prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

10月16日のつぶやき

2019年10月17日 | Weblog

「ジョーカー」

2019年10月16日 | 映画
冒頭のホアキン・フェニックスの顔がデニーロに似ているのにちょっと驚く。

デニーロが特に70年代から80年代にかけて「タクシードライバー」や「キング・オブ・コメディ」で演じた役がかぶっているのだが、顔まで似ているように思えたのは気のせいだろうか。
前に「リバー・ランズ・スルー・イット」のブラット・ピットが監督のロバート・レッドフォードにバカに似ていたのに驚いたものだが、少なくともデニーロが演じた孤独に閉じこもる一種偏執狂的なキャラクターを踏襲しているのは確かだろう。

「タクシードライバー」の公開時、画面がスーパーリアリズムのタッチだと評されたことがあったが、70年代から80年代にかけての荒廃していた、地下鉄が落書きだらけのニューヨーク以上にニューヨークらしい都市イメージとしてゴッサムシティを造形している。

「タクシードライバー」がリアリズムから幻想に入っていくのと逆に、アメコミという虚構そのものの世界からリアリズムに接近している格好。

時代設定が少しずつずらされたアイテムが混在している。白黒テレビにVHSビデオなど。

「タクシードライバー」と同時期に作られた「ネットワーク」の影響も見える。
クライマックスの趣向ばかりでなく演者が自分の実生活をネタにするところ。これなど今ではユーチューバーとして当然の表現になっているのではないか。

リアリズムという点からいうと明らかにおかしなところがはっきり意図的に混ぜられている。
証券会社の富裕層に属するらしい社員たちがあんな時間の地下鉄を使うか、とかアーサーと同じアパートに住む黒人女性(母親を除いて登場する女性はもっぱら黒人だ)の部屋に鍵がかかっておらず勝手に出入りできるとか、デニーロ演じる司会のテレビショーでアーサーの舞台を無断で撮って流すなどということがあるだろうか、など。
おそらくかなりの場面がアーサーの妄想なのではないか思わせる余地を作っている。

チャップリンの映画が上映されている映画館の客が金持ちばかりで、その前でデモしているピエロの格好をしている連中はおそらく貧困層という転倒。

そういえばチャップリンの母親は精神病院で亡くなったのだなと連想した。

アーサーが精神病院に向かうバスの中の窓の外がひどく作り物くさいカットが黒沢清調。偶然だろうか。影響受けていても不思議ない気がする。

THE ENDとエンドマークが出るのは最近珍しい。オープニングのワーナーのタイトルからしてクラシック。それもさまざまな時代を混淆させた。

アーサーが手で口の両端を上げて笑顔を作るのはキートンの「ゴー・ウエスト」にあった。




10月15日のつぶやき

2019年10月16日 | Weblog
なんか中島みゆきに似てないか?

「惡の華」

2019年10月15日 | 映画
原作は初めの方を読んでストップしていて、この内容を実写でやられたら正視に耐えないかと思っていたら、逆に生身の肉体を持った役者がやることで思春期の生理的な生々しさが自然なものになって抵抗感が薄れた。

原作でもモティーフにしているルドンの画の目玉をCGで動かして空に浮かべたりしているのだが、そうなるとルドンをもとにした水木しげるの妖怪ベアードみたいに見えてくる。
自分はみんなとは違うという意識とそれでも周囲と調子を合わせてしまう齟齬を半ば自分から離れた外から見ている自意識を「目」として形にしたものといっていいだろう。

興味本位のSM劇にせず、この自意識過剰は実は主人公だけが囚われていて他の人間は無関係でいられているのかというとそうではないのがわかってくる一種の成長ドラマとして成立させている。

玉城ティナの「クソムシ」連発はショッキングだけれど、何度も繰り返されるうちに、日本語には罵倒や侮蔑のヴォキャブラリーが乏しいという説を思い出して、ちょっと残念にも思った。

先日の「HELLO WORLD」も文庫本を読むことに自分は特別感を持つキャラクターが主人公だったのが偶然の一致にせよ面白いが、実は昔からあったことだが、スマホ時代になるとなおさら効果的だろう。





10月14日のつぶやき

2019年10月15日 | Weblog

「蜜蜂と遠雷」

2019年10月14日 | 映画
原作は未読だが四人の天才たちの話なのは宣伝その他で知っていて、どう複数のキャラクターたちのバランスをとってまとめていくのかと思っていたら、松岡茉優の幼児期のシーンから入るので、この人を一応軸にするのだなと思うとその通りになる。

ただし、それが単純に「勝ち抜いて」いく話であるより、音楽によって他人とつながっていく(連弾のシーンが典型)こと、天才はたとえ世界に自分一人しかいなくなってもピアノがあればピアノを弾くだろうと作中で語られるような孤絶した存在であるとともにやはりそれは現実にはありえないことで、才能(ギフト)は天才に恵まれるものであるとともに他者に音楽の歓びを贈与するものでもあるのを示す。

ピアノのコンペの話とするとタイトルがそのものずばり「コンペティション」というリチャード・ドレイファス、エイミー・アーヴィング主演、ジョエル・オリアンスキー(イーストウッドの「バード」の脚本の作者)監督脚本の映画があったが、実はその結末のつけ方が似ている。年齢制限が絡むのも一緒。ちなみに演奏シーンで徹底的に役者が演奏の指の動きを動きに関してはフルショットで長時間にわたって見せきるという形でショーアップしていたのがアメリカ映画式。
真似や影響ということではなく、才能の多寡の差というのはこういうものなのだろうと思わせる。

