曇、25度、90%
昭和30年代、九州から東に向かう寝台列車に「あさかぜ」という特急がありました。昭和50年代に入ると新幹線が出来ました。昭和32年生まれの私は東に向かうのに小さい頃は「あさかぜ」次は「飛行機」「新幹線」と乗り物の変遷があります。「あさかぜ」に乗るのは年に数回です。真っ赤な夕日が差す博多駅の光景が記憶に残っています。ほとんど母と一緒でした。寝台列車はあの狭いところで寝る楽しさもありますが、翌朝の「食堂車」での朝ごはんも楽しみでした。メニューは2つしかありません。「洋定食」「和定食」。なぜがいつも「洋定食」を選びました。「洋定食」パンとハムエッグ、ジュースのようなものだったと思います。ナイフとフォークが出てきました。自分で選んでおきながら、ナイフとフォークで「目玉焼き」を食べるのに小さい私は苦戦しました。
このところ午後はずっとチクチクと針仕事をしています。目の前にはPCを開いて「プライムビデオ」をずっと流しています。テレビドラマ、洋画何でもあります。一昨日古い邦画「家族ゲーム」を見つけました。松田優作主演、1980年代の映画です。封切られた頃は息子が小さく子育ての真っ最中、映画館で見た記憶はありません。家族が一列に並んで食事をする光景が話題を呼んだ映画でした。
チクチクしていますから目はほとんど手元しか見ていませんが、伊丹十三や松田優作の様子にチラチラと目を上げます。最初のタイトル画面すぐでしたか、一列に並んで食事をする家族が映し出されます。その時伊丹十三扮する父親が目玉焼きの黄身に口をつけて黄身を「ズルズル」と音を立てて吸うシーンが大写しになりました。この映画の中で伊丹十三が「目玉焼き」の黄身を同じようにして吸うシーンはもう一度出てきます。にんまりと昔の自分を思い出しました。
まだ10代の私が寝台特急「あさかぜ」の食堂車でナイフとフォークを使って食べた「洋定食」の目玉焼き、黄身を潰さずに食べる方法として考え付いたのが、「吸い付く」でした。一瞬、頭を下げてお皿の上の黄身に吸い付きます。まだほの暖かな黄身の甘さが口に広がります。あの頃から半世紀近く私は相変わらず「目玉焼き」の黄身が好きです。
「目玉焼き」の黄身に吸い付いていたのは10代までの話です。大きくなった私は白身を綺麗にナイフで切り落とし、黄身を潰さないように大きな口を開けて一口で黄身を食べあげます。お皿も汚れません。口の中には黄身の甘さが広がります。吸い付いていた10代、ひと口でパクリと食べてきたその後、「目玉焼き」の食べ方は今も変わりません。
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