prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「HELLO WORLD」

2019年10月09日 | 映画
よくある恋物語かと思うと本格的なハードSFに寄ってくるのにびっくり。

この世界は実は実在せず脳内に、あるいは(「マトリックス」ばりに)データの集積といった抽象にすぎないのではないかといった存在が揺らぐ思春期に抱きがちな疑いを片手に、同時期におそらく根っこは同じ恋愛衝動を片手に握って結び付けている。

主人公の本棚にグレッグ・イーガンがセリフに出てくるだけでなくその著書の早川文庫版がフィリップ・K・ディックのそれと共にずらっと並んでいるのが描かれ、さらにエンドタイトルでわざわざ書名を列挙してあるという念の入れよう。

スマートフォンを当然に使いこなす世界であるにも関わらず、男女とも紙の本の読書家の高校生という設定は珍しい。ある種世界から浮いた感じと自意識の強さ、それから時間の積み重ねに対する敏感さといった性格の表現として成功している。

ヒロインが最初から可愛いのではなく、およそとっつきにくい感じからだんだん構えが解けていき、主人公から見た姿だけ描くのでなくヒロインの方のエモーションが噴出するに至るプロセスがどきどきさせて恋愛ものとしても成功。

京都という 古都としての土地柄を時間の連なりと積み重ねに生かしたのと、日本的な 狐の面を 本来の頭の位置から下にずらしたタイムパトロール(ざっくり言うとそうなると思う)の異様なデザインが秀逸。
後半の斬新な画と音のつるべ打ちは圧巻。




10月8日のつぶやき

2019年10月09日 | Weblog

「リバース」

2019年10月08日 | 映画

原題はretroactive(さかのぼる、遡及)。1997年作。

ジェームズ(ジム)・ベルーシ以外知っている役者は出ていない、というだけでなくキャストが「トラック運転手」役を含めて全部で11人。
タイムスリップの研究所で研究員が一人しかいないという冒頭から見るからに低予算なので気軽に見ていたら意外と面白く見られた。

女刑事カイリー・トラヴィスが田舎道で自動車事故を起こし、通りかかった暴力亭主ベルーシといつも虐待されているうちに感覚がマヒしている妻シャノン・ウィリーの夫婦の車に拾われる。
そこからベルーシの暴力がエスカレートして妻を銃で撃ち殺し、女刑事が逃げ込んだ先がタイムスリップの研究所でそこから手違いで20分前に送り返されてしまって夫婦の車に拾われた直後に戻る。

女刑事はなんとか「これから起きる」殺人を止めようとするのだが、それが裏目に出てパトロール警官など行きずりの人たちを巻き込んでしまい、また研究所に逃げ込んで過去に戻ってを繰り返すうちにどんどん死体が増えていくあたりがブラックで可笑しく、脚本がそんなに緻密ではないがツボを押さえている。

タイムスリップものの常道でラストでは一番いい状態になるのだけれど、これが暴力亭主と被虐待妻にとっては一番という案がちょっとすごい。

銃撃戦やカーアクション、爆発などはアメリカ映画らしく手抜きなくやってます。
登場人物の大半が当たり前のように銃を持っているのもアメリカらしい。



10月7日のつぶやき

2019年10月08日 | Weblog

「ヘルボーイ」

2019年10月07日 | 映画
もとのヘルボーイのキャラクター設定自体あまりよくわかっていなかったのだが、改めて描き直されて腑に落ちた印象。

ミラ・ジョヴォヴィッチが悪役にまわったけれど、こちらも似合う。
クリーチヤーたちのグロテスクなデザインや流血ゴア描写など相当にどぎつい。
クリーチヤーデザイン は 大いに凝っているのだけれども ギレルモ・デルトロ 版みたいに映画の中で美的にはまるといったことはあまりない。良くも悪くも平明。

テレビシリーズ「ハワイ5-0」のレギュラーをギャラの折り合いがつかず降板したダニエル・デイ・キムが顔にすごい傷痕をつけたメイクで登場、なんかこちらでレギュラーになりそう。

魔女バーバ・ヤーガの二本の鶏の脚で支えられた家が出てきた時、あ、ハウルの動く城と思ったが、もちろん順番が逆でバーバ・ヤーガの方が先。古くからロシアに伝わる魔女で、ムソルグスキーの「展覧会の絵」にも出てくる。



10月6日のつぶやき

2019年10月07日 | Weblog

「プライベート・ウォー」

2019年10月06日 | 映画
PCのctrl+alt+deleteを知らないなどヒロインが結構デジタル機器の操作が苦手なところをあちこちで描いている。
うがって見ると、ネット上を行き交う「情報」よりはあくまで発言できないでいる生の人間の顔と声を伝えることを重視している姿と思え、だからネットでリアルタイムで戦地の現況を伝えながら命を落とすというアイロニカルな構成をとっているようにも思える。