役者がどこまでピアノの演奏を再現できるのかと思って見ていたら、全員弾いているのを顔と入れ込みで撮っているカットを用意しているのは立派。
ただ一人ではなく四人もいるのでかえって一部だけ撮って後は吹替であろうことが見当がつきやすい。

演奏される課題曲がプロコフィエフとかバルトークみたいにいかにもポピュラーなクラシックから、やや現代的なとっつきにくいかもしれない曲になっているのが、日本の観客と音楽シーンの成熟ということかもしれない。

最初から音楽をがんがん鳴らすのかと思うと、初めにゴールドベルク変奏曲などいかにもな名曲を流すだけで一次予選は音楽なしで第二次予選になってからカデンツァを比較する曲の導入部がちょっとドビュッシーみたいだと思ったら、そのドビュッシーの「月の光」がもろに出てきて、これが先述の連弾のきっかけになる。この音楽の使い方の計算は相当周到なもの。

エンドタイトルで監督(兼脚本・編集)の名が他のメインスタッフと同じ並びと大きさで流れていくのにちょっと驚く。
ところどころに入る黒馬をはじめとするイメージカットはどうもしっくりこない。




10月13日のつぶやき

2019年10月14日 | Weblog
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「ジョン・ウィック パラベラム」

2019年10月13日 | 映画
馬が出てくるところで、今のアメリカ映画だったら動物愛護団体がうるさいから悪者であっても馬は撃たないだろうと思ったら案の定だったが、考えてみると「駅馬車」の昔から悪者であっても馬は撃たないのだな。
実際、馬の横腹に隠れたまま走らせるなんて、西部劇そのままではないか。

時々妙な響きの聞き覚えのあるセリフが出てくると思ったら日本語だったりする。してみると、ロシア語のセリフもロシア語ネイティブには相当ヘンに聞こえるのではないか。

もうアクションのてんこ盛り状態はどこまで行くのか、明らかに次も作るから見当がつかない。




10月12日のつぶやき

2019年10月13日 | Weblog

「宮本から君へ」

2019年10月12日 | 映画
画面が「美しく」ない。
少しふらついているフレーミングや鮮やかさを避け、かといっていかにも色を殺してますといったほどではない色彩などおよそ画面を美的にしようとしていない(今のカメラだとどうかすると放っておいても綺麗に映ってしまう)で、しかもストーリーというか描かれる出来事がものすごく不快で、しかもやり返すカタルシスで解消しないように腐心している。

なかなかやり返さないし、いかにも準備不足・知恵不足だし、どうせならもって徹底的にやった方がよくないかと思ってしまうくらい。
脇の人物がまた全部いちいちどこかしら神経を逆なでする。

正直いうと不快すぎて見ていて先に映画自体に対する気持ちが覚めたし、やり返しても補える範囲を超えているのだが、やり返すのを誰が望んだのか、勝手に誰かのためにと押し付けないで自分のためだという点を絶対に外さない。

反感を買うのを承知の確信犯というか、見るものをわざと不快にするのがある程度目的になっている気がする。

いまどき大胆だなと思ったのは、金魚が死ぬのを映したところ。定番の「動物は傷つけたり殺したりしてません」表示がエンドタイトルになかった気がするけれど、動物愛護団体からクレーム来なかったのかな。

そういえば、あまりに堂々とピエール瀧が出ているもので、かえって何とも思わなくなった。

「宮本から君へ」 - 公式ホームページ

「宮本から君へ」 - 映画.com


10月11日のつぶやき

2019年10月12日 | Weblog

「ハミングバード・プロジェクト 0.001秒の男たち」

2019年10月11日 | 映画
オンライン取引でコンマ以下何桁秒の差で莫大な収益を得られかどうかの差ができて、そのためにもともとそういう投資ができるだけの資金がある者がますます取引で有利になって利益をあげるという話は前に聞いていた。

そのために大陸を横断する距離の通信網を敷設する大工事をするというのはドン・キホーテ的な壮大さと滑稽さを併せ持つ話になるとこの映画の作者側は踏んで作ったのだろうけれど、こっちとしては金持ちともっと金持ちのケンカとしか見えず、もっと大金持ちの方の鼻を明かすシーンはあるにせよなんだか乗れない。

ただの電話回線を使ってシステムに侵入させるという半分アナログな手口が(わかりにくいが)ちょっと興味をひく。






「ホテル・ムンバイ」

2019年10月10日 | 映画

えんえんとテロリストに自動小銃で狙われ続ける恐怖が非常によく出ている。音響効果もすさまじいし、いったん射撃が途切れてもまた始まる繰り返しが精神を消耗させる。

予告編だとホテルの従業員の勇気と奉仕精神を称える感動作みたいだけれど、実作では撃たれて命を落としたらおしまいという身も蓋もなさが先に立つ。

テロリストのリーダーが無線で指示を出し続けるだけで、自分は安全な場所にいて神がどうしたとか勝手なことを言い続けるのが腹立たしい。

姿をまったく映さないのはどうかするとキャラクターの象徴化・抽象化に向かうのだが、ここでは卑劣さの方がくっきりと目に見えるように描き出されている。






10月9日のつぶやき

2019年10月10日 | Weblog