たちの演技とその引き出し方の見事さは比類がない。
(☆☆☆★★★)


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女子アナウンサー握手会

2006年11月02日 | Weblog
日比谷公園で開催されているニッポン放送のイベントです。
およそこの手のことには疎いので、フジテレビの女子アナとかいうのならまだしも、ラジオ局の女子アナと握手しようっていうのどれくらいいるのでしょ。
どうでもいいことですが。


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「夏の妹」

2006年11月02日 | 映画
大島渚の、ATGとの提携最後の作品。この後、「愛のコリーダ」「愛の亡霊」「戦場のメリークリスマス」「マックス・モン・アムール」と海外と提携しての創作に移行する。

沖縄返還に合わせて、沖縄に縁はあっても本土で暮している三人組(栗田ひろみ、りりィ、殿山泰司)がやってきて、で、どんなドラマになるのかというとこれが一向に要領を得ない。
どんな縁があるのか、というか、だいたい沖縄にどんな人間がいるのか、という要素がまるで描きこまれていないため、ドラマになりようがないのだ。

沖縄のことを知ったかぶりして描いてはいけないから、というのではなくて、単に知らないで頭で描いているのではないか。返還に合わせて大急ぎで作ったみたい。今見ると風化がはなはだしい。

武満徹は、生前難しい音楽ばかり書くと思われているのに反発して、「ぼくはやろうと思ったらバカバカしいくらい甘ったるい曲を書けるんですよ」と言っていたが、さしづめこのタイトル音楽など、それに当たるのだろう。

しきりと三人が飲むのがキリンビールなのが変な感じ。今だったら、オリオンビールでしょう。
(☆☆★★★)


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「記憶の棘」

2006年11月01日 | 映画
十年前に亡くなった夫の生まれ変わり、と称する十歳の男の子が二コール・キッドマン扮する再婚直前の女性につきまとう。

謝罪するよう親に命じられた男の子があくまで拒絶し続けたあげく失神するのをキッドマンが目撃してしまうところでどーんと音楽がかかり、その曲が続く演奏会にずれこんで、しかし演奏しているだろうオーケストラの姿を見せず、遅刻して席についたキッドマンのアップだけにかぶって内心の揺れをありありと表して長々と流れ続ける演出など、キッドマンの無言で長回しに耐えた演技とともに冴えていて、全体にヴィジュアルも音の使い方もすこぶる統制がとれている。
舞台になるニューヨークのアッパー・ミドルクラスの取り澄ました生活の雰囲気がよく出た。

一方で、ホームコンサートでブチ切れた婚約者が子供につかみかかる突発的な暴力の描き方など、キッドマンが出ているところからの連想もあってキューブリックの「バリー・リンドン」を思わせる。
子供が足をばたばたさせる苛立たしい効果も共通しているし、オープニングの大移動撮影といい、案外真似たのかもしれない。

生まれ変わり、と称する十歳の男の子の側から、死後の世界を肯定して描いたらそれなりにロマンチックな物語にまとまったろうが、あくまでこの闖入者に戸惑い続けるニコール・キッドマンの妻と家族、それから婚約者の側から描いているので、あくまで生まれ変わりを主張するのがいささか身勝手で迷惑なものに写る。
いったい、生前の前夫ってどんな性格だったのだろうと思っていると、思わぬ形で知らされることになる。伏線の張り方も納得がいくもの。

全体に死後も愛は滅びないとでもいった感動狙いではなく、もっと知的な突き放したタッチで、次第に妻が生まれ変わりを信じていく過程も、ロマンチックであるより愚かしく見える。
愛のエゴイズムと盲目性に焦点をあてたよう。

原題は‘Birth’だが、「棘」とつけた邦題は意外と感じを掴んでいて、どこか喉に小骨が刺さるよう。脚本にブニュエルとのコンビが有名なジャン=クロード・カリエールが参加しているのが目を引く。
(☆☆☆★)


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