隻眼に眼帯という姿は海賊みたいで、同じロバート・リチャードソン撮影の「サルバドル」で描かれた実在のゴンゾ(ならずもの)ジャーナリスト、リチャード・ボイルみたいなキャラクターかと思ったら真逆。
あまりに悲惨な出来事を見聞きし自分も危険な目にあってきているので相当に精神的ダメージを負っているのは確かだが、そこで自閉的に戦争中毒的な酔いに向かうより現地の人たち=他者の声を聞き伝えることで結果的に精神的バランスをとっているようにも思える。

戦場シーンの人物にぴたっとついていくやたらスムースな前進移動撮影と音響効果は「フルメタル・ジャケット」を思わせる。





10月5日のつぶやき

2019年10月06日 | Weblog

「ライリー・ノース 復讐の女神」

2019年10月05日 | 映画

「狼よさらば」を代表とするヴィジランテ(自警主義)ものの新しい一作。女性が復讐するというのはジョディ・フォスター主演の「ブレイブ・ワン」というのがあったし、必ずしも前例がないわけではない。

この映画の新味とすると、冒頭でいきなり復讐シーンから始めて、それから回想で事情を語っていく形式をとっていることで、とにかく初めからやたら強いという設定らしてどうやって犯罪組織を相手にできるくらい強くなれたかという理由づけはあまり気にせずとにかく強いのだという設定で押しきっていること。

これはこれで美女のアクションを見せるという本来の目的からすれば割りきっているとも言える。もともと荒唐無稽さや法的モラル的な乱暴さに対する批判は免れないジャンルなのだし。

ラスボスが髪型含めて「コマンドー」のバーノン・ウェルズみたい。

あとヒロインがスラムに身を隠しスラムの住人に邦題通り女神扱いされるという趣向もある。「狼よさらば」の頃は中産階級層が厚かったから市民社会が喝采するという感じだったが、今では社会の底が抜けたのを反映している感


10月4日のつぶやき

2019年10月05日 | Weblog

「存在のない子供たち」

2019年10月04日 | 映画
主演のゼイン・アル・ラフィーア少年(役名も同じゼイン)の演技というか存在そのものが圧巻。世話をすることになる一歳の赤ちゃんとの共演ぶりも驚異という他ない。

子供、それも男の子が幼児を世話をする図がすでに意表を突き、女性監督の目が光るところでもあるだろう。

たかが身分証がないくらいで、と日本にいると思ってしまうが、考えてみると日本にも戸籍を持たずそれで多大な社会的不利益を蒙っている人はいくらもいるのを思い出した。

本質が存在に先行するなんて言葉があるが、本質とも言えないレッテルが中身より先行するというのはいかにも今の世界を典型的に表す。
なんとレッテル「だけ」で物事を、人間を判断していることか。

監督のナディーン・ラバキーは女優でもあって、弁護士役で出演もしているが、少年があなたたち(いい身分の人間)には僕のことはわからないと作中の裁判で言われるのは実際に言われたことでもあるだろうし、この映画を作るにあたっての自戒でもあるだろう。
その自戒は同時に観客には跳ね返ってくるものでもあるだろう。

10月3日のつぶやき

2019年10月04日 | Weblog
この時はまだリゲティではなく「禿山の一夜」を当てていたのだな。

「ボブ&キャロル&テッド&アリス」

2019年10月03日 | 映画
1970作年。昔の言葉で言うとスワッピングという奴で、二組のカップルがパートナーを交換する、当時とすると性の解放とか自由といった新しい風俗みたいな捉えられ方をしていたらしいが、今見るとむしろ本当に愛しているのかとかセックスにしてもどうあるのが正しいのかとか、答を求めてじたばたしているアメリカ人の変なマジメさの方が目立つ。裏返しのピューリタリズムというか。

こういうしつっこさというのはやはり西洋産という感じで、2004年の「クローサー」なんかも似た感じだった(そして日本ではまず不評だった)のを思い出した。

CSの番組ではタランティーノが解説に出ていたが、この人がもともと役者で、四角関係みたいにややこしい関係を演じるのは役者とするとやりがいがあるのを知っているのではないかと思った。役者がやりたくなるような役をシナリオで書けるというのが大きな武器なわけだし。



10月2日のつぶやき

2019年10月03日 | Weblog

「アイネクライネナハトムジーク」

2019年10月02日 | 映画
10年の時代の変化を主にテレビがブラウン管式から薄型、携帯がガラケーからスマホといった典型的な形で表している。ホントにこの通りなのだろうかという気もするが、わかりやすい。

ちょうど貫地谷しほりその人が結婚したというニュースが流れた後で見たのが妙に効果的。余談だが、週刊文春だかで当分結婚はなさそうであると書かれた直後。
と思ったら、多部未華子も結婚。こういうこともあるのだな。

オープニングで仙台駅前の交差点の上にかかった大がかりな歩道橋とそこで行きかう人々を見せるのが、伊坂幸太郎原作の人々の交錯ぶりを象徴しているようで、映画としても人と人との出会いというのが偶然と決定的なものとの間の揺れ動きのようなものがよく出た。

そこでいつも歌っている路上アーティストがしまいに10年変わらないと何かファンタジックなものに見えてくる。